自由とはなにか。

勤めている美術館には、ろうや難聴のお客さまがやってくることも多い。音声を文章化してくれるアプリケーション、『UDトーク』などを利用することもあるが、お客さまによっては声とジェスチャーだけでコミュニケーションを取ることもある。

つい先日も、立て続けにそんな2組のお客さまの来館を対応した。1組はUDトークを利用したが、もう1組は声とジェスチャーでコミュニケーションを取った。ぱっと見ただけでは判断しにくいため、他の場所に待機しているスタッフにも、念の為お客さまの特徴を伝える。

そんなとき、手を止めて考えることがある。ろうや難聴の方を、"耳の不自由なお客さま"と表現するのは果たして適切なのだろうかと。

次々とやってくる来館者の対応に追われていると、表現方法が雑になってしまうことがある。決して悪意があって発言しているわけではなくても、結果的に心がざらつく表現になってしまうことも多いのが現状だ。「それってどうなの?」と他のスタッフに思うこともあるし、他のスタッフがわたしの発言に疑問を感じることもあるだろう。

抱えている障害を"不自由"と表現するケースは少なくない。「手足が不自由」「目が不自由」など、身体的な障害に対しては特に頻繁に使われる表現ではないだろうか。だがそこでふと思うのは、「本当に不自由なのか」ということである。

生活に支障が出ることなく耳が聴こえる、手足が動かせる、目が見える。それを自由というのであれば、聴こえない、動かせない(またはない)、見えない身体は不自由ということになるのかもしれない。しかし、当事者にとって不自由かどうかは別の話だ。不自由さを感じている人もいれば、それがその人にとって当たり前となっていることもあるだろう。自由不自由を判断する前提がないから、そもそも不自由さを感じることもないかもしれない。

障害のあるなしを決めているのは他人や社会で、そして自分自身で、本人はそれでも生きてゆかねばならない。生きてゆくために代わりの方法を見つけて生活を送る。本人はそうするしかないのだから。生きてゆくというのは、何か"代わり"となるものを探すということでもある。方法は一つではない。代わりを見つけることは簡単ではないけれども。だから生きてゆくというのは、本来とても苦しいことなのだ。障害者といわれる者にとっても、そうでない者にとっても。

美術館にやってきたお客さまは、果たして不自由だったのだろうか。アートの鑑賞方法は一つではない。一つではないから、いろんな人に開けた場所であってほしい。そういう場所にしたいなあと思う。美術館も、わたし自身も。

帰り際、手話で「ありがとう」と伝えたら、相手も「ありがとう」と返してくれた。それがとても嬉しかった。

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