渡したいものは、渡さないことで渡せる。という美しきパラドクス・・・
あなたにとって「余白」とは?
今回のサムネイルに「余白恐怖症」の取説なんてたいそうなことを書いたけど、そんなにたいそうなことは書けないことを先に謝っておきます(すみません)
ただ、私の場合の恐怖症の理由がなんだったかを発見できたので、もしかしてその経緯や内容がどなたかの参考になるかも?と思って筆をとります。
ごあいさつが遅れましたが、大野と申します。
いきなり画家になったりしたことで、ガシガシ自己探究する羽目になりながら、好奇心全開で毎日を過ごしています😊
さて今日は、「余白」について語ってみたいと思います。
みなさんは、余白って聞いて何を思い浮かべますか?
・紙の余白
・スケジュールの余白
・思考の余白
・会話の中での余白・・・
いろいろありますが、今回扱うのは特に「思考の余白」と「会話の余白」について取り扱います。
みなさんにとって思考や、人といるときの余白ってどんなものですか?
これは、まっぷたつに分かれるのではないか?というのが最近感じたこと。
私にとっては「余白=埋めるべきもの」でした。
いやそれ、余白ちゃうやん!
と頭では思うのですが、埋めないと、怖いのです。
反射的に埋めたくなるものが余白でした。
一方世の中には、「余白が不可欠」な人もいます。
彼ら彼女たちの話では、逆に「余白=なければ生きられないもの」みたいな感じで、余白がないと「自分が自分でいられない」と言うのです。
うんうん、彼らが言っていることは「頭」では理解できるのですが、恐怖心が頭をもたげるため、「受け付けない」。という感覚がリアルなところでした。
「余白マスター」と話をする
私は今年の1月に、波照間島という日本最南端の島に行ってきました。
目的は「リトリート」と呼ばれる対話プログラムに参加するため。
そこで、男女9人で、3泊4日を共に過ごし、自分と深く向き合う体験を得ました。
私が今回持ち込んだテーマは「脱力」であると同時に、すぐに余白を埋めてしまう自分をリリースしたいと願って参加しました。
その中であるワークがあり、ペアになってお話する機会がありました。
メンバーそれぞれが違うテーマの書かれたカードを引き、心が動けばそれについて話し合ってみる。そんな時間でした。
カードには「夢」や「生と死」、「不安や恐れ」など全員違うテーマが書かれていたのですが、私が引いたカードはなんと「余白」でした。
(偶然にも!oh ジーザス!!)
しかも、偶然一緒になった女性(あきみちゃん)と余白の話をしたところ、「私余白好きやで。余白得意やで。」との回答。
え!?余白が「得意」なんてある!?
なんと私は「余白マスター」とペアになれてしまったよ!
(oh ジーザス!!(2回目))
っという訳で、島が持つであろう大きな自然の力を存分に感じながら、その図らいを受け入れ、余白について語ることにしました。
生まれて初めてレベルで余白を「体感」する
冒頭の方に書いた通り、語り合っていてもらちがあきません。
頭では余白の価値を理解できないことは、それなりに生きているので、分かってはいました。
だから、「実際に余白を体験してみる」ことにしたのです。
サンゴが埋め尽くした浜辺。
眼前に広がるのは海。
辺りは波の音だけ。
そんな環境で、二人は一緒にいながらも互いにはたらきかけることなく「余白」をつくってみました。
私が話しかけるまで、あきみちゃんは一切話をしてこない。
という約束で、私の気の済むまで余白時間をつくってみる。
という取り組みでした。
すると、「どうして私はこんなにも余白を恐れているんだろうか?」という疑問が心に浮かんできます。
なぜなんだ?なぜなんだろう・・・?
