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文士の覚悟

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。
ジャーナリズムは読むに耐えない。
文学は読む人がいない。
それがすべてだ。

(アイルランドの詩人 オスカー・ワイルド)

自身の執筆した文章を世に出すということは、自身の裸をみせるように勇気の要ることである。それが僅かなうぬぼれを伴うものであったとしても、である。また、私のような無名な徒である場合、言葉による表現は、世に出た瞬間に自己から切り離され、そのテクストのみが歩き出し、賛否両論の荒波に呑まれることになる。もし、その事態を恐れ、自身の抽斗のなかにしまっておくことはひとつの方法である。

私の書く文章というものは、「純然たる私」なのだろうか。真のオリジナリティとは僅かな部分でしかないのかもしれない。言葉とは人類共有の宝珠である。執筆者とはその言葉の編み方により「私」を表現し、その狭い余白のなかで奮闘するものである。新しい言葉の発見も、土台は過去の言葉であり、先人への敬意は欠かすことのできないものである。そのように考えると、自己の文章を世に出すことは、それほど恐れることでもないかもしれない。なぜならば、我々には過去の偉人たちの後ろ楯があるからだ。

文学表現とは、言葉という「限られた」人類の共有財産のなかで、説明文とは明らかに異なる表現に編み直して伝えるものである。それは、詩情を加えながら自己の思想も伝えるという、水に脂を加えるような難しさを伴う。したがって、読者に「理解」されないという「悲劇」も起こり得る。冒頭のオスカー・ワイルド氏の言葉の真意は定かではないが、私はそのような憂いも含むだろうと捉えている。

もし、自身の書いた文章を世に出す勇気がないのならば、まずは様々な本を読むことを提案したい。おそらく、一冊ないしは一節に、感銘を受けることがあるはずである。その経験が自己防衛のためだけの「謙虚さ」に一石を投じ、宣言する勇気を与えてくれるだろう。なぜならば、自己自身がその執筆者の勇気により、鼓舞されるからである。私の勇気と言葉は、人類の宝になるやもしれぬという気合いも時には必要ではないだろうか。

私は、一年前に詠んだ自身の俳句や短歌を今見直すと、大変恥ずかしく感じることもある。しかし、今の私はその恥ずべき私の延長にあり、過去の一切の肯定なくしては前進できないのである。その点において、たとえ稚拙な僅か一文字の表現でも尊く、その人の心に人類という一本の柱をも立てることになるのではないだろうか。

老若男女、筆を執る者皆文士なり。文士なれば本性に勇気、覚悟、威厳を備へ、何者に恐れずして挑むべし。然れど慢心することなかれ。謙譲である事此の上なし。卑屈に堕する事なき誠の言の葉を編むべし。さすれば自ずと道拓くなり。汝人類の灯となりけり。(架空の文士の言葉)

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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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