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パワハラ死した僕が教師に転生したら 14.サイコパスな社長(後編)

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 前世の最後に教師が勤めていた会社。その会社の社長から受けたパワハラについて教師が話した後の教室。
 少しの沈黙の後、生徒達はすぐに口を開く。
 教師の8回目の社会の授業の続き。
 
「うー・・・・・なんで大人の世界はこんなヤバイ人ばっか?これ、本当の話?大人の世界はテストピア?」と顔を引きつらせた優太が言う。
「本当です、僕は生徒に嘘をつくために転生してきたのではないのです。今の社会の一部は、まさにディストピアなのです」
「・・・・・でも、前世の先生もナチュラルに火に油を注ぐ性格というか・・・・・なんでそんなところで変な顔で微笑んだりしたのですか?」と文香が訊く。
「あの頃、僕には休みがなく、過労で、いつも朦朧としていたのです。そんな中で強く感じたこと、あの社長の不幸な生い立ちへの哀れみと、非人間的な人格への蔑みが、ほんの一瞬、顔に出てしまったのです」
「うー・・・・・でも、それがなきゃ、前世のアトム先生はまだ生きてるんじゃ?」と優太が言う。
「それ、今日、二度目な」と頬を少し赤らめていた冬司が呆れたように言う。
「・・・・・まあ、確かに、前世の僕には間の抜けたところが沢山あったのです。思う事がそのまま表に出てしまう、世渡りが下手な、子供みたいな大人だった。いや、子供のままだったのです・・・・・でも、圧倒的に悪いのはあの社長なのですよ、やってることが滅茶苦茶だ・・・・・あんな暴力が許されて良いはずがない、冗談ではないのです。例の店長のパワハラも、元をたどれば彼のせい、彼が諸悪の根源、戦うべき敵なのです」と声を荒らげる教師。
「パラノイアとサイコパスの戦い、か」と颯太が白けた口調で言う。
「・・・・・今の僕は、前世の僕の生年月日に遡って生まれています・・・・・それで、僕が転生し生きてきたことが、この世界に影響を与えていないとすれば、あの社長は今、この世界で労働者に、そして、この世界で生きている前世の僕にも、ひどいパワハラをしているのです・・・・・本当に許せない、冗談ではない・・・・・僕には転生条件があるので、彼に会うことはできない・・・・・そうしようとすればひどい頭痛で気絶する・・・・・でも、もし戦えるなら・・・・・戦いたい」
「まあ、腕力では勝ち目はないが。ビンタで倒れるし」と冬司が言う。
「・・・・・でも・・・・・刺し違える覚悟でやれば」と教師が声を震わせて言う。
「・・・・・先生は、そんなことをするために、転生してきたのかなぁ?・・・・・それじゃあ、何のために転生してきたのか、分からなくなっちゃうんじゃ、ないのかなぁ?」と愛鐘が言う。包み込むような優しさと奔放な無邪気さの同居した、不思議に人を引き付ける大きな瞳が教師をじっと見つめている。
 
 しばらくの間、うつむいて黙り込んでしまう教師。
 
「・・・・・そうですね、確かに・・・・・ああ、僕は何を言ってるんだろ・・・・・僕は授業をやります。
 ・・・・・それで、社長がサイコパスになってしまうもう一つの原因は、ビジネスで大きく成功するまでに彼らが経験する、壮絶な苦しみです。
 大きな成功、大きな利益を望む社長は、恐ろしく苛烈で残酷なビジネスの道を、一時も休むことなく、突き進まなくてはならない。そして、その道の途中で、彼らは何度も何度も叩きのめされ、突き落とされるのです。それでも彼らは立ち上がり、この苛烈で残酷な道を、その先に成功があるかどうかも定かでない道を進む。こういうことを繰り返しているうちに、彼らの精神が変容してしまうのです」
 
 落ち着きを取り戻した教師が、授業を続ける。
 
「まず、大きな成功をしようと思ったら、その基となる小さな成功を掴み取る必要があります。それは、例えば、ゲームを作る会社をやるなら、お金も人手もない中で作ったゲームが少しは売れること、飲食業をやるなら最初に出したお店が少しは繁盛することです。
 商品やサービスを作り、売り、利益が得られたという小さな成功。そして、これを基にビジネスの規模を拡大していけば大きな成功ができるであろうと確信できる、小さな成功が必要なのです。あるいは、小さな成功が、革新的な商品やサービスの発明、イノベーションである場合もあります。
 しかし、この小さな成功を掴むことすら容易ではありません。ビジネスを始めたばかりで技術や経験が足りないということもあるし、掴み取れるかどうか不確実な小さな成功のために暗闇の中で何年も努力と忍耐を続け、もがき続けなければならない、という難しさもあります。ビジネスを立ち上げるための資金も必要、そして、小さな成功をするまでは、お金は出ていく一方です。だから、大抵の人は、どこかで諦めてしまいます。労働者の方が楽なのです」
 
