【短編小説】記憶喪失になったら婚約者から溺愛されるようになりました
1.――「あの……どちら様でしょうか?」
「来週、気になってる映画が公開されるんだけど。一緒に観に行かない?」
「……ふうん」
「それで、映画の帰りに、行ってみたいカフェがあるんだ。ラテアートが可愛いんだって。そこも一緒に行こうよ」
「……別に」
月に一度行われる、婚約者とのお茶会。
家同士が取り決めた婚約者であり、幼馴染である櫨原侑誠は、私の向かいの席で、つまらなそうに生返事を繰り返す。
別に良い。いつものことだ。
小学校中学年頃から高校二年生に至る今日まで、私に対する侑誠の態度は一貫してこうだ。
侑誠は、たぶん私のことが嫌いだ。それもそうだろう。侑誠にとって私は、親が勝手に決めた結婚相手なのだ。こうして、嫌々ながらも月に一度のお茶会に顔を出してくれているだけでも重畳なのである。
幼い頃は「流華ちゃん、ずっといっしょにいようね」なんて可愛らしいことを言ってくれたりもしたが、所詮は子どもの発言に過ぎなかったというわけだ。
今もこうして一緒におでかけする計画を立てているが、侑誠が来てくれる確率は半々。遅刻して、それでも待ち合わせ場所に来てくれたら良いほうだ。無論、侑誠からなにかしらのお誘いがあったことなんて、これまでに一度もない。
侑誠との関係は没交渉気味だが、私はこの結婚に異論はない。
侑誠は子どもの頃から知っている仲だし、こんなぶっきらぼうでも、悪い人ではないことを知っているからだ。
たとえば、遅刻したときは決まって汗をかいていること。
たとえば、遅刻してやって来たときは、心なしか落ち込んでいること。
嫌っている人間を相手にそういう誠実な態度が滲み出ている彼を、私は好ましく思っている。……まあ、全てが順調に行って将来結婚したとしても、幸せな家庭を築けそうにはないけれど。家の為に、私たちが結婚することだけに意味があるのだ。
「それじゃあ、気分が向いたら、次の日曜日、朝十時に駅前広場に来てね」
「……ん」
いつも通り、会話らしい会話もしないまま、その日のお茶会は解散となった。
そうして、約束の日。
私はいつものように一人で家を出た。
侑誠と出かけるとき、私はそのときのお気に入りの服を着る。いろんな服装の私を見てほしいというのもあるけれど、なにより、好きな服を着ることで、自分の気分を上げているのだ。流石の私も、一日中ぶっきらぼうな人を相手にしていると、気が滅入ってきてしまうから、そういう心の武装は必要なのである。
約束の時間までは、あと十五分。
映画までの時間を考えると、かなり余裕を持たせた待ち合わせ時間だ。それは、侑誠がすっぽかしたことが確定した場合、一人でも映画を楽しめる時間にしようと思って設定した時間であった。
しかし。
「きゃっ――!」
突如、後ろから強い力でバッグを引っ張られた。
次の瞬間には、背後からバイクがものすごいスピードで逃げていくのが見えた。
ひったくりだ。
そう思ったのも束の間、突然後ろからぶつかられた私の身体は、受け身も取れずに横転してしまった。
頭に、鈍い痛みが走る。
ぐらりと意識が揺れて、そのまま、暗転する。
目が覚めると、私の身体は病院にあった。
私の身体が横たえられているベッドの周りには、知らない人が何人も居て、ちょっと怖い。
「あの……どちら様でしょうか?」
だから私は、思っていることを率直に言葉にした。
すると、ある中年男性は医者に詰め寄り、ある中年女性は泣き崩れた。医者と看護師は私の状態を確認し始める。
なにもわからない私を置いてけぼりにして、目まぐるしく周囲の状況は展開されていく。
そして。
「三塚流華さん。貴女は現在、記憶喪失状態にあります」
医者は真剣な面差しで、私にそう宣告したのであった。
2.――「ごめんなさい、覚えてないです……婚約者?」
あれこれと検査を受けた結果。
一般常識等の認識に問題はないが、対人関係の記憶が失われている状態であると宣告された、数時間後。
「――流華!」
病室に、新たに知らない人が駆け込んできた。
すらりとした体躯に、整った顔立ちの少年だ。同い年くらいだろうか。黒を基調にした私服姿の彼は、きっと誰が見てもモデルかなにかだと思うに違いない。
そんな人が、どうして血相を変えて私の病室に駆け込んで来たのだろうか。
「ええと、どちら様でしょうか?」
私はこの病室で目を覚ましてから、この言葉を何度も繰り返している。
これを言うと、みんなショックを受けて固まってしまうから、あまり言いたくはないのだけれど。如何せん、私からすれば全員初対面なのだから仕方がない。
「侑誠君、来てくれたんだね。ありがとう」
さきほど私の父親だと名乗った中年男性は、やってきた少年に向かって言う。
「流華はひったくりに遭った際に転倒して、頭を強く打ってしまってね。打ちどころが悪かったのか、今の流華は、誰のことも覚えていないんだ」
「そ、そんな……」
少年も例に漏れず、ショックを受けたようだった。
しかし、彼は一体何者なのだろう。父の態度からして、私の兄妹とかではないようだけれど。親戚かなにかの人だろうか。
「ぼ、僕は、流華の婚約者である櫨原侑誠だ。……本当に、覚えてないのか?」
「ごめんなさい、覚えてないです……婚約者?」
思わず、聞き返した。
病室が個室である時点で違和感はあったが、もしかして私は、上流階級の生まれなのだろうか。今日日、高校生の身の上で婚約者が決まっているだなんて、なんだか漫画の世界みたいだ。
「そうだ。今日だって、二人で映画を観に行って、カフェでラテアートを楽しむ予定だったんだ」
「そうだったんですか」
であれば私は、理由はどうあれ、約束をすっぽかしてしまったことになる。
「すみませんでした」
だから謝った。
私がひったくりになんて遭わなければ、今日一日を平凡に楽しめていたはずなのに。私の所為で台なしにしてしまったのだ。謝るのは当然と言えた。
「い、いや、お前は謝る必要なんてないだろ……その、むしろ、僕のほうが……」
しかし彼は――侑誠さんは、わかりやすく動揺していた。どうしてだろう?
