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『民俗小説 異教徒』- 脱出 章 - 後半 概要

ベッソーノフは夕方まで彷徨した。岸には崩壊後のゴミが堆積していた。砂の中に捨てられた船の残骸や木材がすっかり腐り、錆びていた。波はこれらをゆっくり飲み込み、鉄と木をなめ、野生の状態に戻し、人間との接触を消した。ユジノクリリスクには何人か知人がいたが、事情を説明するのが億劫だった。彼はポケットに両手を突っ込み、襟を立て、冷たい風に耐えた。黒雲が這い入り、時々とげのある白い穀物が播かれた。どれだけの時間が経ったか分からなかった。時間は意に反して伸び縮みし、この奇妙な特質がいつも彼を刺激した。人間は時間の奴隷であり、時間は自分勝手な飼い主だった。ベッソーノフは、二十年ほど前にここで仕事をしていた男と、その家族のことを思い出した。男は他の事業主に仕事を取られ、どこかへ行ってしまった。ベッソーノフは、黄昏までに病院に戻った。雪と雨が降り、頭がすっかり凍え、頭の中ではあの男のことが離れなかった。スヴェジェンツェフは廊下の奥に運び出され、同じドアの上に寝かされ、同じ布団で覆われていた。夜までに、彼はスヴェジェンツェフの枕元に屈んで目を閉じ、ピンクの旋風の中を泳ぎ去った。旋風は目の前で回転し、彼自身を持ち上げ、重苦しさと吐き気を流し込みながらゆっくり回転した。びっこの人が、彼にサンドイッチを渡して去った。胃は縮み、喉は角質化していたが、ベッソーノフは食べ物を我慢強く飲み込んだ。そして立ち上がり、蛇口に屈んで消毒臭い水を飲んだ。上下逆さになった世界では、ドアの上の死人は、天井に巨大な蜘蛛の繭がぶら下がっているように見えた。彼は急に、スヴェジェンツェフの元に行かねばならないという衝動に駆られた。彼は死人をどこに連れて行こうか、考えていると、床を掃く補助看護婦が尋ねた。「これはあなたの兄弟ですか?」彼女はスヴェジェンツェフのことを「彼」ではなく「これ」と呼んだ。女性が去ると、ベッソーノフは椅子に座ってまどろみ、再び桃色の渦巻きに包まれた。彼はこの回転に耐えられずに目を覚まし、頭痛が限界に達して、こめかみで音を立てて流れ去った。スヴェジェンツェフが鼻息を立てはじめ、辛うじて分かるようなささやき声で言った。「看護婦はもう行ったか?」「お前、何時か分かるか?」ベッソーノフはある種の怒りをもって彼と会話を始めた。「俺の時計は瓦礫の中だ。死人に時間なんて関係ない。」スヴェジェンツェフが不満げに寝返りを打ち、こう言うのが聞こえた。「俺が死んでいるなんて、よく理解できたものだな。」ベッソーノフは神経質な不安をもって、ナイフのことについて話した。スヴェジェンツェフ笑って言った。「あの現場に居合わせた人たち全員が犯人たりえた。確実に殺人犯といえる人も、殺人犯でないといえる人も、一人としていなかったのだ。そしてこの両者の間には大きな溝があり、跳び越えることも、這って渡ることもできない。天使の羽があれば渡れるが、我々の中には天使はいない。」ベッソーノフは怒ったが、スヴェジェンツェフの存在自体が自分の空想なのだから、これ以上付き合いきれないと言った。スヴェジェンツェフは言う。「世界はそもそも非現実的だ。人々は虚飾の約束事をかわし、その重みの下で辛うじて進む。例えば時間、喜び、『幸と不幸』、キャリア、豊かさ、美しい家具や異性、ガラクタへの嗜好などを背負っている。幻想よりも幻想めいたものは何か。他の幻想を否定するものは、痛みか、死か。死に、俺に触ってみろ。医者が判断したように、俺が生でないのなら、死だ。だがお前が俺の呼吸を聞くのなら、死ではない。死でも生でもないのなら…」そこでベッソーノフは誰かの気配を感じ、スヴェジェンツェフを黙らせた。人が去ると、ベッソーノフは疲れた様子で苦しそうに言った。「俺はあんな殺人が起こらなかったら、って想像するんだ。彼女は急に生き返り、医者に掛かって、全てがもっと単純に澄む。俺は彼女の腹の感触を想像しようとする。女性の腹は、柔らかくて暖かく、中に我々人間にかかわるもの全てを秘めると感じていた。