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患者に共感しない医師が多い理由

みなさんは病院を受診したときに、
「この先生は自分のことには全く興味がなくて病気のことしか考えてないな。」
などと不満を感じたことはないだろうか。

僕には、ある。

そして患者に共感しない医師が多くいることに憤りを覚えていた。

なお、ここでいう「共感」とは
「相手の心境を自分のことのように感じること」とする。

今回はそんな経験をしたことがある方達にこそ読んでほしいと思う。

興味があれば是非最後までお付き合い願いたい。

医師を目指すと決めたとき、
「そんな風にはなるまい」と思った。

実際、医師は医学部の過程で患者に対する「傾聴」と「共感」を徹底される。

患者の話を親身になって聞き、相手の気持ちを理解し汲み取ることによって、
医師と患者は良好な関係を築くことができる。
そのための考え方や声かけの方法を学んだ。

「病気だけを診るのではなく、人を診るのです。」

医療者なら誰もが一度は聞いたことがあるセリフだ。

僕が医学部に入学しその教えを学んだとき、自分の正しさを再認識した。
皆、実際そうあるべきだと思った。

やがて僕は研修医になった。

研修医は2年間のうちに1-2か月単位で多くの科をまわり、それぞれの科に対する理解を深めつつ、自分の専門分野を決めていく。

研修中に多くの先生と出会い、色々な知識や経験を学ばせてもらった。

それは当初、刺激的で有意義な毎日だったが、やがて医師に対するある種の不信感を抱くようになった。

共感力のある医師がまるでいない。。

頭がよくて優秀な医師はたくさんいた。

しかし検査で癌が見つかった患者や、
まもなく亡くなろうとしている患者について医師同士で話し合うとき、
その境遇・心境に共感している様子の人は誰1人としていなかった。

皆、検査結果などを見ながら淡々と
「これはもうダメだね」
などと日常会話のテンションで話す。

その患者をよく知らない医師ならまだしも、主治医でさえ同じ有り様だ。

「医学部で習った共感の教えは一体どこに行ったんだ。。」

研修中、そういったやりとりを何度も目の当たりにし、僕はやるせない気持ちになっていった。

その一方で僕は研修期間中に担当させてもらった患者と真摯に向き合い、
時にその死に立ち合い悲しみに暮れた。

たとえ全ての患者を病気から救うことができなくても、心は寄り添うことができる。他の先生のように僕はならない。

そういう思いで自分は他の医師とは違うという誇りを持って研修に臨んでいた。

研修医1年目の冬。

当時は消化器内科での研修中だった。
あるとき、胃癌の治療目的に80代の女性が入院してきた。

内視鏡検査で胃癌が見つかり一刻も早い治療が望まれた。
幸い、抗癌剤と手術で治癒が見込める状態だった。

僕は空いた時間を見つけては病室を訪れ、その老婦人と多くの話をした。
その方には強い生きる意思があった。

「孫が大きくなるところが見たくってね。」
「できる治療があるなら何でもしてください。私も頑張ります。よろしくお願いします。」

そう僕に言ってきた。
だから
「全力で対応させていただきます。」
と伝えた。心からの言葉だった。

生きたいと強く望むこの人の願いを叶えてあげたい。
抗癌剤の治療は副作用もあって辛いだろうけれど、できるかぎり僕が心に寄り添って支えよう。そう思った。

治療方針としては、まず抗癌剤で腫瘍を小さくしその後に摘出手術を行う。
そういう手筈だった。

やがて抗癌剤の投与が無事終了し、CT検査で腫瘍の再評価を行なった。

検査結果を見て愕然とした。

腫瘍は入院前より大きくなっていた。
さらにはリンパ節や他臓器にまで拡がっていた。
もはや手術ができないことは研修医の僕の目にも明白だった。
やれるのは、延命のための抗癌剤治療だけだ。

