『コレラの時代の愛』にみる愛の形【#読書の秋2022】
★G・ガルシア=マルケス
この本のタイトルを聞いてどんなイメージをあなたは持つだろうか。
コレラと聞けば、新型コロナウィルスを思い浮かべるのは当然としても、現在の収束が見込めぬ中で新たに注目され読み継がれている、カミュの『ペスト』を思い浮かべる人も多いはずだ。
最初に断っておこう。
この小説ではコレラという疫病はあくまでも時代背景の一端として重要な役目を担うものであっても、決してそれ自体が主題として前面に書かれているものではないということを。
これは奇想天外な物語なのだ
それも途轍もなくスケールの大きい
本の帯に書かれている紹介文はこのようになっている。
上記にぜひとも少し付け加えさせて頂くなら…。
“男を捨て別の男性と結婚し
子供はもちろん孫までいる年齢になった彼女を
男は51年9カ月と4日ずっと諦めずに待ち続け
彼女の夫の通夜に改めて永遠の愛を誓ったのだった”
これを聞いただけでまず誰もが仰天するに違いない。
それだけではない。
年齢的にはシルバー世代の真っただ中を生きる人々が主人公でありながら、その恋愛模様は若者のようなエネルギーと生々しさとに溢れている。いわゆる現役なのだ。これはやはりスペイン系のラテン民族ならではの特徴と言ったら言い過ぎだろうか。
「いまだに恋愛以外の理由で自殺する人がいるというのは嘆かわしいことだ」という台詞がごく普通に出てきたりもする。日本の現状ではとても想像し難いことかもしれない。
マルケス本人が<永遠の愛は存在する>という思いの持ち主でなかったら、もちろんこのようなストーリーは生まれなかったに違いない。
いやそんな現実離れした夢物語みたいな話に付き合いきれないと思う方は、どうぞこの辺で現実の世界にお戻り頂いても構わない。
ただ読み進めれば間違いなく、一見ファンタジーのように思えるストーリーの中に散りばめられた生臭いほどの現実描写や、あらゆる種類といっても大袈裟ではない人間的感情が実に見事に鮮やかに描きだされていることに驚くはずだ。
作家が男性だから男の心理がわかるのは当然としても彼女が2人だけの間とはいえ婚約までしながら最終的になぜ彼でなく亡くなった夫のほうを選んだのか?このあたりの心理描写というか、いや複雑な女心というものを実によく理解しているのには舌を巻く。
フロレンティーノ・アリーサを明白な理由もなく切り捨て、 その後ウルビーノを選んだ際も 実はこれといったはっきりとした理由があったわけではなかった。 彼女はあの二人をそれほど深く愛していたわけではなかった。 おまけに、フナベル・ウルビーノのことはほとんど知らなかった。(本文より)
フェルミーナ・ダーサははじめて無意識のうちに彼を拒んだ理由が飲み込めた。《人間というよりも、影のような感じの人なの》と彼女は言った。確かに、彼は誰も知らないある人物の影のような感じがした。(本文より)
つまり言い寄られたウルビーノのほうを彼女が選んだ理由は、ウルビーノが彼(フロレンティーノ)とは対照的な性格の、つまり存在感のある人間的な性格だったからなのだ。
マルケスは物語を現実のように納得させるための方法として、主観的な語り口を抑え現実をありのままに描写するという徹底的なリアリズムの文体を用いている。作家であると同時にジャーナリスト経験もある彼には適した文体であるのだろう。
主人公の男女2人を取り巻く…彼女の亡くなった夫を始めとする様々な人々が、各自の持っている独特の人生観を2人に投げかけては擦れ違っていく。
青年、または少女からシルバー世代へと50年以上に渡る人生の軌跡は、常に内戦とコレラの蔓延の歴史でもあった。寄せては返す波のごとく物語は一時も停滞することなく次々と思いもかけぬ局面へと展開していくせいで、長編小説に向かう時の気合もどこへやら、気がつけば息もつかせぬほどその世界に引き込まれていった。
尚、2007年には原作と同名の映画(米)が公開されている。
小説と映画は所詮別物、映画には映画の小説には小説の役目がある。
だが時にはそれぞれの違いを味わいを素直に楽しんでみるのも悪くはない。
もっともっとエネルギッシュに生きろ
他人なんて関係ない
誰でもない自分の人生
報われない愛
それもいいじゃないか
もっともっと心のおもむくままに…
人生は長くもあるがそれでも案外短いのだから
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