中には我々の世界の重要な優しさがを秘められている。俺は忘我して彼女の腹に手を載せただろう。そこには柔らかい、優しい、テカったものの代わりに、恐ろしい、固い傷があるのだ。それなら俺は彼女の中に女性も、熱も、彼女の魂も見いだせなかっただろう。彼女は俺にとって何か偽物で、必要ないものに変わっただろう。なぜ、人生が何らかの形で過ぎるようにしたくなるのだろう。人生は必ず人を苦しめ、何か良いことが起こるとしても、それは結局、望んでいたものとは全く違う。」スヴェジェンツェフは言う。「君の家の放火、漁場で起こった事件と、その他すべての、君に起こるだろうことは、全て君が肩に背負っているんだ。アルジャークもそうだ。そうだ、お前が自分で彼の胸にナイフを刺したんじゃないのか?その後起きたこともそうだ。これらすべての魚も、アザラシも、牛も、馬も、鶏たちも。皆生きていたのに、君が殺したんだ!君の学問的キャリアと、学校での教鞭が成功しなかったことも。お前の元から妻が去ったことも。実の娘が君のことを知りたくないと書いてきたことも。地震だって、君に起こるすべては、君に運命づけられたものだ。君に外から与えられたものではなく、君によって生みだされたものだ。地震もそうだ。お前が友人とはみなさなくても、自分が責任を負って手下と見なしていた人々が死んだ時、お前だけ生きのびているじゃないか!」ベッソーノフが、これは正しいと受け入れると、スヴェジェンツェフは更にこう続けた。「もちろん、俺は正しい。大事なことは、君が何の仕事をしているかだ。誰でも皆何か、自分の仕事をしなきゃならない。君はいつだったか、全く自分のものではない、君の黒い骨には定められていない皮に入り込もうと試みた。それで今、君は乾いたホームレスだ。」ベッソーノフが、自分はまだ私は人間の顔を失っていないと反論すると、スヴェジェンツェフは、そんなことは幻想であり、自己過信だと言った。ベッソーノフは、「死が存在しないのなら」と考えながら、椅子から立ち上がった。スヴェジェンツェフの死体は、冷たく固く、沈黙していた。

一日は酸敗する牛乳のような霧の中をゆっくりと進んだ。霧はマニおばあさんの家に染み込み、おばあさんの暖かさと汁を吸い取った。その日からおばあさんの元にたくさんの来訪客があった。犬、鶏、ヒヨコ、近所の太った女のニンカ。ニンカが「島民は自分の家を買われてしまい、24時間後に島を追い出される」と言うのをおばあさんは半信半疑で聞いた。さらに、灰色の制服と黒いベレー帽を身に着けたサン・サーヌイチら文官が入って来た。「1918年生まれの国民女性ルイバコヴァ・マリヤ・ニコラエヴナはどこか」と尋ね、おばあさんに書類を要求した。おばあさんは全人生を通して集めた書類を引っ張り出してきたが、その人たちはパスポートだけを取り出して言った。「二十四時間以内に島を捨てる命令書が行きましたか。」そして虚ろな瞳で無関心におばあさんを見た。おばあさんは、この種の人間の働く悪は、その人にとって喜びでも苦痛でもないということを知っていた。おばあさんが書類を手渡されサインすると、その人たちの視線は温かみを帯び、書類の内容を読み上げ始めた。おばあさんが国境地帯における住居規範に違反したことが書き連ねられており、その文言の法的根拠が主張された。おばあさんが抵抗するも空しく、荷物がまとめられ、トラックに引きずられた。おばあさんは家の入口に来て初めて新鮮な空気を吸い、吠えるような声を上げたが、涙を流すことすらできなかった。時間は息をつく間もなく過ぎ、トラックには老衰したクツコや酔ったヴァレーラ夫妻が乗っていた。おばあさんは家から物や住人を引きずり出す人たちの中にアーノルドの姿を見た。おばあさんはキリストの為にも実の叔母である自分を助けてほしいと乞うが、アーノルドは聞きもしない。おばあさんは家を買い取れるような大金も持っていない。不機嫌で疲弊したベッソーノフが近くにおり、文官らは怪訝そうな顔をしたが、アーノルドは放っておくよう命令した。トラックがうなり出し、おばあさんは家々と倉庫の向こうの入り江のさざ波の表面を見たが、視力が衰えてはっきりと判別できなかった。霧から糠雨が降り始め、いつもの家の香りがした。おばあさんはこの『いつも』を感じたくなり、下の段の割れた玄関を思い出した。トラックの振動でそのイメージが揺れ、おばあさんは静かに泣き出し、足で音を立てた。しかしそこで何のことで泣き出したのか忘れて泣き止んだ。

