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『事足らせる能力』という持ち物 - ジョージアにて

2019年9月ー
コーカサス地方 ジョージア、ステパンツミンダを旅したときの話。

ステパンツミンダは、ジョージアの北方、ロシアとの国境手前に位置する小さな村。
ゲルゲッティ三位一体教会で有名な場所で、村の麓から拝むことのできる神秘さと異世界感漂うその姿は、多くの旅人たちの心を鷲掴みにしてきました。

旅人の交通手段としては首都トビリシからの小型の乗り合いバスが多く利用されており、片道3〜4時間程かけてジョージア軍用道路を北上してゆきます。

その途中に広がる、山脈を縫って抜けるような高原の景色や、定番の途中下車スポットであるアナヌリ教会、ロシアとの友好記念のモニュメントは、通常なら長く感じるはずのその移動時間を一瞬のものにしてしまうことでしょう。
コーカサス地方特有の非日常感たっぷりな雄大な景色に、旅人たちは終始心を奪われっぱなしです。

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突然ですが、旅をするときというのはやはり、できる限り身軽が良いと思うのです。
そもそも旅の最中でなくても、常日頃から、余計なモノは経済や心身の負担を増加させると個人的には思っています。

それでもやはり、生活の中で増えていってしまうモノ、モノ、モノ。
断捨離という言葉が世間をにぎわせているのにも、減らすことと増えてしまうことのジレンマが背景にあると思われます。
では、なぜ人は時に、自身が管理しきれる範囲を大きく超えるほどのモノを抱え込んでしまうのでしょうか。
この旅のなかで、そのことに考えを巡らせるきっかけとなるおもしろい出来事と遭遇したので、以下に紹介したいと思います。

* * *

それは、ステパンツミンダ滞在3日目の朝に体験した出来事。
宿泊していた宿のスタッフの案内で、前日までに村周辺の見所はおおよそ巡り終わっていました。
本題前の余談ですが、一番の目的であったゲルゲッティ三位一体教会の魅力はさることながら、それまでに訪れた周辺のハイキングスポットや軍事道路沿いの広大な山々や草原たるや、言葉では表現しつくせないほどの美しさでした。
またメジャーではないものの、村を挟んで三位一体教会の反対側の丘の上に位置する小さな正教会のほうも、趣が感じられて個人的には好きでした。

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宿に近かったため、ゲルゲッティ三位一体教会の観光は最終日まで後回しに。
その日の朝に、宿から教会まで同スタッフの運転する車で連れて行ってもらう約束をしていました。
他の旅人たちはそれには参加せず、乗客は私一人。

前述したように、高所であるこの村は朝晩が特に冷え込みます。
特にその日は、前日までの抜けるような青空とは一転、どんよりとした厚い雲が空全体を覆っており、気温も前日の朝に比べぐっと下がっていました。
その影響もあってかいざ出発しようとスタッフが車のキーを回したとき、何度試してもプスプスと嫌な音を立てるばかりで、一向にエンジンがかかりません。
車は確かに年季の入ったボロボロバンで、前日までは特にトラブルなく動いていたものの、いつこんなことになってもおかしくなさそうな外観ではありました。

そのスタッフは困った顔を見せながらも、ちょっと待ってろとさっと車を降りてボンネットを開け、何やら点検をし始めました。
しばらくするとおもむろに顔を上げ、すぐそばの電柱に目をやり、そちらに向かって歩き始めたかとおもうとそこに巻き付けてあった針金のようなものの先端部分だけをねじって切り取り、それを手に戻ってきて再びボンネット内部をいじり始めたのです。

その針金の切れ端を使ってなにやら作業を終え、すぐに運転席に戻ってきた彼がもう一度キーを回すと、先程と打って変わって勢いのよいブオンという音とともに、無事にエンジンがかかったのでした。
よし行くか、と、何事もなかったかのように彼は車を走らせはじめ、教会の丘へと続く坂道を静かに下って行きました。

わずか5分にも満たないうちに起きた出来事でしたが、私は一人、心の中でいたく感動していました。彼が、私が常々旅人が用意するべき一番の持ち物であると感じていたものを、日常から使いこなしていたからです。
それは、目の前にあるもので”事足らせる”という能力でした。

