誰かの記憶の中に生き続けられる人でありたい
先日実家に帰った時に家族と小さい頃の話をする機会があった。その経緯としては、今年成人式を迎えた僕の成人式に誰が来ていたかという話からであった。
地元の友人達と久しぶりに再会することとなった成人式だったが、中学時代の友人、小学校時代の友人と再会しただけでなく当分会っていなかった保育園の頃の友人にも再会することができた。
そんな話をしているうちに保育園の頃の友人の話になり、父が〇〇ちゃんいた?と聞いてきたのだ。
〇〇ちゃん?
全く聞き覚えのない名前だった。他に聞かれた名前はなんとなく聞いたことがあったり覚えていたりしたが、その子のことが思い出すことができなかった。
母にも確認したが母もそんな子はいないと言っていた。外出先から自宅に帰り保育園の頃の卒業アルバムを確認すると〇〇ちゃんの名前があった。
しかも集合写真で自分の隣に写っている。
本当にそんな子いたっけ?
それくらい覚えていない。顔を見てもその子だけ思い出せない。その子には少し申し訳ない気持ちになった。
でも保育園の頃の記憶だから覚えていなくても当たり前だろうと思う、しかし覚えている子と全く覚えていない子の差はなんだろうか?
少し気になって考えてみた。父の話によると〇〇ちゃんは優秀で真面目な子だったそうだ。
たしかに真面目そうな顔立ち、性格もしっかりしていたのだろう。
逆に自分の記憶にある子たちを思い出してみる。小学校同じだった子、中学校も同じだった子、これは覚えていて当然だ。
それ以外の子ももちろん覚えている。
園庭で相撲を取って喧嘩した子、1人だけ落ち着けない変わった子、いつも悪さばかりするワンパクな子、いつも泣いたり笑ったり感情豊かだった子。お父さんが区議会議員だった子。
そういう子達の事は鮮明に覚えている。
その子たちの共通点を一言で表すと「異質」だ。
全く悪い意味ではない。いい意味だ。他と違うこれがどれだけ重要であるかを考えさせられる。
記憶の中に残るのは普通で真面目な子の記憶より、一風変わったヤンチャな子の方が残る。
皆さんも考えてみてほしい。記憶を辿って思い出すのは、あの子あんな馬鹿なことしてたな、あいつ変わってたよね。などの普通じゃない記憶達だろう。
普通が悪いとは思わない。自分も世に言う普通な人のうちの1人だ。
ただ、noteをやってみることもそうだが、周りのその他大勢の大学生がやらない事をやってみる。そんな些細な行動でも、あいつnote毎日書いてたなとかあいつの文面白かったよなって誰かの記憶に残れる筈だと信じている。
誰もがやる何かではなく、誰もやらない自分だけの価値を探しながら今日も僕は誰かの記憶に残ろうと必死に爪痕を残すのである。
結局何が言いたいのか、それは
たとえ今この瞬間に死んだとしても、
誰かの記憶の中に生き続けられる人間に僕はなりたい。
今回はこの辺にしておきます。
ではまた。
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