見出し画像

交い湖 Episode 4

執筆:ラボラトリオ研究員 畑野 慶

力の限り

「出掛けてくる」

ナマヨミは走り出しました。湖畔に向かって暗い山道を下ります。神か獣か、人とは思えない速さで、木々をなぎ倒さんばかりの猛進でした。足元など一切見ません。眼前に迫り来るみなもの明るさが、火照ったように赤みを帯びて輝く満月によるものであると、遮るもののない湖畔に出てからはっきりと見て、茫漠とした湖を見渡して、息を切らしながら途方に暮れます。弟がどこに立つのか検討も付きません。見つからない場所に立つはずです。もはや手遅れかもしれないのです。

それでも気を取り直すと、隣村の方へ湖畔を走りました。崖が切り立つ場所は迂回して、最短距離で突破する道を切り開きました。弟は身代わりを選んだと信じました。そうでないのなら、命を落とすような事故があったということです。どうか息災で、どこかにまだ立っていてほしいと思いました。

必ず引き止めてやる。自惚れるな弟よ、勝手は許さん。私は命に変えてでもお前たちを守る。

あてもなく走り続けて、もはや足が動かないほどに疲労して、倒れ込んでも前を向くと、遠くに不思議な光がありました。左右に小さく動いていました。二三度瞬きをして、目を凝らすと、その光は黄色と紫色に、誰か人の頭上で発光しているように見えました。思わず叫び声を上げて、気力を振り絞ってまた走ります。大声で幾度も呼び止めます。こちらが近づくほど光は水際に近づき、そして湖面の上を滑るように遠ざかり、暗闇の向こうへ、波立つ末広がりの航跡も消えました。

ああ、なんということか。僅かな差で間に合わなかった。ここぞという時に自慢の足は役に立たなかった。あまりに情けなくて涙も出ない。出し抜かれたことなど言い訳にもならない。自分が甘かったのだ。追いかけよう。暗闇の底であろうとも。

よろけながら湖に足を踏み入れて、膝上まで水に浸かった時、待てと呼び止められて振り返ります。そこには白髭の長老がいました。

「死ぬ気か。冷静になるんじゃ。まだ彼は生きておる」

どうやって現れたのかと驚き、この驚くべき力を持った長老に、縋りつくしかないと思います。まだ生きているという言葉に希望を持ちます。どうしたら良いのか問い掛けます。

「これからやって来る試練を乗り越えねばならぬ。明朝また、わしの家に来るが良い」

背後に人の気配を感じて一瞬目をそらすと、その刹那に長老は姿を消して、替わりにひょうたんが一つ転がっていました。中には水がたっぷり入っています。ナマヨミは躊躇いがちに口を付けて、すっと疲れが取れたように感じると、一気にそれを飲み干しました。全身の疲労はみるみる回復しました。遭遇する不思議にもはや驚きはありません。来た道を走って戻ります。湖の様子を気に掛けながら。

夜更けの帰宅にも関わらず、母が家の前に立っていました。自分を待っていたのだと、異変を感じ取ってのことであると、ナマヨミはすぐに分かり、一言謝罪しました。抱きしめてくれました。そして、すべてを打ち明けます。妹は家の中で眠っていました。

「家族は一つでしょう」

母は力を合わせれば乗り越えられると言いました。その言葉に大きな力を貰いました。自分でも声に出してみます。

「私たちは必ず乗り越えられる」


背水

夜が明けると、湿った不気味な風が吹いていました。鮮やかな朝焼けの雲行きが怪しく、ナマヨミは母に見送られて長老の元へ急いで行き、いつぞやと同じく祈りが終わるのを待ちます。共に祈ります。長老の後ろ姿にはこれまで以上の威厳ありました。

「嵐が来るぞ」

ナマヨミは頷きました。神の怒りかと、試練とはいったい何かと、あれこれ訊いている最中に雨が落ちてきて、まだ晴れていると思ったのも束の間です。雲の流れが異常に速く、さながら生き物のようでした。すぐに雨風共に強まり、辺りが霞むほど繁吹きましたが、長老は微動だにせず湖の方を見つめています。

「あの山じゃ。この嵐を静める鳥が山頂で羽を休めておる」

指を差したのは、遥か南の厚い雲の先。美の象徴たる円錐形の青い山です。向かうということは、麓までいくつもの山を越えて、更にそこから頂上を目指すということです。思わずそれは無理だと口からこぼれ出そうになりますが、いや乗り越えられると奮い立たせて、昨晩のひょうたんの水を分け与えてほしいと懇願しました。助けを得て最善を尽くすのです。弟を迎えに行く心持ちでした。

