見出し画像

その人が求めている言葉を言うべきか、本当のことを言うべきか

いつも迷う。

私はある界隈で、2000人ほどのフォロワーを抱えるアカウントを持っている。まず自分がなんらかの形でそこまで影響力を与えることができるアカウントを育てられたことに驚きではあるが。
そのアカウントはわりと相談事とかが多く、質問箱も設置しているが、とにかく「〜について悩んでいます」「私さんはこのことについてどう思いますか?」と言う質問がとても多い。

論理的に考えて、こうした方が良いと思うけど、おそらく質問者が求めている回答は違うだろう、と思うことが何回も何回もあって、私はいつも後者を選択するようにしている。それは、その人たちが本題の質問に入る以前に、「いつも共感させていただいています」「いつもツイート見てます。」などの私のツイートに共感をしてくれるからだ。そもそも私も論理的に動くより、感情で動いてしまうことの方が今までは多いと思っていて、その分合理的な決断を下してくることができなかったのかもしれない。

先日、Daigoの「後悔しない超選択術」を読んで、(大学時代に心理学を習っていた私としては、Daigoを崇拝することは やや気が引けるのではあるが。やはり彼は参考になると思っています。やや曲解が多い気がするけどね。)改めて、後悔しない選択は論理的に考えることだよなあってやっぱり再確認して。わかっているけど、人間感情で動きたいものだし、私のツイッターを見てくれている人たちは余計に共感することを大事にしているから、ね。そもそもTwitterなんて自分の好きな雰囲気や好きな文章を書く人たちをフォローしているのであって、私が気に入らないならばそれはフォローを外せばいいだけの話。そんな中で私に質問をして、助けを求める時は、共感してほしい。私の意見を推して欲しい、と思うに決まっていると思う。だから、私は質問箱やTwitterには、あくまで私の意見で、と言うことや私だったら、と言う文言を必ず入れるようにしている。

それと同時に、人は人の決断をどうでもいいんだなあと思うこともよくある。それは、私自身が他人の決断をどうでもいいと思っているからである。
カップルのショッピングでよくある、「どっちがいいかな?」と言う質問や、ふとした瞬間の、どうすればいいと思う?と言う質問。これらに対していちいちい論理的に考えたことはない。ディープな話なら別だが。しかしながら、私がこっちがいいと思うよ、と言う側に選択してくれることが多い。私は当事者ではないから、すごく感覚的な判断をしているだけなのに。これは大変危険なことではないのか?

いつか、その人がその選択に後悔したとき、お前がそう言ったからこうしたのに!って言われては私も困ってしまう。幸いいままで言われたことはないけれど、相手に選択を丸投げするのは、少々危ないなと自分に忠告しておきたい。

とはいえ、私だって論理的に考えておかしいことでも、共感や応援、背中を押して欲しい時だって沢山あって。

先日仲良しな友人たちとリモート女子会をした時も、明らかに望みの少なそうな恋をしている私に対して「やっぱりそれは無理だよ」と言う人はいなかった。思ってるのかも知れないけどね。でも、面と向かってそう言われるのはどうしても悲しい。
友人はそれをわかっている。私自信が当事者だから一番わかっているはずなのに、友人にどう思う??と聞いてしまうのは、私も私の言っていることがあっていると思いたいし、望みを持っていたいから。

論理的に考えることが全てでは無いと思う。けど、それが相手のためになっているのかってわからない。応援して背中を押すことを本人が求めているならそうしていきたいし、圧倒的なニーズを叶えてあげたいとは思う。でも自分は論理的でありたいし、時には論理的な意見が欲しいときだってある。

論理的なんて、自分が決断するときぐらいでよくて、人の相談事を聞くときは、感情に寄り添った方がやっぱり良いのではないか。

相手の言うことを100%同じ意見でした!と言うのも、人としてちょっとどうかとと思うし、圧倒的におかしいことを言っている人に、正しいよって言うのも違うから、難しい。だから、私は私の中の意見として確固たるものを築き上げていきたい。共感と論理的の塩梅を見ながらね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?