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『パラケルススの薔薇』青+薔薇色が主調のボルヘスの恐るべき幻想短篇小説集

    『パラケルススの薔薇』ボルヘス☆鼓 直 訳
 バベルの図書館 編纂/序文/J・L・ボルヘス (国書刊行会)

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        ― は  じ  め  に ― 

何といっても最初に触れずにいられないのは、本の装丁だろう。
御覧の通りの迫力、且つ華麗なイラストの表紙が観る者を釘付けにする。
本の大きさも変形判というのか恐ろしく縦長の長方形、しかも箱入りという贅沢さ。こんなことをやれるのは国書刊行会以外に考えられない。
それも本の刊行は1990というからもう30年以上も前(因みに本書のイタリアでの初版は1980年)なのだ、恐るべし。

左側のイタリア語のものが本体  右側の日本語のものが箱

もちろん肝心の中身も装丁に負けてはいないことを改めて伝えておこう。


●この本との出会い

以前G・ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』を取り上げたように、ラテンアメリカ文学には少なからず興味を持っている。
ある本を読み終え次に読む本を決めるのは、人それぞれの気分や理由にもよる。図書館から借りたものや積読本が溜まっているならその中からチョイスするだろうし、またその時期に傾倒する作家がいるならそれらの作品から選ぶだろう。あるいは誰かから「これ、おもしろいよ」などと勧められたりする場合もないわけではない。
自分の場合は、最近の傾向としてよくあるのは、ある本を読んでいる最中に引き付けられたある言葉から想念が湧いてというパターンである。
それはある一つの熟語であったり単語であったり。最近は哲学に興味があるせいか哲学者の名前や哲学基本用語のことも多い。

この本との出会いは最初に挙げた想念からのパターンで、それは「弟子」という単語だった。「弟子」と聞けばピンとくる方もいるかもしれない。この感想文を書く一つ前に書いたノヴァーリス作『サイスの弟子たち』というタイトルである。でもそれがこの『パラケルススの薔薇』というボルヘスの短編集と何か関係あるの?という人のために次の項で説明しよう。

●「パラケルススの薔薇」全体の構成と想念について

まず「編集者より読者の皆様へ」という序文が、次に4つの短編、その後に「等身大のボルヘス」というアルゼンチンの作家によるインタヴューが、最後にはかなり充実した内容のボルヘス年譜、書誌などが掲載されている。
この4つの短編の個々については解説しないが、その中の一編に本と同じタイトルの『パラケルススの薔薇』というのがある。実はこの中に例の「弟子」が登場するのである。
とはいえ、それはページを開いて初めてわかることで、タイトルに弟子という言葉が入っている訳でもない。それならどうして?

実は『サイスの弟子たち』を読んで感想を書いた後、しばらく熱に浮かされたように(哲学関係の本は別だが)他の本を読む気がしなかったのだ。いや、ノヴァーリスの代表作『青い花』だけは読んだ。これは『サイスの弟子たち』を先駆とした作品で、長編だが物語としてこなれていて読みやすかった。だが、こちらはまた別の機会に譲ることにしよう。
ただ一つ付け加えるとすれば、この『青い花』というタイトルの特に「青い」という文字に隠された意味が気に掛かってはいた。それとやはり『サイスの弟子たち』に出てくるイシスの女神における「神秘性」についてだ。

ノヴァーリスのロマン主義の背景にある<魔術的観念論>というものは、新プラトン主義のプロティノスの神秘的体験へと通じるもののようだ。その中でユダヤの神秘的な宗教<カバラ>の解説に触れる機会もあり、解説者がボルヘスの『パラケルススの薔薇』について紹介していて、そこにどうやら「弟子」が出てくるようだと聞き及んだわけなのだ。

●パラケルススとは誰か。

短篇『パラケルススの薔薇』本文の最初の一行目はこんな文章から始まる。

地下の二室を閉める工房でパラケルススは、その神に、その定まらぬ神に、いずれの神に、弟子をお遣わし下さるようにと乞うた。夜が迫っていた。

「パラケルススの薔薇」より


こんなふうにいきなり最初から弟子という言葉が登場し、続いてパラケルススの元に不可解なその姿を現すのだが……。
そろそろこの辺でパラケルススって一体どういう人物なのか?と思われている方のためにも簡単に紹介しておこう。

