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ちぶり通信15_島暮らしの教訓

8月11日に7か月滞在した知夫里島を去った。皆様お世話になりました。

皆んなの顔が写ってるのでアニメ風で

光陰矢の如し。7か月は一瞬だった。一瞬ではあったが、多くの経験と素敵な出会い(そして事件)に恵まれた非常に充実した期間であった。

せっかくなので島滞在中に得た気づきと振り返りをいくつか行おうと思う。


①お客様にならない

都会に暮らしていると、社会のシステムが上手く回っているので、なんとなくでも生きていくことができる。自炊をしなくても24時間営業しているコンビニに行けばいいし、近所の清掃も知らない間に業者が行ってくれる。平成30年~令和2年の3年間に東京23区で計742人の孤独死が確認されたそうだ。悲惨なニュースだがそれだけ孤立していても普通に生きていける社会が東京ということでもある。お金さえあれば、蝶よ花よとお客様として生活できる。

一方、田舎ではそうはいかない。お客様的態度では生きていけない。自分が地域に積極的に関与していく必要がある。
たとえば、食材。離島では輸送費がかさむので物価が高い。約7か月の間ついぞ商店で肉を買わなかった(というか買えなかった)。野菜も財布の具合では買い渋るしかなかった。ではどうやって食材を手に入れるかというと、もちろん商店で購入するのもそうだが、ぶつぶつ交換で譲ってもらったりすることが多かった。一人暮らしで家に閉じこもって社会と断絶していたら確実に飢え死にする。
地域清掃も重要である。特に草刈り。コンクリートに覆われている都会ではなかなか実感できないが、草が伸びるスピードの早さは自然の脅威である。あっという間に道を覆い、側溝を覆い、家を覆い、お墓を覆う。行政が草刈業者を地域に派遣するわけではないので、地元住民が集まって定期的に草刈りを行う。草刈りに参加することで、地域の人に認知される。逆に草刈りに参加しないと、地域のメンバーとして認めてはもらえず住みづらくなる(と思う)。ここで、地域のメンバーとしてカウントしてもらえると、おすそ分けネットワークに組み込んでもらえたり、なにかと良くしていただいたり、非常に生きやすくなる。

まとめると、お客様的態度で過ごすのではなく、草刈りに参加するなど積極的に地域に顔を出して、覚えてもらって、自分にできそうなことは買って出て、少しでも地域に貢献する。すると、自分が気持ちよく生きられるようになる。この「地域貢献」意識を知夫里島生活で身に付けられたのは非常に良かったと思う。

こう書くと「田舎って面倒くさい」と思われるかもしれないが、そう、田舎は面倒くさいのである。しかし田舎にまだ残っている「共同体」や「繋がり」により、自分も生活を助けてもらえたりする。
都会でも、地縁に煩わされず個人の自由を謳歌する人もいれば、縁もつながりも希薄な社会でどこか心に寂しさを抱えている人々も一定数いるわけで、田舎も都会もどっちもどっちなのである。要するに、いいとこどりはできない


②田舎にも(にこそ!?)面白い人はたくさんいる

知夫村でも海士町でもIターン者で都会からやってきて起業や自分らしい生き方をしている方に多く出会った。隠岐に来る前はこんな面白い人々に出会えるなんて思いもしなかった。

話は脱線するが、2019年に私はかつてミャンマーに1年ほど暮らしていたことがある。そこでも多くの面白い日本人と出会った。2019年時点のミャンマーは、アジアで一番の貧困国でありながら、爆発的な経済成長が見込まれていた。ラストフロンティアとして投資は過熱し、多くの外資系企業が流入していた(その後のクーデターによる政変で全て台無しになるのだが)。当時そこにいた日本人たちは、駐在さん(大企業の部長クラス)、起業家、ミャンマー語を学習している変わった学生たちなど、面白い人が多かった。しかも辺境ミャンマーには日本人は1000人くらいしかおらず、噂が瞬時に広がるような、ひとつの村的なコミュニティーを形成していた。政変でほとんどの日本人は帰国してしまい、人の個性も豊かで付き合いの密度も高く、あんな面白い人々が集まる村的コミュニティには金輪際出会えないかと思っていた。が、知夫里島にそれがあった。

知夫村内600人の近況を全員が共有しているくらい繋がりが濃く、人間関係ががっちりしている。ガラパゴス化した島内では絶滅危惧種レベルの強烈な個性の持ち主が大勢いた。島内で起業したり、自営業をするIターン者も多く、行政も村内での起業を金銭面でも積極的に応援している。知夫村はどことなくかつてのミャンマーの日本人コミュニティと近似している。

超過疎地域ではあるが、案外賑わってて面白い、そんな島だった。辺境にこそ、面白い人がいる!

③目的があれば辛くない

これは別に島暮らしに限った話ではないが、目的があれば辛いことがあっても、その苦い経験を肥やしにすることができる。

私が島生活で1番苦労したのは、何も娯楽が無いことでも、物価が高いことでも、給与が低いことでもない。1番苦労したのは噂だ。

噂は怖い。何かあれば噂が立つ。煙が無いところからも煙が立つ。

消沈しても、「私の本来の目的はJICA海外協力隊として途上国に貢献することであり、この長い経験も赴任地で活躍するための肥やしにするのだ!」とポジティブに捉えていた。三線の師匠からは、「あなたは唄者(うたしゃ)になる人です。自分の肥やしになる経験を積み重ねて行きましょう!✊」と言われた。全部、経験。目的があれば辛くない。

加えて、内田樹さんの「勇気論」にも励まされた。
「連帯を求めて孤立を恐れず」。自分のやるべきことをやる、そのためには一時的な孤立をも恐れない(注:ここで言う孤立は、いずれ誰かに理解されるための一時的な孤立のこと)。

やるべきことを一歩一歩進んでいくのに必要な心の強さの端緒を掴んだと言える。

④他にも

小さいからこそ面白い
→普通に生活する分には、自分の活動が社会に及ぼす影響なんて感じることがないが、600人の小さな島だったからこそ、1人の活動が全体に影響しやすかったように思う。社会への効力感を感じたのも面白かった。加えて、顔の見えるもの同士、これをやったら〇〇さんが喜ぶだろうな、〇〇さんが悲しむかな?と同じ村を構成するメンバーのことを慮った活動ができた。「構成メンバーのことを考えた活動をする」、「特定の誰かだけを贔屓しない」なんて、多分民主主義の原点だと思う。

派閥には気をつけろ
→これには要注意。何度か地雷を踏み抜いた。人間関係が濃いからこその負の面もあることを思い知った。

伝統文化を残す
→知夫里島には民謡(しげさ節、どっさり節)や各地区のお祭りなど、「知夫里らしい」文化が色濃く残っている。お祭りなどは、村が一体化するイベントでもあり、人々が強く繋がり続けるための機能も果たしている。私の地元は、祭りも途絶え、それに伴い、地域が空洞化しているのが現状だ。伝統文化は絶えてしまえばかつてのように蘇らせるのは難しい。地域の空洞化は社会の趨勢で、文化も消えていっている。なんとかして地域文化を残さなければならないし、自分もその一端を担う必要がある。


最後に

大体、ざっくり挙げてみたらこんなものだろう。また、思い浮かべば追加したいと思う。

隠岐に縁ができたことに深く感謝しつつ、本文を締めくくりたいと思う。

ではまた!


追記:

知夫を去った後は実家に。夏、最高。

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