「そして、ようやく掴み取った小さな成功を大きな成功につなげるには、高速でビジネスの規模を拡大していくこと、そして、そのためのスピードが必要です。
 ビジネスの世界では、誰かが苦労して生み出した商品やサービスを真似たり、盗んだりすることは当たり前です。小さい会社も大きな会社も、利益が得られるなら、何の恥じらいもなくそうするのです。苦労して掴み取った小さな成功が、あっという間に、他の会社に模倣されてしまう。だから、そうされる前にビジネスの規模を拡大し、お客さんを勝ち取り、ブランドを確立する必要がある、そのためにはスピードが必要なのです。
 そしてまた、確実に大きく成功したいと思うのなら、一秒でも早く、そのビジネスを取り巻く環境が変わってしまう前に、実際に大きく成功することです。そのためにもスピードが必要なのです。性急に、そのビジネスの成功のために今日できることは、今日すべてやりきる必要があるのです。
 しかし一方で、ようやく小さな成功をした段階の会社には、少数の労働者しかおらず、優秀な労働者を雇うお金もありません。そうなると、高速でビジネスを拡大するには、まず社長自身が、死に物狂いで働くしかない。社長が、自らに過酷なノルマを課し、過酷な労働をする、そのことでスピードを獲得するのです。そうやって、自分を追い込み、ギリギリの綱渡りをするようにして、ビジネスを急拡大させて行くのです。
 そして、そうやって生きている彼らは、いつも極限的な状態にいて、心にも身体にもゆとりがありません。しかし一方で、労働者は彼らの高い期待通りには決して動いてくれない。彼らは深く失望するとともに、労働者に期待した分まで自分で働くことになります。
 そしてまた、ビジネスの急拡大は、会社の存続を脅かすトラブルを生み出します。彼らは何度も、倒産、すなわち会社のお金がなくなり、給料や他の費用を支払えず、借金も返せず、会社を続けられなくなること、この倒産の危機に叩き落され、敗北への恐怖で頭が一杯になります。でも、彼らは立ち上がり、必死で危機を乗り越える。そして、自分を更に追い込みます・・・・・前へ、前へ、前へ・・・・・早く、早く、早く・・・・・。
 こんな極限状態で何年も過ごしているうちに、彼らの精神は変容してしまうのです。感情が鈍化し何も感じなくなったり、ひどく冷酷になったり、常に怒りに満ちて攻撃的な性格になってしまう社長も出てくるのです・・・・・もちろん、そうでない社長もいますが、一部の社長はサイコ社長となってしまうのです」
 
「うー・・・・・社長って、偉そうに命令してるだけの人じゃないの?そんなに大変?」と優太が訊く。
「・・・・・ゼロから大きく成功しようと思ったら、本当に大変なのです。先ほどの社長の自伝にも、彼の苦労が色々と描かれています。
 彼は高校卒業後に起業のために上京するのですが、何をしたら良いか分からず、何年もアルバイトをしながらなんとなく過ごしていました。そして、二十五歳の時、彼に初めての彼女が出来ます。これをきっかけに、彼は自分を見直すことになります。彼は我に返り『何をやってたんだ、僕は・・・・・何年も、貴重な時間をドブに捨ててしまった』と深く自分に懺悔したそうです。そして、たまたま彼女と入ったファミレスで、彼は、隣の席の子供、お父さんとお母さんと一緒に幸せそうに料理を食べている八歳位の男の子の笑顔に心を奪われます。自伝には『僕はひどい育ちだから、こういう子供を見るとやっかんでしまうんだけど・・・・・でも、その時は、子供をこんな笑顔にできるなら、こんな笑顔を見ることができるのならって、ただそう思った。それで、僕は飲食業での起業を決意した』と書かれています・・・・・あのサイコ野郎が、随分と可愛いことを言うものです」と言い、眉間に皺を寄せて髪を手荒くかき上げる教師。
 