ベッソーノフは夕方にジョーラのところへ行った。亜麻色の髪の小さな妻ヴァーリャがドアを開け、ジョーラは家にいないと言った。ベッソーノフが玄関の段に座っていると、ジョーラが出てきて入るように言った。ベッソーノフは家には入らず、ジョーラの方が降りて来てベッソーノフの隣に座った。今日は誰が島から連れて行かれたのか、自分はどうするのかを話し合い、ベッソーノフは言う。「明日なんて来ないかもしれない…」そこにヴァーリャが出て来て、娘のナターシェンカを一緒に寝かそうと急かす。ベッソーノフはジョーラにガソリンを貸してほしいと頼んだ。ジョーラは渋ったが、ガソリンのブリキ缶を持って出て来て、妻子を置いてベッソーノフと行くと言った。そのジョーラを置いてベッソーノフは中庭を出て、少しずつ夜が訪れ、岸辺を歩いてマニおばあさんの家にやって来た。そして家にガソリンをかけて着火した。彼は快感を得たがアーノルドとミーシャに見つかってリンチに遭う。アーノルドは、卑劣な放火犯のベッソーノフとは対照的に、自分は誠実で、自分のことは何でも自分でできると言う。そして自分の頂点の時代はこれからもずっと続き、島の主人であり続けること、自分の権力は島民を踏みにじることも許すこともできると付け加えた。ベッソーノフのことをホームレスと呼び、今度島に戻ってきたら殺す、と脅して袋をかぶせ、車に乗せた。ベッソーノフの抵抗もむなしく、彼は長いこと運ばれて車が止まったことにすら気が付かなかった。ベッソーノフはベンチに座らされ、向かいにはアーノルドでもミーシャでもない人が座ったのを感じた。その人は『座れ』『動け』と一言で命令し、去った。ベッソーノフは独り取り残されたが、ふと誰かのうなり声を聞いた。誰なのか尋ねたが返事はなく、ベッソーノフはやっと頭にかぶせられた袋を取った。天井には小さな小窓があり、外では雨が降っていた。そしてその人の正体がヴォロパエフだと分かると、力が抜けて笑いが込み上げた。ベッソーノフは体の力が抜けて笑いリラックスした。暗闇で姿の見えないヴォロパエフは、かすれた声で、ここは狂った自分たちにぴったりの場所だと言った。ベッソーノフは外の騒音を聞き、台風の嵐は止むのか、と考え始めた。しかし彼の唇はまどろみ、独り言をつぶやいた。『狂っている…狂っ…て…いる…』ユジノクリリスクの丘から木製の階段を下りる群衆の中では、個人を判別できなかった。群衆は生きた塊のようで、皆同じ見た目をしており、奴隷化する魔法の力を持っていた。その足元にはもう大地がなく、ただ前方にぼやけた道があるのみだった。女性が大荷物を抱え、身内が亡くなったかのように大泣きしていた。群衆に流れ込んだ人たちは、我を忘れ、皆が同じことを考えた。病的な不安や、新しい大地への希望だ。もはや、誰がどうやってここから出て行ったか分からなかった。道は道としてあり、人間がそれを通る。仮泊地にはもう船が特別に準備されたことが、群衆にも伝わっていた。誰も音を出さず、犬たちだけが動き回った。酔った荒っぽい声で、クリルの歌を歌う者がいた。霧がやってきて、船が見えた。船の下の鉛色の水の揺れは、野蛮で分別がなかった。底から持ち上げられた、何百万年もの濁りである。船はモニュメントのような文明の偉大さをもって現れ、黒く、漆を塗ったように光り、白い夢とオレンジの一撃を伴った。風が鉛の濁りを追い立てたが、船は固く立っていた。海岸の摩天楼に生きているような人たちは、どうやっても海に触れられない。大きな客船の窓から見る海は、常に遠き絵画なのだ。『北極号』は数分後、桟橋の方へ行き、甲板は雨と水しぶきで濡れていた。群衆には、生き物のように、すぐに頭としっぽが浮き出た。しかし生き物の細胞は皆、頭になりたがった。