備えあれば憂いなし、という言葉がありますが、たいていの場合それは物質的な準備を想定していると思います。
しかし物質的備えには明確な際限がなく、過剰なそれは時として精神を蝕み、安心のためとモノであふれかえった空間で、人は自らを溺れさせてしまうように思います。
旅の最中はそれがより顕著で、あれもこれもと必要そうなものを詰め込んだ超重量のバックパックや複数の所持品は、注意力を散漫にさせ、体力も早々に奪ってゆきます。そのせいでむしろ危険な目にあったり、本当に大事なものをなくしてしまったりと、余計に面倒な目に合うことも少なくありません。
備えと引き換えに解消したいのは不測の事態を想像した際の不安感であるはずですが、物質や環境要因といった自らの外に解決を求めるだけでは、やはりそこには明確なゴールがないため、結局その不安を完全に解消しきることはできません。

少々話は飛躍しますが、本来はいかなる目的の本質も、我々が考える以上にシンプルなものなのではないか、と思います。
今回の件でいえば、運転手である彼は私を朝のうちに丘の上の教会まで送り届けることができればよかったわけです。もう少し車と彼の日常の目的にまで広げて言えば、彼の所持する車は、いくら欠陥だらけのボロボロ車とて、世界中から日々やってくる旅人たちを特定の場所まで運ぶことができるものであれば、そしてそれによって旅人たちが素晴らしい時間を過ごすことが出来さえすれば、目的の本質を叶える道具としては十分なのです。

今回の場合、このスタッフはトラブルが起きた時のために車を修理する専門的な道具をそろえていた、あるいはそのようなものを時間をかけて用意したわけでもなく、またそもそもお金をかけてトラブルのないピカピカ新車を常備していたわけでもありません。
かといって、私を教会まで運ぶことをあきらめたわけでもありませんでした。
ただ自身の機転を使い、目の前に存在するものを役立たせ(たまたまそばにあった電柱にたまたま巻き付いていた謎の針金を先端だけちょっと拝借して)、目的のために機能する最低限のものを瞬時に用意しただけでした。

もちろん、これは少々極端な話です。
目的に応じてある程度のモノの所持は必須だし、その最低限を決める個々人の価値観や考え、条件などいくらでもあることでしょう。
しかし、”備える”ということをいつも極端なほどに自分自身の外、環境的なものや物質的なものを基準としてとらえる必要は、多くの人の現状ほどはないのかもしれないと強く感じています。
まず目的を極力シンプルにとらえること。その本質に近づけるために、どこまで削り取ることができるか、そしてその削り取った目的の核に応じて用意するモノも環境も、どこまで最低限にできるか。
それには、その場その場の実際の状況に対して自分自身の臨機応変さを信頼すること、つまり自身の存在自体を備えとすることができる能力を、同時に鍛え上げていく必要があると思うわけです。

そしてそれには、多くの場数を踏み経験の中で実績を積み上げていくという技術的な要因のほかに、根本的なところで自分自身に自信を持つというマインド面が大きく関係してくると思っています。
不測の事態が起こった時に、自身の力だけで対処できる能力が自分にあると信頼できていることがベースになければ、不安に押し流されパニックとなり、機転を利かすどころではなくなってしまいます。
有事の際に瞬時に適切な判断と対処を取るためには、状況をよく見渡し、問題解決の糸口を冷静に見つけ出す思考力が必要となりますが、その大前提となるのがどんな時でも冷静さを保てるブレない強い精神です。
言葉にすればシンプルですが、これは誰にとっても、そうたやすいことではありません。
だからこそ、この旅で起きたこの出来事が、今でも強く印象に残っているのだと思います。

安心の本質とは、なんでしょうか。
安心の根拠を、自分たちは今どこに置いているのでしょうか。
様々な事態を想定して、たくさんの持ち物をリュックに詰めて重たそうに旅をする人を見るたびに、また自分自身においても、旅であれ日常であれ不必要なものを抱え込んでしまいそうになるたびに、今でもこのスタッフの話を思い出しています。

※追記
上述した能力は、英語で表現するところの『Resourcefulness』とも置き換えられると思います。

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