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自分の「自分語り」 ~サバイバルした理由~
長年、自分がエンパスということを知らないまま保ってきた。
エンパスであることで自分にかかる負担は大きい。 自分の中のアンバランスさによる歪みは当然あって、現在進行形で修正中。それでも大きく崩れることなく、アンバランスなりに保ってきたのはなぜだろう?
思い当たることが大きく2つあった。
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① 親戚交流
家庭環境がエンパス強化訓練所の役割を果たしていた。訓練所で生活し、学校でも訓練する私。息つくときがなければ普通ならどこかでダメになるが、そうはならなかった。その鍵のひとつは親戚との交流にあったと思う。
両親共に地方出身で、生まれたころから、かなり頻繁に、といっても離れているので、学校入学以降は長期休み毎だが、いわゆる"田舎のおじいちゃんおばあちゃん"のところに行っていた。
田舎に行けば、多くの親族が車か電車で訪ねられる範囲に暮していた。 春夏冬の休みになると、祖父母の家へ行き、そこを起点にさらに他の親戚の家でも数日ずつ泊まる、といったことをしていた。
いつも休みが待ち遠しかった。普通、自分以外の家、というのは勝手も違うし遠慮したり落ち着かないだろうが、私はとにかくほっと出来た。
今思えば、それだけ自分の家が訓練の場だったから、親戚の家のほうがずっと楽にいられたのだ。親戚の中に、自分の気持ちや感情を抱えられず、誰かに頼る人がいるなら、そこでもエンパスとして活躍することになっただろうが、皮肉にも両親以外は皆多少の差はあれど、ずっと自分の内面を見ることが出来ていて、私がエンパスになる必要がなかった。
定期的に親戚の家で休息を取ることが出来ていた。 この休息がなかったら?と考えると、曲りなりにも今大きな支障なく生活できているとは到底思えない。
学校が休みだから遊びに行っている、ぐらいに思っていたが、私にはそれ以上の意味があったのだ。
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② 興味関心からブレない
両親を始め、周りの人たちの気持ちや感情を味わうばかりだった私は、その延長で、遠い国にいる飢餓に苦しみ学校にも行けない子どもたち、生まれながらに様々な苦悩を背負って自分らしく生きる道が開かれてない人たちに対して、いつも興味関心が向いていた。彼らの感情はまさに自分の感情となり、何が出来るだろう、何かしなければ、と絶えず考えていた。
結局大学でも、そのあともずっと支援関連の学びを続け、今も対人援助の現場に身をおいている。得意分野を活かしたというわけでは決してなかったが、ずっと気になる領域だった。結果的にエンパスであることがかなり有効な分野に身を置いている。
自分自身に目を向けるという機会がほとんどない環境で育っても、その術がわからなくても、自分と同じようなものを抱えている人に向かうパワーはあり、自然と意識は、自分も存在しているであろう方角に向いていた。
他人の状況や状態を改善したり解決したり、その一助となるには、そしてそれにコミットし続けたければ、自分を保つということにどこかで意識がいかなくてはいけない。
周りを助け続けたい、という他の誰のものでもない、自分の気持ちがそこにあって大切に出来たからこそ、疲弊して倒れるまでやり続けるのではなく、自分のアンバランスさの修正というアクションにつながったのだ。 ここにエンパス発見も含まれる。
もし、安定しているから、とか、稼げるから、という、他人や世間の尺度だけで自分の道を選んでいたなら、途中で自分を完全に見失っていたように思う。
私にとっては、対人援助分野に身を置くことそのものが、最初は間接的でも自分から目を反らさず、気持ちから離れないということでもあった。
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生きる上で訓練せざるを得なかった能力があって、そこからドロップアウトしないよう、休息の機会が与えられ、また能力を活かせる仕事をしている。
これは必然だったような気もしながらやはり意外だったし、両親にとってはまさに盲点だったに違いない。
エンパス ゆえに、その力を使いつつ、苦しさを感じている人が少しでも楽になり、また、共感力をこれ以上強化せず、むしろうまく活かすための手助けになることも今後綴りたいと思う。
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