「うー・・・・・パラノ野郎にサイコ野郎・・・・・」と優太が丸い瞳を細めてつぶやく。
 
「・・・・・自伝には、他の理由も書かれていて、それは、飲食業は参入障壁が低い、つまり、誰でもできる、何の技術もない自分にもできそうだ、ということでした。
 そして、彼はあるファミレスの正社員となります。ファミレスを運営するノウハウを吸収するため、それから、起業のための資金、自分の会社の株主となるためのお金を貯めるためにです。彼は、ノウハウの吸収のためには一刻も早く店長になる必要があると考え、猛烈に働きます。彼の仕事振りはその会社の社長に絶賛され、彼はあっという間に店長に、そして数年後にはスーパーバイザーとなります。帰宅した後は、独学で調理を学び、起業に備えてレシピを作ったり、有名な社長の書いた本や会社の経営に関する本を読み漁ったそうです。毎日の睡眠時間は3時間、更にお金を貯めるために休日は引越のアルバイトをする。そして、恐ろしく質素に暮らしています。
 ちなみに、その彼女とはすぐに破局しています。自伝には『僕のことも、僕の夢のことも、理解してもらえなかったし、彼女のことも理解できなかった』と書かれています。それ以降、彼の自伝に女性は登場しません」
 
 教師が淀みなく早口で授業を続ける。

「その後、彼はその会社を退職し、三十歳で自分の会社を作り、社長になります。そして銀行から借金もして、雑居ビルの1階に小さなレストランを出店します。メニューは普通のファミレスと同じハンバーグやステーキやパスタ、料理の値段は中価格帯のファミレスと同じ。だけどそれよりワンランク上の食材と味、丁寧な接客、リッチ感のある店構えと内装。それは、チェーン展開を前提に彼が考え抜いた1号店です。しかし、お客さんが少ししか来ない、鳴かず飛ばずの時代が続きます。毎月の借金の返済を済ませ、自分のささやかな生活費を払えば、後は何も残りません。彼の頭にあったのは倒産の恐怖、そして、こんなはずじゃなかったという後悔です。でも彼は、決して諦めなかった。
 
『負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか』
 
 何が悪いのか、何をすればもっとお客さんが来るのか、何を変えれば利益が出るのか、彼はレストランを閉店してから夜明けまで必死に考え、学び、試行して行きます。もっと料理を美味しく、もっと良い接客を、もっと高級感を・・・・・彼の懸命な努力でお客さんは少し増えますが、それでもとてもチェーン展開の出来る状況ではない。彼は何度も何度も考え直し、ようやく根本が大きく間違っていることに気付きます。それは、料理の値段と立地のアンバランス、そして、他のレストランとの差別化ができていないということです。彼の店は雑然とした、下町のようなところにあった。この街の多くの人達にとっては、彼のレストランの値段は高く、高級感のある店構えは近寄りがたい。さらにメニューも他のファミレスと同じありきたりのもので、店に入る気持ちにならなかったのです。
 食材も味も、接客も、本質じゃない・・・・・その街の人達に見合った値段、そして、他にはないメニュー、ここを起点に考えなければ、絶対に駄目だ・・・・・彼は毎日、夜明けまで、必死に考え続けます。
 三十五歳になった時、彼は勝負に出ます。レストランの店名とメニューをいかにもフレンチ風なものに変え、料理の値段をこれまでより安くしました。そして、借金をして、外装と内装を下品とも言える程に親しみやすいパステルカラーのものに変え、誰もが気軽に入れる雰囲気にした。これが正解だった、キセキが起きたのです。昼食時や夕食時はいつも満席で、並んで待っているお客さんがたくさんいる。紅茶やデザートもフレンチ風の珍しいものをメニューに掲げたので、おやつ時も客足が途絶えませんでした。自伝には『飲食業での起業を決意してから10年、ずっと恐ろしく働き続けてきたことを、ようやく神様が認めてくれたようだった』と書かれています」
 
 休むことなく早口で授業を続ける教師。
 
「しかしここからが、彼の本当の苦しみの始まりです。彼はすぐに2号店の出店に着手します。チェーン展開に備えた調理と接客のマニュアルを作り上げ、2号店の候補物件を何十件と見て回り、銀行と借金の交渉をし、店の外装や内装を施工業者と何度も打合せ、2号店のための社員とアルバイトを雇い、彼らに調理や接客を叩き込む。これらと並行して、1号店の店長を自分でこなしながら、1号店の社員を店長にするための指導もしています。そして、2号店がオープンしてからは、1号店と2号店を行き来し、その管理をしながら、3号店の出店に着手しています。この時期、彼は、ほとんど眠らなかったそうです。
 彼が恐れていたのは、他の会社が、彼のフレンチ風ファミレスを真似たレストランを展開してくることでした。だから、彼は猛烈なスピードで出店を進め、ブランドを早期に確立する必要があった。フレンチファミレスと言えばここだよね、と言われる代表的なチェーン店に、一刻も早くなる必要があったのです。彼は、早く、早く、もっと早くと、いつも焦っていた」
 