群衆はスーツケース、大きな包み、トランク、小包を集めて桟橋に流れた。艀と桟橋の間の暗い裂け目は冷たくて湿っぽく音を出し、湿った暗い罠が音を立てているようだった。水兵たちが作業をこなす間、無個性な群衆は待ち時間を耐えた。艀から木製の渡り板が桟橋に投げられると、群衆は一瞬凍り付き、一気に突進した。荷物をぶつけ合い、暴言を吐き、泣いた。船長は、無我夢中で群衆を見ず、メガフォンに叫び始めた。「避難民のみなさん!乗船は五十人ずつです。殆ど皆連れて行きますから。」船長が『殆ど』と言ったのが良くなかった。群衆はぶつかり合いながら、感覚を失い、何も見ず、嗅がず、危険を認知せずに、一人一人が自分の場所を作った。運よく甲板に落ち着いた人たちも、もっと便が増えることを願って桟橋にとどまった大多数の人たちも、一気に黙って、動かなかった。船長が怒ると、乗客の中から早く出発するよう声が上がった。船長は自分に責任はとれないから、半分の人は船を出て島に戻るよう指示した。乗客は、お前は女じゃないんだからつべこべ言っていないで早く出発しろ、と言った。船長は素っ頓狂な声を出して甲板室に去り、少し怯え、黙って命令を出し始めた。すると群衆が再び少しざわめきだした。艀は静かに動いた。船長はハンドル室に立ち、再び当惑し麻痺したような静寂が訪れた。人々が何度も呪ったように感じた岸は、どこかへ行ってしまった。いつの日か踏んだ地を自分の中に取り込むのは、人間の方ではない。全く逆のことだ。甲板で、人々が時間を感じるようになると、長くて熱い針がゆっくりと胸を刺すように痛んだ。小さい子どもが何かを感じ、首を伸ばしたが、大きな頭や背中の向こうには、早期の雪で白くなったメンデレーエフスキー火山の頂上だけだった。桟橋の人々は小さくなり、斑点になった。突然、三十歳くらいのがっしりした女性が酔っ払い、身内のろくでなしの男を銃で殺めた話をした。最初は近くの人に話し始めたが、皆が聞いた。艀は、開けた波の上に出た。艀は強く傾き、乗客の中で罵り合いが始まった。「子供がいるから黙れ」という声がすると、皆が黙り、これから乗る乾燥積荷用船の方を向いた。津波で流された橋が大洋に沈んでいた。船長は乗客が艀の右に寄りすぎないよう注意し、右に迂回した。艀は不安定で、人々も荷物も全て右に滑った。誰かが大声で叫び始めたが、波の力で反対方向に傾き始めた。船長は小さな指令室の中、大急ぎでハンドルを回しており、艀はまるでひとりでに岸に向いたようだった。乗客が叫ぶと、船長はスピードを落とした。そしてもう向きを変えなくていいように、船に向かって後ろ向きで進んだ。強い波が、船尾の人々を凍った噴水で覆った。船の方からはメガフォンで急かされ、艀の船長は怒ってメガフォンに返答を叫んだ。船は風を遮蔽し、波を打ち、物憂げに揺れた。しかし深淵では、波は海底から巨大な船体の下を昇って来るかのようだった。船の高いボルトから巻き上げ機で『球』が降ろされると、艀は『球』に係留した。とても高いところに、ぼんやりした陸の人が窓から顔を突き出していた。彼が順番を守って昇るよう叫ぶと、下の方で声がした。「君は海の人間じゃない、部屋の人間だ。たとえ海を近くで見ても、海をがぶがぶ飲んでも、愛する人よ?!海がどんなに美味しいか知ってるか?!」船から艀に古い梯子が降り、擦れた板を軋らせた。女性と母子を一人ずつ先に通すよう指示が出たが、二つのスーツケースを持った機敏な男がすでに梯子に登っていた。彼は真ん中まで来て、艀が特に高く跳んだ時にひっくり返った。男はロープの間に這い込み、脚が大気中で揺れ始め、スーツケースが二つ音を立てて水中へ投げ出された。人々が彼に、手を取るよう叫び始めた。しかし男はそんなことを言われなくとも、猿のように、梯子に自分を引きよせて還って来た。一つのスーツケースはつぶれ、中から白い、暗い、それから色のついた臓器が這い、水中でボロボロの腸となってほぐれた。梯子は片付けられ、艀に3つの縄梯子が投げられた。乗客の荷物は吊網に入れられ、巻き上げ機で持ち上げられた。「女性が先だ、お母さんを!」