2018年にPARIS植物園で見かけたパラケルススの紹介版

パラケルスス(1493~1541)はスイス生まれで「医化学の祖」また「毒性学の父」とも言われる医学者兼錬金術師、また神秘思想家でもある。
錬金術の研究のために各地を遍歴した人生を送ったと言われるが、悪魔使いでもあったという説もある。
2018年の6月にパリの植物園に行ったとき、きっと偉い人物に違いないと写真を撮っておいたのだが、後にそれがこの人物だと判明したときの驚き。理系の勉強をされた方なら御存知だろうが、邦訳されていない厖大な専門書が山のようにあるらしい。しかし、彼のような人物を主人公にした小説があるなどとは今回初めて知ったというわけである。そしてまさかパラケルスス繋がりで「弟子」に出会うとは。
何か符号のようなものがパリの植物園からすでに仕掛けられていたのかもしれない気がしてくる。

●ボルヘスがこの短篇で語ろうとしたもの

先ほどの話の続きになるが、弟子をほしいと願う彼の内心を見透かしたように、弟子志望の1人の男がパラケルススの前に現れる。彼は所詮は魔術師だろうと思う男と、相手が弟子に相応しいかを見極めようとするパラケルススとのいわゆる攻防戦である。内容には触れないが、このやり取りの中でパラケルススが語る言葉は哲学的示唆に満ちたものばかりだ。

「その道が<賢者の石>なのだ。そもそもの出発点が<賢者の石>なのだ。この言葉の意味が分からなければ、おまえはまだ物のわきまえもついていないということだ。お前の踏み出す一歩一歩が目的地なのだ」

本文30頁

これらの言葉を読んだとき、またこうして今その意味をさらに深く考えるとき、やはりパリの植物園から全ては始まっていたように思ってしまう。自分に出きることは結局、見えない軌跡を描く足跡を一歩ずつ確かめながら、次の目的地からまたさらに次なる目的地を目指し進んでいくだけなのかもしれないと。

「この薔薇を火中に投ずれば、それは燃え尽きたと、灰こそ真実だと、お前は信じるだろう。だが、よいか、薔薇は永遠のものであり、その外見のみが変わり得るのだ。ふたたびその姿をおまえに見せるためには、一語で十分なのだ」

本文34頁

これなどは錬金術師パラケルススのいかにも言いそうな答えではないか。
本に例えるなら、大事なものは中身であって箱ではない。箱は中身を保護する役目はするが、箱だけあってもそれは抜け殻に過ぎない。中身はボロボロになって風に吹かれてどこかへ飛んでなくなっても、本を読んだ人の中に記憶され残る。外見のみが変わり得るとはこういうことでもあるのではないだろうか。
またここで言われるその<一言>とはカバラの知識を授ける御言のことを指すのだが、つまり真理を求めるよりそのプロセスが大事ということのようだ。
カバラでなくとも個人的にはとても自然に頷ける考え方である。

●その他の短編たちについて

今回は長くなったので省略させて頂くが、ボルヘスの他の3遍もそれぞれ読み物として普通に読んでもおもしろい。幻想的だが推理小説的な部分も兼ね備えていたりする。センテンスが短く会話も簡潔でいながら深みもある。
『パラケルススの薔薇』では主調の薔薇色が登場したので、最後にもう一つの主調である青の登場する短篇のタイトルを挙げておく。
本の表紙で観るとおりの存在感を放つもの、そのタイトルの名はもちろん『青い虎』。物語的な部分でいうなら、少しホラー的なものもブレンドされていちばんおもしろいかもしれない。果たして青い虎の正体は?などというクイズを出したくなるような作品だ。

最後の最後に一つ言い忘れたことを付け加えると、これらの短編集はボルヘスが80歳の齢にさしかかって書いたものだということである。
年譜を見ると87歳で亡くなる数か月前に、46歳差の教え子であり秘書である女性と結婚している。
ガルシア・マルケスも『コレラの時代の愛』で70代の愛の世界をけっこう赤裸々に謳い上げたが、やはりラテンアメリカ文学ってスケールが大きいのは、実人生も熱いからなのかもしれない。



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