「しかし、急速なビジネスの拡大には危険がつきまといます。彼は4号店で手痛い失敗を経験します。4号店を、小粋なカフェやブティックの立ち並ぶ、おしゃれな街に出店してしまったのです。4号店にはお客さんが入りません。この街に集う人達にとっては、彼のファミレスは庶民的過ぎて、下品に思えたのです。自伝には『出店を急ぐあまり、立地という基本を見失ってしまった。3号店までの成功で、僕には驕りがあった。そんな愚かな自分を殴ってやりたいくらいだ』と書かれています。4号店は大赤字を続け、1号店から3号店が稼いだ利益を食い潰して行きます。そして、彼がテコ入れのために4号店に張り付いている間に、1号店から3号店の売上が傾き始めます。社長が店に来なくなり、店長達が気を抜き始めたのです。4号店出店のための借金は大きく、彼の会社はこのまま行けば倒産が確実でした。彼は1号店から3号店の店長を集め、『僕が見ていなければ、すぐ意識が下がってしまうのか?』と怒鳴り、返事をしない彼らを思わず殴ってしまいます。3号店の店長は辞めますが、1号店と2号店の店長は残り、彼らの必死の頑張りで1号店から3号店はなんとか立ち直ります。『ピンチに逃げ出さず、いつも一緒に戦ってくれる店長達、彼らは僕の誇りです』だそうです。
 しかし、彼が思いつく限りの策を尽くすも、4号店はどうにもならず、彼は遂に閉店を決意します。
 自伝には、夜明けに、過労で動けなくなった彼が4号店の客席のソファーに仰向けに横たわり、天井を見つめ、涙を流しながら独り言をつぶやくシーンが描かれています。
 
『負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか・・・・・戦え、戦え、極限まで戦え、さもなくば死だ』
 
 そう自分に無理矢理言い聞かせて、彼は直ちに5号店に挑むのです」
 
 何かに取り憑かれたように彼をパワハラ死させた社長の人生を語り続ける教師。
 
「その後も彼には困難がつきまといます。10号店を出店した直後、突然、取締役の1人が店長5人を含む社員とアルバイトを十数人を引き連れて退職し、他の新興ファミレスチェーンに入社する事件が起きます。『あれだけ愛していた社員に僕は裏切られた、これ以上の苦しみはこの世にない』のだそうです・・・・・安い給料と長時間労働、そして悪意と暴力に耐えられなくなっただけなのでは?・・・・・これにより、5店舗が一時閉店を余儀なくされます。そして、自伝には、『死ぬ気でやれば、できないことは何もない』と彼が言い、その5店舗を無理矢理に開店させ、彼が5店舗を毎日行き来し、アルバイトを強引に店長レベルに引上げるために身体に指導するシーンや、泣きながら仕事をする社員やアルバイトの姿が描かれています。『彼らなら必ずやり遂げると僕は信じた。そして、彼らはやり遂げた。熱く仕事をしていれば手も足も涙も出る。彼らは僕の誇りです』だそうです。そして彼は、開店から閉店まで5店舗を回った後も、夜明けまで11号店出店のために働いたそうです」
 
「それから、15号店を出店した頃に、会社のお金の出し入れを行っていた経理の人が、会社のお金を着服し、海外に逃亡するという事件が起こります。会社に残ったお金はわずかで、会社は倒産の危機に陥ります。『あれだけ愛していた社員にまた裏切られた。それでも僕は、社員を愛し続ける。彼らのために会社は絶対に潰さないと僕は固く誓った』のだそうです・・・・・この経理の人も、何度も殴られた腹いせでやっただけでは?・・・・・ここで倒産しておいてくれれば、前世の僕も死ななかったのですが?・・・・・彼はすぐに主要な支払先を回り、土下座をして、『私を信じて3か月だけ、支払を待って頂けないでしょうか、その間に必ずなんとかします。私のチェーンは必ずもっともっと大きくなります。私が命を懸けて必ずやり遂げます。そうしたら、桁の違う額の取引を必ずさせて頂きます。どうか、私に会社を、夢を見ることを、続けさせて下さい』と泣きながら頼み込み、彼個人の財産を全て会社の支払に回し、社員とアルバイトの3分の1をクビにして給料の支払いを減らし、彼と残った社員とアルバイトが極限まで働き、ギリギリのところで倒産の危機を脱します。自伝では、クビではなく『会社の危機を前に戦いに怖気づいた社員は自然と辞めて行き、会社は少数精鋭体制に移行した』と書かれていますが・・・・・」
 
