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風土感覚の宿るとき

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺

 
  木を眺めると同時に
  木からも
  眺められていると
  感じたとき
  風土感覚が
  心の錘として宿る

 (『飯田龍太全句集』より)

飯田龍太氏は、大正九年、飯田蛇笏氏の四男として山梨県に生まれる。平成十九年まで故郷である山梨の地を詠み続けた俳人である(享年八十六)。

氏は、父・飯田蛇笏氏に比べると柔らかな作風であると感じる。蛇笏氏の句は甲斐国の山々のような揺るぎない重厚壮大さがあり、龍太氏の句は若竹のような柔と剛のしなやかな強さがある。俳句に詳しい方であれば、「秋の蛇笏、春の龍太」という言葉は聞いたことがあるかもしれない。蛇骨氏は秋の憂いや精粋さ、龍太氏は春の柔らかな情趣に響き合う名句が一般的によく知られていることから生まれた言葉だと考えられる。生涯に亘る全三〇七四句、どれもかけがないのない大切な句であるが、そのなかでも社会的に高い評価を得た句は「名句」と呼ばれる。

今回は、その名句とあまり知られていない句をそれぞれいくつか紹介したい。句の大意と解説は専門家ではない私の主観であるため、参考程度にお読みくだされば幸いである。なお、解説は俳句の技術的な側面にも言及し、俳句特有の文学観に触れてほしいという狙いもある。俳句に限らず、一般的な文章の読解や執筆に役立つことを願っている。

  紺絣春月重く出でしかな

大意:紺絣(こんがすり)。春の月は山の端より、のそりと重く出ていることであるよ。
解説:紺絣とは紺地に絣(かすり)という模様を白く染め抜いた織物のことである。切れ字の「かな」で締める句は、おおよそ一物仕立て(「春の海終日のたりのたり哉 蕪村」のような詠む対象がひとつである句)がよしとされるが、本句では取り合わせが成功した数少ない例である。紺絣の素材感、紺色と白抜きの絵様は、紺碧の空にのそりと浮かぶ春月と響き合っている。紺絣と春月という全く関係ないものの間にある詩情の発見は、俳句の大きな魅力である。

  春の鳶寄りわかれては高みつつ

大意:春の鳶(とび)は、つがいだろうか、寄っては離れながら天高く登っていくよ。
解説:つがいであるかどうかは私の想像であるが、二羽の鳶が寄り別れながら天高く登る様子はどこかで見たような気がしないだろうか。猛禽類にみられる雄同士の戦いの様子の類かもしれないが、句の語感や情趣からは前者の雰囲気があっていると私個人は思う。結句が「高みつつ」と終止していないため、春の大空という大景が余韻として残る。

 文旦の実のぶらぶらと春の町

大意:文旦の実がぶらぶらと生っている春の町よ。
解説:文旦の実を手に下げて春の町を歩く人を詠んでいる可能性もある。なぜ私がそのように迷うかというと、文旦の生っている様子を知らないからである。文旦の木が都市におけるイチョウや欅のように市中に生えているものなのかどうか。しかし、知識がないために俳句鑑賞ができないかというとそれは必ずしも正解ではない(詳しくは別の機会にテクストやフォルマリズムという文学理論から考察したい)。文旦の実のぼてっとした形や上品な黄色と、ぶらぶらという擬音、春の町並みは確かに響き合っていると感じる。人生のどこかで本句とぴったりの景に出会いたいものである。

 流れつつ春をたのしむ水馬

大意:流れつつ春を楽しむ水馬(あめんぼ)であるなあ。
解説:平明な句である。初学者の頃は、容易につくれそうだと思ってしまうものだが、平明なものほど難しい。その上、擬人法も用いられている。擬人化は、共感を得ないものや使い古されたものは、失敗に終わることが多い。例えば、楽しむ様子を「るんるん」と表現した場合、あまりに陳腐であり、詩情は宿らない。本句は平明さと擬人化のどちらも十分に満たしている良句である。また、水馬は泳ぐや滑るというよりは、流れるという表現が最適である。水の流れとともに「流れ」ていくのである。そこには穏やかな風もみえてくるだろう。本句の平明さは、注意深い観察眼に裏打ちされている。ちなみに、水馬は夏の季語であるため「季重なり」(きがさなり:一句に季語が二つ以上あること)ではあるが、「春をたのしむ」が本句の核であることはわかっていただけるだろう。

  鱒池の波鋼なす目借時

大意:鱒(ます)池のさざ波はまるで鋼のようであり、蛙に目を借りられたのか、眠たいものだなあ。
解説:季語は目借時(めかりどき)である。暖かくなって睡魔に襲われる頃をいう。「めかる」とは「妻狩る」の意で、蛙やその他の生物が相手を求めて鳴きたてたりすることをいう。それが目借りと書かれ、蛙に目を借りられ、眠くなる意となった(「きごさい歳時記」より)。
春の眠くなる陽気のもと、鱒池のさざ波は鋼のようにみえたのである。私は釣りの経験があるため本句に共感できる。刮目すべきは、鋼という表現を発見したことである。水底の植物や微生物の死骸等の分解反応により、やや油膜かかった水面になる。鱒が釣れず、物言わぬ水面は鋼のようであり、氏の情緒も漂ってくる。その情緒は春の気だるさとも響き合うだろう。

  春の雲人に行方を聴くごとし

大意:春の雲は、まるで自分自身の行方を誰かに尋ねるようであるなあ。
解説:「聴く」に尋ねるという理解は間違っているのだが(「訊く」が正しい)、自身の行方を「聴く」という意味を核としているための選定だと考えられる。穏やかな陽気にほんのりと漂う春の雲は、私はいったいどこにいくのだろうか、という情趣がある。行方は誰も知らず、その曖昧な空気感が春の陽気と響き合うだろう。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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