重い女性たちがロープをつたって階段を這った。誰かが袋のような形で命綱にぶら下がって、オロオロとしていた。その人の温かい乗馬ズボンは、行列で待つ人々の頭上を飛んで行った。誰も笑わなかったが、皆後で思い出して笑うのだろう。二時間後か、何週間か後か、恐ろしいことや悪いことがいつも通り忘れられたら、あの姿を鮮明に思い出して笑うのだ。細長くておでこの広い、青白い顔の他所者が、異星人のように緑に光っていた。乗客は皆、彼の中に離脱性を見出した。彼からは不快で陰鬱で謎に満ちた、引きこもりの生活が感じられた。狭い鉄の部屋で電気を食いすぎて、彼は青白く明滅する光に染み込むようだった。彼は乗客を案内し、人々はサッカー場のように巨大でからっぽな甲板で、何かを待ちながら群れた。次の便は夜まで延期され、『北極号』は乗客を降ろした。群衆は各自荷物の上に座り、船の傍には鳴き叫ぶカモメが集まった。晩までには風向きが変わり、艀は再び岸から船の方へやって来て、次の人々も到着した。それからまた一時間か二時間待った。青白い顔の人が脇のドアに現れ、弱弱しい声で案内を始めた。女性たちは一気に狂暴化し、我先にと場所を占めた。コートと暗い色のキルトシャツを羽織り、ベルトまで茶色い胸で露出させた男が、怒って足元に唾を吐き、甲板を歩いた。彼はコンテナの間の部屋を見ると、床に人間が二人座っていた。ベッソーノフとヴォロパエフだ。二人は男の登場に際して無関心だった。痩せていて背の高いベッソーノフは、男に気付きもせず、しわを寄せ、首を曲げてまどろむように座っていた。ヴぉロパエフは、部屋の隅にもたれ、ただ面倒くさそうに目線を上げた。男は驚いて、二人に話しかけた。「どうした、ミュータントみたいだな。」ベッソーノフは、ドアを首で示し、おじさんと呼ばれる男を招き入れた。おじさんは自分の場所で飲もうと二人を誘い出した。ヴォロパエフは元気がなく、おじさんは肩をすくめた。ベッソーノフは彼をそっとしておき、何か食べ物と毛布をやるよう提案した。彼らは、人の騒いでいる所へ出てきた。ベッソーノフは少し笑って言った。「俺だって、ひょっとすると、もうおじさんだ。それなのにあなたをおじさんと呼ぶのか。一等機関士ということですか?」そうではなく、おじさんは自分からおじさんと呼ばれているのだという。彼らはおじさんのスーツケースの上に食べ物を置き、何かの袋を敷いて座り、飲んで食べた。ベッソーノフはウォッカを飲んでも楽な気持ちにならず、疲れて重い綿の布団を掛けてもらった。他人はしつこく彼に気を遣い、右からも左からも飲むよう、食べるよう話しかけられた。彼はただ横になって眠りたかった。彼らの傍や周りには食卓が準備され、人々の中に悪徳が登場し、良いことも悪いことも区別がつかなくなっていた。彼らには、おそらく『快』『不快』の概念が全くなかった。その概念は、人々の望み、喜び、調和についての考えよりも下位にあった。行動に思考はあったが、実際の動きに伴っていたわけではない。おじさんは本物のウクライナのガルーシキを食べたと主張して聞かず、誰かと口論を始めた。ベッソーノフは考えた。人間は常に外にさらけ出され、過去に、大量の労働をやってのけた肩の向こうに何があったかなど何も意味を持たなかった。肩の向こうに何があろうと、過去は別れを告げることすらなく、どんなことも寛大に許してくれた。それは『書類』という紙が内緒で汚れるのとは異なり、過去は絶対的な形で存在した。その後、うるさいおじさんは去ったが、他の人たちがヴォロパエフのもとに彼を連れて行った。彼をきれいにして、服を着せ、食べさせるためだ。ベッソーノフは独り残されたようだった。傍に誰かいたとしても、彼は気付かなかったし、何も聞かなかった。おじさんがいなくなり、なぜか妙にシンとした。彼はコンテナの冷たい鉄の壁にもたれ掛かり、大きな船の出発を予想させる音を聞いた。荷詰めの最後の音、命令の叫び声、鳥のざわめきだ。彼はまどろみはじめ、我に返ったときには、船は全速力で北へ、エカテリーナ海峡の方に走っていた。そしてクナシリは左の格子に広がった。黄昏が海に落ち、誰も音を出さなかった。