「その後も同じように、彼の人生はギリギリの戦いの連続です。ようやく成功するかと思えば突き落とされる。そして戦って這い上がる。そうやって、やっとのことで成功して来たのです。
 どうしてこうも戦い続けたのか?それはずっと、彼の中に、少年時代の彼がいたからです。誰にも愛されず、誰からも必要とされず、暗い部屋で独り膝を抱えていた無力な彼が、ずっと彼の中にいた。今もいるのです。その少年時代の彼が『負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか』と叫び続けている。何一つ納得できていない、何一つ許せていない少年時代の彼が『戦え、戦え、極限まで戦え、さもなくば死だ』と叫び続けているのです。
 それで彼は戦い続けた。そして過酷な戦いの連続の中で、彼はあのような人間に、恐ろしく残酷で暴力的なサイコパスになってしまったのです」

しばらくの間、目を閉じて息を整えてから、授業を続ける教師。
 
「戦え、戦え、極限まで戦え、さもなくば死だ、という、彼からにじみ出た言葉は、彼の会社の経営理念、その会社の労働者が何を大切にし、どう働くべきかをまとめた理念となり、彼の会社のイズムとなっています。彼は、自分に課した極限までの戦いを、労働者にも求めているのです。
 彼自身が極限まで戦わねばならなかったのは、仕方がないことです。彼が起業を、恐ろしく過酷で、ほとんどの人が惨敗する一方、成功を勝ち取れば年に何億も、あるいはそれ以上も稼げるという、起業家という道を選んだのですから。
 でも労働者に極限までの戦いを求めるのは、完全に間違っている。労働者が極限まで戦い、会社が大きな利益を得ても、株主である彼とは異なり、労働者には利益が分配されないからです。労働者は、極限までの戦いをしても、その見返りを得られないのです。
 彼の自伝の最後は『でっかい夢を一緒に叶えよう、そのために一緒に極限まで戦おう』で終わります。でも、そう言うのなら、叶った夢、得られた利益を、労働者にも分配してもらわなければならない。そうでなければ、労働者にとって、それは搾り取られるだけの巨大な悪夢です」
 
 眉間に深いしわを寄せ、宙を睨んだ教師が授業を続ける。
 
「彼の不幸な生い立ちは悲しい・・・・・その逆境から這い上がり、壮絶な叩き上げの苦労の末、やっと成功を掴み取った・・・・・大した人物です。
 でも、彼の作り上げた、この集団と階層は?・・・・・彼の悪意と暴力が山ほどに流し込まれた集団と階層。この閉じられた世界の中で、安い給料で極限までの長時間労働を強いられる労働者達・・・・・蔓延する暴力、上の者が下の者を罵倒し、殴りつける。誰もが、人を罵倒し、殴りつける・・・・・誰もが極限まで追い詰められ、疲れ切り、優しさを、思いやりを、人間であることを失っている・・・・・誰もが彼に怯え、その一言で運命を弄ばれ、人生を破壊される・・・・・この集団と階層が存在することに、何の意味がありますか?・・・・・お前が、お前のレストランが、お前の会社が、この社会に存在することに、何の意味がある?・・・・・労働者を誰一人として幸せにしていない、労働者を地獄に叩き落とすだけの集団と階層・・・・・まさに巨大な悪夢だ・・・・・そう、叶えられたのは、まさに巨大な悪夢だ」
 
 紅潮した顔で宙を激しく睨みつけたままの教師。その声が大きく震えている。
 
「そう、僕はお前に人生を滅茶苦茶にされた・・・・・お前に殺された・・・・・僕はお前を、絶対に許さない・・・・・不幸な生まれだろうが、叩き上げの苦労だろうが、お前の夢だろうが、だからそれがなんだ?知ったことか・・・・・そんなことが人を殺す理由になってたまるか」と喚き散らし、教卓に思い切り両方の拳を叩きつける教師。
 
 教師が押し殺した小さな声で呻くように「夢が叶うなら、今すぐお前を殺してやりたい・・・・・僕は、生きたかった・・・・・もっと、生きていたかった・・・・・もっと、生きなければいけなかったのです・・・・・」と言った。
 
 教師の頬を涙が静かに伝う。
 
 愛鐘がゆっくりと立ち上がり、亜麻色の淡く輝く長い髪を揺らしながら教壇に向かって進む。彼女がハンカチで教師の頬をそっと拭う。
 
「大丈夫、先生は幸せになる、もう現世で幸せになってる。だから、もう、忘れようよ」と愛鐘が静かで穏やかな微笑みを浮かべて言う。その大きな瞳がやわらかく輝く。
  
 涙をぼろぼろとこぼし、大声で泣き続ける教師。


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