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あきらめ : 「パトリックと本を読む」 II ミシェル・クオ

この本はアメリカの深部、アフリカ系のルーツを持つ人たちの現実を、台湾からの移民を両親に持つ著者が、まず教師として知ることから始まる。

差別の話題は好まれないようだと、I を公開してみて思った。
でも、また書く。

被差別階層の人たちを描くノンフィクションでもフィクションでも、「あきらめ」が状況をさらに悪くしてしまったり、あるいは「あきらめない」ことがアメリカン・ドリームや〈白人〉社会で名をなすことに不可欠なものとされる。

同じ事をしても罪をとがめられもしない人たちがいて、自分たちは重罪になり、一人の〈白人〉が殺されると、報復に何百人のアフリカ系が殺される「暴動」が起きる。

類稀な才能や、運や、命がけの努力がないと抜け出せない。
いや、それでも抜け出せるのは何十年にたった一人なのかもしれない。

生まれて物心がついたときにはそんなふうになっていて、「あきらめない」ことができるだろうか。

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わが身を振り返っても、自分の能力や積み重ねだけで、何かを得てこられたわけではない。
家庭や、育った場所、経済状況など、どれか一つが違ったら得られなかったことがたくさんある。
なにかを「あきらめなかった」というより「あきらめることを知らずに済んだ」部分もある気がする。

この本に出てくる生徒たちや、奴隷が解放されてさらに苦しめられることになったアフリカ系の人たちの「あきらめ」。

彼らが彼ら自身をあきらめた、とき、彼ら ”に” 「あきらめられた」社会や、彼ら “が” 「見放した」人たちがいる、と気づいた。

差別をされてそれに立ち向かうのは、とても消耗するし、状況はビクとも動かない。
黙って気にせずに流して、あきらめる方が楽だ。

その思いは、差別される自分をあきらめ、差別を受け入れるというより、差別する側の卑しさや人としての恥ずかしさを、修正されないもの、改善の余地のないものとして放棄しているんだ。

あきらめられて、呆れられて
「改めないし、言っても無駄な人たちだね」

そう思われ、見捨てられているのはこちらなんだ

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