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ひねくれているのではなく、純粋度合いが強いという可能性

小さい子供って、一般的な常識がまだ定着してなくて純粋で、いろんな所に疑問を持ちますよね。

小さい子供であれば許されても、大きくになるにつれて「普通」の考えから外れた思考をする人は「ひねくれている」とか「斜に構えている」と言われるようになります。
「もうこの歳なのに、こんなことを言う・するなんて、わざと普通じゃない人間を演じているに決まっている!」つまり逆張りをしていると。

確かに実際に「ひねくれている人」や「斜に構えている人」はいると思います。でも、子供のように疑問を持ち続け、それがただ解消できていない人もいると思うんです。誰かと争いたいわけではなく、本当に自分の考えが多数派と外れているだけの人が。



(幼い頃は除いて)私は中学生くらいの頃まで、「斜に構えてる」とか「ひねくれている」と言われることがそこそこある子供でした。

例えば

・「記念日とかってなんのためにあるの?(人工的なものを除けば)何も特別なことは起こらないし、他の日と何も変わらない」
・「箸の使い方はなんでこうなの?本当に理に適ってる?誰にも迷惑をかけていないのにマナーとか言われても分からない」
・「必要ない勉強が多くない?実生活では電卓があるし、漢字も調べられる。歴史に関してはどれだけ勉強しても、教科書の下位互換の存在にしかなれない。」
・「食べ物の好き嫌いをするな!作った人の気持ちを考えろ!って言うけど、自分がいやいや食べるよりも、これを好きな人が食べた方がみんなが幸せになれるんじゃないの?」


当時のことを思い出すと、キリがありません。
今でこそ、これらの疑問に自分なりの答えを持っていますが、当時はこのような純粋に生まれてくる疑問に、大人や年上の人から「ひねくれている」「斜に構えている」という言葉をぶつけられました。

私にも、大人や年上のいうことは「おそらく正しい」という価値観はありました。大人の方が自分よりも知っていることが圧倒的に多く、いつも何かを教えてくれるのは大人(親や先生など)でしたから。


そして、疑問に対して納得する答えがいつでもあるわけではないことに慣れ、だんだんと周りに合わせることを覚え始めます。「反抗してる・扱いづらい」と思われるくらいなら、何も言わない方が無難で、結局良い子っぽく見えることに気付いたからです。適切に黙ることを覚えた私は、心と言動が一致しない場面をたくさん作る大人になりました。


こういう葛藤をしてきた私は、ようやく今になって違和感を言語化できました。


必ずしも「素直」の反対が「ひねくれている」ではない。
「ひねくれていること」は客観的視点があるから生まれるもので、「ひねくれている」と思われている当人の主観に立ってみれば、当人はいたって「素直」。


私が思うに、ひねくれているかどうかの評価は、集団の中でマジョリティ・マイノリティのどちらに属しているかをただ表すものです。もちろんマイノリティがひねくれていると評価されます。


「素直な人を採用する」などとよく就活では耳にしますが、それは「その会社におけるマジョリティに通用する素直さ」であって、自分の主観の素直さを出し切れても面接官には「ひねくれている」と見えるかもしれません。


昔は
ヒトラーに賛同できないアーリア人は、ひねくれている存在だったかもしれません。
空じゃなくて地球が回っていると主張したガリレオは「斜に構えている」人だったかもしれません。


ざっくりとした想像ですが
人口10000人の世界があるとします。ここにいる全員が嘘をつかず逆張りもしなければ、素直な人しかいません。その世界を想像しても、少数派の意見を持った人は「ひねくれている」「斜に構えている」と言われている気がしませんか?



最後に
「ひねくれている」ことを肯定する文章になってしまった気がしますが、もちろん、「否定から入らずに人の話を「素直」に聞ける」みたいな文脈の素直さは大事にしているつもりです。


自分の視野は十分に広いのか?とりあえず、この問いを忘れずにいこうと思います。
「ひねくれていないで素直になれ」と、多数派を押し付けないように。

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