ベッソーノフは身を起こし、ボルトの方へ行き、何も考えず、暗い水を、夜と合流する島を見た。一気に黒雲がなくなり、全部で百三十ヴェルスターが視界に入った。あまり高くない南方のゴロヴィン火山からチャチャ岳まで、緋色の夕暮れの背景に暗い丘が泡立ち、雪で白っぽい頂上が、更に透明の金で洗われた雲の中に沈んだ。大地は、一日を通してじめじめしており、冷たい絵の具の中に沈み、夜の寒さの中で、濃くなり、海と合流した。大地の火山はすべてに温泉と噴気孔があった。チャチャのふもとの傍のごく小さな火、その他のものもすべて、夜によって今見えるようになったもの、しかしベッソーノフがよく知っているものだった。茂った夜の林、生に富んだ小湾、川、湖、道、人や獣の小道、そして大地に住むものすべて、生きるものすべて、生を、エネルギーを、偉大なる存在をもって呼吸するもの。これらすべては彼から遠ざかった。そして彼の眠気と、観察者の怠惰は、冷たい大気の急流で追い込まれ、ボルトの傍で揺さぶられた。もはや思考ではなく、鋭い病的な感覚であった。突然視力が回復した時のような、胸への強い打撃の感覚でああと叫び、彼に見える空間は夜と合流した後、現実に存在しなくなったかのように思われた。

ベッソーノフは突然、最近の年月を回想した。満たされるような感覚を作ってくれても、もはや以下にしても彼を満たしてはくれない、想定される年月の偉業に思い描いたのではない。彼は、年月の記憶の中で絶えず自分の本当の生だったもの全てを歪め、色あせさせ、もしかすると、全く逆に、彩ったものの中に過去を回想した。それまでに過去はなく、その後には未来は来ない。過去は人生のプロローグでしかなく、未来は人生の結果でしかない。なぜなら生は、目の前で起こるものでもなく、考えて分かるものでもないく、丁度去りし時間の厚い層から彼に視線が触れる時に、生き生きとするものだからだ。この未来の厚い層を自分の中に描いて、彼は驚くことも、身震いすることもできなかった。もっとも、それはもう厚い層ではなく、細い擦り切れた時間の端切だった。彼は夜までに、重い綿の布団の中にくるまった。他人の住居の古い香りがしたが、不快感も、疎外感もなく、不幸のない古い家のような香りだった。彼は繭のように布団にくるまったが、金属の床から寒さが突き抜けた。上の裂け目から力にあふれる光の筋が突き抜け、ベッソーノフは、この場所が乾燥積荷用船の甲板の空っぽの鉄のコンテナだったと思い出した。人々は彼の右でも左でも寝ており、ベッソーノフは寝返りをうちはじめ、腰の痛みで静かにうめいて座った。誰かが傍で、寝言を言った。「彼女をここに寝かさなきゃならなかった…俺はお前に言った、ほっといてくれ…そう…ほっといてくれ…」船では静かに張り詰めて機械が作動し、船体は少し響いて震えた。大洋が金属で切断された場所だ。人工のもの、人間のものが終わり、野生のもの、際限なきものが始まる境界で、まだ静かに海が、その鳴りやまぬ音が聞こえた。ベッソーノフは他の脇にもたれ、光の筋はもう見えなくなっていた。そして静かに独り言をいった。「寝るんだ、セミョーン。寝るんだ、」しかし、現実は彼を手放さず、彼は雨が後ろの壁を打つのを無意識に聞いた。ベッソーノフは全意識を集中させ、いつの間にか、この音の中に歩いて行った。彼は目を閉じ、痛ましい言葉の境界に、空耳で、全ての生きた雨のしずくが重い唸る一つの急流になるのを聞いた。しずくはどこか空の高いところで世界に孵化して、喜ばしい球となり、飛び、一回転して落ち、突然不意に粉々に離散した。ベッソーノフは考えた。彼の上に垂れ下がる夜から、彼のもとにやってきたのは、夢だったのか、夢でなかったのか。しかしこのことが理解できず、本当に眠りに落ち、夜は彼を手放し、彼は夜の抱擁から滑り落ちた。夜の闇は水平線の向こう、どこかにぎやかで明るく、彼を端まで満たすような場所で止まり、このため彼が夜のことを思い出す時間はなく、まるで全く存在しなかったかのようだった。

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