その老婦人の主治医、僕の指導医にあたる先生は、その結果を見るや

「あー、これは厳しいね。」

とまるで優れない天気の話でもしているかのような他愛のない様子で僕に言った。
この人も何も感じないのか。
また僕はやるせなさを覚えた。

程なくして主治医から本人とその家族にこの事実を伝える日がやってきた。
その場に僕も同席した。

その先生は現状と今後の見通しについてゆっくりと説明した。

手術が難しくもう治癒が期待できないという事実に、老婦人は大きくショックを受け言葉を失っていた。
家族も目に涙を浮かべながら話を聞いていた。

話し合いが終わり医局に戻るとその先生はすぐに別の先生と雑談をしていた。

「もしあの患者さんが自分のおばあちゃんだったとしたら、果たしてすぐにあんな態度が取れるのだろうか。」

自分には何もできないもどかしさ、悲しみと相まって、僕は苛立った。

そこからの展開は僕にとって地獄だった。

もう治せないと伝えた当日の夕方。
午後の様子を伺うために主治医と共に老婦人の病室に向かった。

残酷な事実を告げられたその人に、かけるべき言葉をずっと考えていた。
しかし病室の前に辿り着いてもついぞ思いつかなかった。

それでも今その老婦人はショックを受けており、きっと現実に絶望している。
だから何か言葉をかけなくては。そんな思いで扉に手をかけた。

扉を開けると、僕が予想していた以上に力強い眼差しで、その老婦人は目を見開きこっちを見ていた。
しかし、その眼差しは「絶望」を乗り越えた人のそれとは違っていた。

こちらが話しかけるまもなく、老婦人はいつになく強い口調で
「先生、何とか手術をしてください。
お願いします。お願いします。」
と声を上げた。

老婦人はその痩せこけた手で主治医の袖を精一杯掴み、何度も懇願した。

「やれる限りのことはやらせていただきますが、手術はできません。」
主治医は優しく、でもはっきりと伝えた。

「先生、治療できるって最初に言ってだじゃないですか。お願いします。」
口調こそ丁寧であったが、表情は怒りに満ちていた。

僕は目を逸らし黙って俯いていた。
それしかできなかった。

まるで嘘がバレた詐欺師の気分だった。

治る治るといって励まし続け、蓋を開けてみれば治療の施しようがありませんでした、など詐欺にしても出来が悪すぎる。

自分なりにかけるべき言葉を必死で探した。でも見つからなかった。
相手の気持ちを考えれば考えるほど、迂闊なことは言えなかった。

「本当に辛いですよね。」
「どうしていいか分からないですよね。」

そんな安っぽい共感めいた言葉が思い浮かんでは消えていく。
一体それがこの場で何の役に立つというのか。

老婦人の気持ちの昂りはほとんど収まることなく、僕らはその場を後にした。

その翌日から、空いた時間ができてもその病室を訪れようと思えなかった。

こんなときこそ寄り添ってあげるべきなのは分かっていたが、あの怒りに満ちた強い眼差しを忘れることができなかった。

やがて、老婦人の容態は徐々に悪化した。

もともと癌そのものや抗癌剤の副作用による腹痛、嘔気といった症状があったが、治るという「希望」を支えに耐えられていた側面があった。

今やその希望が取り外され、活力はみるみる失われていった。
そして癌は着実に進行した。

徐々に腹痛の訴えが増悪し、疼痛緩和のためのモルヒネが日毎に追加された。
それに伴い、意識は微睡みがちになった。

もはや会話もままならない日々が続いた。

そんなある日、指導医と共にその老婦人の病室を訪れたときだった。

その日、老婦人は弱々しいながらも珍しく目を開きこちらを見ていた。

そして、あの日と同じようにさらに痩せこけた手で主治医の袖をそっと掴み、囁いた。

それは、すぐ隣にいる僕の耳元までも届くかどうかの、小さな声だった。

「もう、殺しておくれ。」

消え入りそうなその言葉が、僕の脳みその奥深くまで響き渡った。

頭の中でぐわんぐわんと大きな音がした気がした。
何か悪い夢でも見ているのかと思った。いや夢であってくれと願った。

あれだけ生きることを強く望み、僕に希望を語りかけていた老婦人。
それが半月も経たないうちに苦痛と絶望の中に飲み込まれようとしていた。

一体どんな気持ちだったろう。
思いを巡らせようとして、やめた。
これ以上共感することに恐怖を感じた。

数日後、老婦人は亡くなった。

「とても残念だったけど、こういうことはよくあるからね。」

病室でお見取りを行い医局に戻った後、僕のうなだれ様を見て、指導医は言った。

もはや指導医に対し、憤りも苛立ちも覚えなかった。

僕はただ共感しようし失敗し向き合うことから逃げただけだ。
実際に患者と向き合い、最後まで話をし続けたのは、間違いなく指導医の先生の方だった。

そこでようやく僕は悟った。

患者に共感し、出来る限り寄り添う。
同じ気持ちを共有する。
ほどなくして患者が亡くなる。

これを何度も何度も何度も繰り返す。
医師として働く限りずーーっと。


無理だ。

こんなの持つわけがない。
少なくとも僕には。

今までの僕が見た医師たちは、
「共感できない」のではなかった。

あえて「共感しない」んだ。

「共感しない」ことが、
数多くの絶望と死を前に自我を保つための「苦肉の策」だった。

1人の生と死と絶望の一部始終を見て、僕はようやく理解した。

思いの強さの程度の差はあれど、
人の命を救うために皆この仕事をしている。

そんな人たちが皆、共感能力を欠いているはずがない。

僕ら医師は人の死と絶望を目の当たりにするたび、そっと「共感する心」を閉ざしていくのだ。

そうして患者に共感しない医師が誕生する。

医師も普通の人間だ。
元から機械みたいに共感できない人ばかりではない。
だからどうか、

勉強ばっかりしすぎて、人の心がなくなったんだ。

などという心ない言葉をすぐに投げつけるのはやめてほしい。

もしあなたに心の余裕があれば、
過去に何かあったのかとほんの少しだけ思いを巡らせてみてほしい。

ただし、これはなにも患者に共感しない医師を正当化しているわけじゃない。

そもそも程度問題というのがあって、
患者に共感する努力を全くしない医師は論外であり、怠慢だとさえ思う。

患者の心の痛みを推し量ることはどんなときも重要なのは議論の余地がない。

それでも「相手の心情に寄り添い、同じ感情を共有する」というレベルでの共感は、医師にとって茨の道であることは知っておいてほしい。

今回、僕が伝えたいのは以上だ。

拙い文章を最後まで読んでくれて本当にありがとう。











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