一見それこそ余白がないように見えますが、こういう時の思考って意外とクリア。で、内側からさっとレスポンスが返ってきます。
「いろいろあげたいんだもの」
私に返ってきたのは、こんな心の声でした。
私にはなんのことか分かりました。
私は、隙あらばあげたい人。です。
これ自体が恐れから来ている可能性もあります。
何かを渡さないと、自分に価値がないのではないか。
でもどうやら渡したいという気持ちは純粋なもののように感じられました。
そうか、私は時間の限り、機会の限り渡したいから余白をつくりたくないんだな。
そして、一人でいる時間の余白は、いつか次に人に会った時に渡すものを仕入れ、「在庫を増やす」機会。
だから、時間があると「何か仕入れられるものはないか」といつも一生懸命なんだな、と。。。
ただの「恐怖症」かと思っていた自分の行動の源泉には、「人に何かを渡したい」という純粋な想いがあったんだ・・・
というのは、ちょっとした驚きでした。
と同時に、そんな頑張り屋さんな自分の健気さが愛おしくもありました・・・
そうやって自分の姿勢を承認してあげながら、一旦一人タイムを切り上げ、今度は近くにいたあきみちゃんとの「間合い」に意識を向けてみました。
するとそこには、おへその上あたりに、楕円形のあったかいエネルギーが宿るような感覚をおぼえました。
やさしくって豊かなエネルギーの存在を、そこに感じたのです。
生まれて初めての感覚でした。
何もやり取りをしていないように見えるこの間合い・関係性の中には、むしろこんなにも温かみを感じるエネルギーが流れるんだ・・・
それは、余白の価値を「体感」するには、十分な感覚でした。
渡したいものは、渡さないことで渡せる。
その感覚を感じたことで一旦余白タイムを終了し、二人で体験を語り合いました。
言い回しは忘れてしまったのですが、あきみちゃんが、「ゆきちゃんが渡したいものって、なんだったのかな?」みたいなことを聞いてくれた気がします。
ニュアンス的には、「渡したいと思っていたものの認識が変わったんじゃない?」みたいな感じだったような。
それでハッとしたんですよね。
私は常に「渡したい渡したい病」な訳ですが、本当に渡したいものって渡せていたのかな?と。あるいはそもそも渡したいものってなんだったのかな?と。
まだまだ理屈では説明できなけど、私にとっては、二人の間で感じたあのあったかいエネルギーこそ、相手と交換したかったものだと感じました。
正直拍子抜けしました。
だって、今まで息つぎもしないで、必死に余白を埋めてまで渡そうと思ったものは、渡せないことで渡せると気づいてしまったのですから・・・
Amazonから、店舗ビジネスへ
っという訳で、あくまで私の事例になりますが、私が感じていた余白への恐怖とその根底にあった「願い」についてシェアさせていただきました。
みなさんの中にも何かしらの「恐怖感」があるかと思いますが、それは大体自分の中にある純粋な願いが形を変えたもののような気がします(この関係性が遠いほど俗にいう「こじらせ」だと思う)
これを読んで、何かしらの恐怖の底にある願いに耳を傾けていただけましたら幸いです。
後日談と言いますか、この気づきがあった後で言われた、2つの印象的な言葉があったので、最後にシェアして終わらせていただきます。
一つ目はもっと「わがまま」でいいよという言葉でした。
最初にこれを言われた時は、一瞬ポカンとしてしまいましたが、すぐに意味が分かり、涙が浮かびました。
私は、ずーーーーーっと人のニーズや期待に応えることが、行動の源泉でした。
余白ももちろんのこと、恐らく全ての行動の源泉が「人のため」にあったのだ、と。
私自身の認識としてはどちらかと言えば自己中で、自由奔放なセルフイメージだったので、この気づきには驚きました。
こんなにも全て、人のことを考えながら私は生きてきたのか?と愕然としたのです。
みんなからのフィードバックでも、口々にあなたは「配慮の人」であり、「常に周囲に気を遣っている」との声。
あぁ、届いていたんだなぁ、という安堵があると同時に、もうそこまで一生懸命にやらなくてもいいのかなぁ、と思いました。
もっと「わがまま」になっても良いのではないか、と。
もう一つは「デリバリー」ではなく「お店」にしたら?というもの
彼女は言いました。
「あなたがたくさんのものを持っていることを、みんなは理解しているよ。だから、自分でわざわざ届けにいかなくってもいんじゃないかな。お店みたいに並べてて、必要な人が取りにくればいいんじゃない」
と。
それは私にとって、画期的な視点でした。
そうかもう、私が先回りして、半ばおせっかいで届けにいかなくてもいいんじゃないかと・・・
自分のあげたい病に気づき、
余白の価値に腹落ちし、
あげたい病との付き合い方に気づく
数時間の経験が、私に多くのものをもたらしてくれました。
共に過ごしてくれたあきみちゃんと、
余白のカードを用意して、また店舗型へのアドバイスをくれたゆりちゃん
そして波照間の自然と一緒に過ごしてくれた全員に感謝して。
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