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【光る君へ】平安時代と紫式部に魅せられて

※視聴に大きな影響がない範囲でネタバレを含みます。

大河にさほど興味はなかったものの、【光る君へ】が発表された当初から放送を楽しみにしてきました。
これまでに全16話「華の影」が放送され、藤原道隆(井浦新さん)が華やかな全盛期を辿る一方、疫病に苦しむ平民たちの影がはっきりと映し出されています。

今後も「紫式部」という、歴史上明らかにされていない部分も多い女性の一生に思いを馳せながら、壮大な物語を味わっていきたいと思います。


歴史上の「紫式部」とは

さて、【光る君へ】では、のちに「紫式部」と呼ばれる まひろ(吉高由里子さん)が幼少時代に藤原道長(柄本佑さん)と出会い、ソウルメイトとして切磋琢磨していく様が描かれます。

教科書に載る絵画でしか藤原道長を知らなかった私にとって、爽やかで煌びやかな“柄本版道長”はとても魅力的です。
平民にも分け隔てなく奉仕する柄本版道長が、これからどのように変貌していくのか楽しみでもあり、心配でもあります。

一方、歴史上の紫式部の正体はよくわかっていません。
まひろという名前も【光る君へ】の中で生まれています。
当時は君主や家族、恋人以外に本名は明かさないという習わしがあり、特に女性の本名は記録に残りませんでした。
ただし、紫式部の父親については藤原為時(光る君へでは岸谷五朗さん)であることがわかっているため、姓が「藤原」であったことは確かです。

紫式部の出生

紫式部の誕生は970~978年ごろ、没年は1019年ごろと言われています。
京都で産まれましたが、没地はわかっていません。

紫式部は20代後半に藤原宣孝(光る君へでは佐々木蔵之介さん)という男性と結婚しました。
藤原宣孝とは親子ほど歳が離れており、当時では遅い結婚でしたが、藤原賢子という娘が誕生しています。
藤原賢子はのちに大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれ、女流歌人として名をとどろかせました。

『源氏物語』を書き始めたころに出仕

藤原宣孝との結婚生活は長くは続かず、およそ3年ほどで宣孝が亡くなってしまいます。
宣孝の死後、寂しさを紛らわすためか『源氏物語』を書き始め、その縁あって1005年ころに出仕が決まりました。
それが藤原道長の娘、中宮彰子の女房役です。

出仕当時、紫式部は「藤式部」と名乗っていたことが知られています。
姓「藤原」から藤を、父 藤原為時の官職「式部大丞」から式部をとったのでしょう。

なお、紫式部と呼ばれるようになった由来は、藤原公任(光る君へでは町田啓太さん)が「わか紫やさぶらう(若紫いますか?)」と尋ねたことや、『源氏物語』に登場する人物が「紫の上」であったからだと言われています。

宮仕えの間に『源氏物語』と『紫式部日記』が誕生

宮仕えの間、作家として紫式部の名声が上がることで中宮彰子の評判も高くなりました。
また、彰子の父 藤原道長の全盛期を支える存在であったとも考えられています。

宮仕えは5年ほどでしたが、そのあいだに世界最古の長編物語『源氏物語』と、宮中の様子や宮仕えの日々を綴った『紫式部日記』が完成しました。

宮仕え後の紫式部とは

宮仕えを退いた紫式部のその後はよくわかっていません。
ただ、藤原実資(光る君へでは秋山竜次さん)が綴った『小右記』の1014年と1019年の日記に紫式部を思わせる記録が残っているため、そのころまでは生存していた可能性が高いです。

紫式部が見た景色とは

紫式部は中宮の女房として出仕し、作品を通して自身の文学の才を世に広めることができました。
煌びやかな経歴の一方で、父親がなかなか官職を得られなかったことや晩婚、夫との早い死別など、苦しい時期もあったのでしょう。

さて、【光る君へ】のまひろ(紫式部)も胸が苦しくなる展開が続いています。
まひろが己の志を見つけ、活躍できる瞬間を願うばかりです。
そして、ソウルメイトである道長とのその後も気になりますね。

今後も【光る君へ】を鑑賞しながら、1000年前に生きた人々の心に触れていきたいと思います。



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