今頃弟は神々を説得しているだろう。上手く行っていないことは明らかだ。一人でなんとかすると、私たち兄弟は自惚れていたのだ。恥ずべき生き方だろうか?・・・それは違う。間違ってはいたが、恥ずべきことは何もない。どこから見られても恥ずかしくない。誇りを持って突き進め。決して弟を一人にはしない。

水入りのひょうたんを三つ持って果敢に前進します。ですが、無慈悲な暴風雨を前に、帰宅するのすらやっとでした。わけても雨量は、村がそっくり滝壺に落とされたと思うほどです。

母も経験がないと言いました。ナマヨミは妹にもすべてを話します。涙ぐんだ目でじっと聞いていました。そして、昨晩完成させたというお守りを、弟に渡すはずだった妹の思いを、受け取った直後に、耳が轟音に襲われました。体が大地の揺れを感じました。何事かと外に飛び出ると、白く煙る景色には黒く大きな災いがありました。村の凡そ半分を飲み込む土砂崩れが湖まで落ちていたのです。雨の降り始めから半日にも満たず、誰も予期できなかったはずです。多くの村人が飲み込まれたはずです。

ナマヨミは泣き崩れました。自分のせいだと嘆きました。ですが、自分一人で抱えるべきではないと思います。自分一人が抱えたところで何も解決しないのです。自分の命を引き換えにしたところで誰一人帰って来ないのです。

村の危機に男たちが広場に集まりました。ナマヨミは無様だと思っていた姿を晒します。泣きながら謝って、皆に助けを求めたのです。弟の話をしました。自分の代わりに旅立ったことも。頬を伝う雨に、皆が涙を加えながら聞いてくれました。素晴らしい兄弟だと讃えてくれました。この件から八年間も目を背けてきた皆の責任だと声が上がりました。

「よし、皆で行くぞ」

「そうだ、皆で行こう」

「皆で乗り越えるんだ」

まずは長老の家へ。できる限りの水を背負って旅立つ為です。我々は家族だと言い合いました。互いを鼓舞して頬を叩き合いました。雲外蒼天。一同は結束して歩き出したのです。


蹴裂伝説

神々はその様子を一部始終ご覧になっていました。話し合いの場が持たれて、それぞれのお気持ちを表明されます。概ね、彼らに試練を与えたことを恥ずかしく思われる声でした。村人たちの心根の美しさに感動されたのです。肥沃な広い平地を明け渡す決定に異論は出ませんでした。彼らならば、人も物も増えて豊かになっても、奪い合うことなく、これまで通り助け合い、一つの家族のように暮らして行くだろうと。

村の男たちが目指す山頂に、顔を出した晴れ間から一筋の白い光が差して、それは大きく跳ね上がる、無数の細かい光の粒子になりました。麓にきらきらと、その一部は風に乗り、やがて光り輝く小鳥になり、遥か遠くの、指差す男たちの元にも、一羽飛んで行きました。晴れ間は少しずつ、かの山頂を中心に、輪が広がるように雲を押しのけました。嵐は去ったのです。土の匂いが立ちのぼり、日は西に傾いていました。

安堵していた村人たちですが、唐突に夜のような影に覆われました。日差しを遮る巨大な何かです。人のようにも見える何かです。恐怖に震えながら瞼を閉じて、これ以上災いがないことを皆で祈ります。


その何かとは、人の姿をされていた神です。長い白髭をなびかせてお二人、本来の姿で立ち上がられたのです。そして、湖の際にそそり立つ南西の山を、なんと、大きく蹴り裂かれました。大地震のような衝撃。湖水が猛る音と共に流れ出て、神々はその流れを整える堰をあっという間に作られて、人の世から姿を隠されました。

夜になると、叢雲のない空には十六夜の月が懸かりました。煌々とした月明かりと、勢い良く流れ出る水の繁吹きは、小さな虹を闇に織りなしました。


広大な湖の水位は緩やかに下がりました。ただ、当初は全く下がらず、水が大量に加わっているか湖底がせり上がっているかの、どちらかでした。答えは空が晴れやかに示していました。雨は一滴も降らなかったのです。

村人たちが不安げに見守る中、流水は七日七晩続いて終わりを迎えました。盆地になって現れた平地の中央には、ひと際大きな木を取り囲む田園風景がありました。緑溢れる、湖水の影響を全く受けなかった不思議な空間。外界から閉ざされたその里で、神々の試練によって連れてこられた者たちが暮らしていたのです。再会の時は来ました。

人と神が行き交い、やがて和やかな繁栄と共に多くの人が行き交い、よってこの場所は、「かい」と呼ばれるようになりました。


← 交い湖 Episode 3はこちら

・・・・・・・・・・

【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。


この記事は素晴らしい!面白い!と感じましたら、サポートをいただけますと幸いです。いただいたサポートはParoleの活動費に充てさせていただきます。