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ラッキーだっただけ。

続けます。
どうも、コーシです。

あれだけの多くの杉の枯葉を運んで、まだ午前中らしい。
らしい、とでも他人事のように付けておかないと自分の体内時計を金輪際信じられなくなりそうだ。
まぁ冷静になれば体内時計が狂うのも無理はない。
理由として挙げられるものはいくつもある。
昨日まで東京のど真ん中にいたのに、今は長野の古民家で生活していること。
朝5時に目が覚めて、完璧な朝日を眺めたこと。
午前中から地域の活動に参加して大汗をかいたこと。

朝ごはんを食べずに午前中を終えたので、全員お腹が空いている。
それだけはどこにいようと変わらない。
昨日ここに向かうドライブの道中に買ったそばを準備する。

昨日はスパイスカレーなんてものを作ってしまったので、今日は和風に。
しかし”スパイスからカレーを作った人物”の名に恥じないよう、ちょっと工夫した料理を作ることにした。
みんな汗をかいただろうし、塩分と野菜の旨みが染みる状態だ。

トマトときゅうりを刻んで、醤油やら何やらで蕎麦つゆの味を作って、少し煮る。
これを冷やせば、ピクルス風蕎麦つゆができる。
というか、できちゃった。
まぁ、不味くはならないだろうくらいのテンションで作っていたのだが、完成してからこれがピクルスっぽいことに気づいて、あたかも”最初からピクルス狙いで作ってました”という雰囲気で提供する。

咄嗟の行動だが、これがまじで美味しい。
若干人を選びそうなリスキーな味だったが、そんなことどうでもいいやというレベルで好きな味だ。
味見係の親友が美味いと言ってくれたので、もうそれで十分。

そばを食べ終えた一行は、ここまで流れてくるお水の上流に行くことにした。
助手席に親友を、後部座席に昨日と同じお二人を乗せて、坂を上がっていく。
その道のりは徐々に激しくなる。
SUV車(スポーツ・ユーティリティ・ビーグル)と名乗る私の相棒だが、とはいえ整備された道路にしかタイヤを踏み入れていないシティ派の相棒なので若干不安が募る。
しかしその反面、なぜ自分がSUV車に憧れたのかを思い出して心の底から楽しむ自分もいた。

上流に到着。
少し前に土砂崩れがあったようで、山肌が剥がれたような断面の下には茶色い砂の中に木の根っこが逆さに姿を見せている。
この土砂崩れの影響で、地域にはお水が不足しているらしい。
山の山頂の、さらに上から降ってきたお水はそのことを気にぜず綺麗に透き通っている。
地元秩父のお水もかなり綺麗だが、ここのお水は度を超えている。
こんなにお水を眺めたのは初めてかもしれない。
ただただ、眺めていた。

古民家に戻った頃、ようやく親友が古民家の全容を案内してくれた。
電気がないという最大の理由は置いておいて、確かに昨日の到着から今までこの古民家の中を探索する時間は無かった。

古民家の中は文字に書いた通り、時が止まっていた。
本物の紅葉を貼り付けた可愛い壁紙、壁一面に貼られた戦時中の新聞、もうこの窓は彼らのものでしかないというほど大量のカメムシ、木でできた今でも使えそうな土農具。

その全てが、今まで読んできたすべての歴史に関する本より、写真より、映像より、歴史を語っている。
この古民家に今自分がいることが、不思議だ。
古民家側からしても、Angeles時代の大谷の真っ赤なTシャツを着た若造が、まさか我が敷地に足を踏み入れるなんて思ってもみなかっただろう。
親友がこの古民家に刻む歴史に、その鱗片だけでも眺めることができることに、心底ワクワクする

しばらくして、昨日のドライブで一緒だったひとりを駅に送る。
まさか、たった24時間ちょっと一緒に居ただけとは思えない。
すげぇ寂しい。
こんなことは私の人生において、珍しいことだ。
初対面の人と別れる時なんて、多分いつもちょっとほっとしている気がする。
こんなに寂しいのは初めてかもしれない。

電車からおそらく古民家が見えるので、電車に乗った彼女に向かって「あっち側だよ〜!」とボディランゲージで伝える。
全然こっち側だった
後から、彼女が電車から撮った写真に古民家が映ったのをみて心底安心した。
本当にごめんなさい
墓場まで持って行こうと決意してました

間も無くして、親友と私は2人で夕飯と明日の昼ごはんの食料調達に向かう。

晩御飯は豚汁にしよう。
結局、僕らの身と心に染み渡って食の喜びを最大化してくれるのは味噌の味がする汁なのだ
私はそう信じている。

スーパーの食材は地元で作られた野菜が多いからか、野菜が安い。
こんなの豚汁のためと言っても過言ではない。
豚汁の作り方は、家で母も父もそれぞれの豚汁を食べているため、何となく分かる。

スーパーで久々のトイレで文明と再会したのも束の間、古民家に戻り豚汁を作り始めた。

みんなと話しながら豚汁を作る。

ふと、思う。
私は今日までに何もやっていない。
今日の流れるような、毎秒が新鮮な一日。
内容は違えど、今日のように過ごせたら毎日は理想的だ。

でも、私はここに辿り着くために生きてきたわけではなくて、自分なりの娯楽や努力を楽しんできた。
杉の枯葉を運ぶために運動したり、ピクルスそばや豚汁を作る術を学んだり、この古民家の歴史に相応しい自分を求めたり、初対面の人と頑張って打ち解けようとしたり。
そんなことは人生で一度も意識してもいない。

それでもここに辿り着いて、人に豚汁を褒めてもらっている。
水が透き通る様を眺めて何かを感じた。

私はただ、ラッキーだっただけ
どうせそこに辿り着くには努力は必要なのだけれど。
最終的に何かを感じるのはラッキーが集まった場所。

何かを得た時に、それが自分によって自分にもたらされたものだと嬉しいけれど。
ラッキーだった、と思っていた方が多くの事においては気が楽になるかもしれない。
あっち側だと思った古民家がこっち側だった。
でも古民家の姿は、そこで手を振る仲間の姿はそこに写っていた。
そのラッキーな結果だけで、一旦は、十分だろう。

 フクダコーシ しそとツナ缶。
 Instagram @f.kohhhhhshi_(アート投稿中!)
 Twitter @FKohhhhhshi


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