「と、ともかく!」
話題を切り替えるように、侑誠さんは言う。
「お前は僕の婚約者だ。記憶がなくても、お前のことは僕が守る!」
婚約関係というのは、こうも熱烈なものなのだろうか。漫画の知識しかない今の私にはわからない。侑誠さんが私を大切にしてくれていたのかどうかさえ、わからない。今の私には、彼ほどの熱量がないのだ。
「はあ……よろしくお願いします」
だから私は、そんな生返事しかすることができなかった。
3.――「侑誠さんは、いつもああいう感じなんじゃないんですか?」
「お、おおおはよう、流華!」
「ええと、おはようございます、侑誠さん」
退院後。
普通に生活するぶんには問題ないと判を押された私は、日常に復帰することとなった。
つまり、学校生活の再開である。
事前に、同じ高校に通っているらしい侑誠さんから、学校での修学状況を教えてもらい、自室にあったノート類を見返してみた感じ、勉強内容にはついていけそうではあった。先生方にも事情は説明してあるし、学校の場所もスマホの地図アプリで確認すれば問題ない。
しかし、通学初日の朝。
インターホンが鳴ったかと思えば、侑誠さんが玄関先に立っていたのである。
「学校まで、一緒に行こう」
「……良いんですか?」
「婚約者なんだから、当然だろ」
「はあ……」
そういうものなのだろうか。
よくわからないが、そういうものなのだろう。
あまり深く考えず、私は準備を整えると、侑誠さんと学校へ向かうことにした。
「流華はこっち。道路側は危ないから」
「はあ……」
侑誠さんは、終始周囲を警戒しているようだった。
恐らく、私がひったくりに遭った挙げ句、頭を打って記憶喪失になってしまったが故なのだろうけれど。そう何度もひったくりに遭遇するわけもないだろうに、とても熱心な人だ。或いは、それだけ私が彼に愛されている証左なのかもしれないのだけれど。如何せん、記憶がない私は理解に苦しんでいる状態だ。
現状では、私から見た侑誠さんは、熱い人、という印象である。
「流華のクラスはここ、二組な。席は窓側の前から三番目だから」
「ありがとうございます。それで、侑誠さんの席はどこなんですか?」
あっという間に学校へ到着し、教室まで案内してもらってしまった。
流れるように席まで教えてもらったから、同じクラスなのだろうと思って訊いてみたのだが、何故か侑誠さんは硬直してしまった。
「い、いや……僕は六組だから……その……」
「そうなんですね」
硬直してしまった理由はわからないけれど、普段から互いのクラスを行き来していたのであれば、当然なのだろう。本当に仲良しだったのだなあ、と思う。記憶を失くしていることが本当に申し訳なくなってくる。早く思い出さないと。
「それじゃあ、昼休みになったら迎えに来るから」
「はい?」
「一緒に、学食で食べよう」
「わ、わかりました」
たぶん、いつもそうしているのだろう。
そう思って頷き、侑誠さんとは一旦別れ、自分の席へと向かった。
「流華ちゃん、櫨原君と一緒に来たの?!」
「櫨原君どうしちゃったの?!」
「なにあれ、頭でも打った感じ?」
席に着くなり、クラスの女子たちに囲まれてしまった。
「あ、いや、ええと……」
先生から事前に、私の記憶喪失についてはクラスメイトに説明をしておくという話は聞いていた。だから、困っていることがあれば気兼ねなくクラスメイトを頼ってほしい、と。
しかしどういうわけか、クラスメイトは困惑した様子で私を取り囲んだではないか。
私も同様に困惑しつつ、今朝の経緯を説明する。
「えー、マジ?」
「急にどうしちゃったんだろ」
「本当に櫨原君は頭打ってないの?」
が、クラスメイトはいまいち納得していない様子だった。
記憶を失った私より、侑誠さんのほうに違和感があるとは、どういうことなのだろう。
「侑誠さんは、いつもああいう感じなんじゃないんですか?」
「違うよー。いつもはもっと、つっけんどんな感じ」
「朝だって、一緒に来たことなんて一度もなかったよ」
「お昼も二人が一緒に食べてるの見たことないよ」
クラスメイトの話を聞いて、私は考える。
もしかして、記憶を失う前の私は、相当な性悪だったのではないか。だから、あんなに優しくしてくれる侑誠さんの私への態度もつっけんどんであった……とか。しかし、それなら今の私にだって関わりたくないだろうに。侑誠さんは、本当に優しい人なのだなあ、なんて感想に落ち着いてしまう。
そうだ、昼休みになったら、記憶を失う前の私について訊いてみることにしよう。
4.――「私たちはあまり会わないほうが良いのではないでしょうか?」
「記憶を失う前の私って、かなり性格が悪かったんじゃないですか?」
「ぶっ」
授業を恙なく受け終え、待ちに待った昼休み。
私はコロッケ定食を、侑誠さんはラーメンセットを頼み、二人で合掌して食べ始めてから。
私が訊きたくて仕方がなかった質問をぶつけると、侑誠さんはラーメンを吹き出してしまった。
「ど、どうしてそんなことを……?」
「だって……」
食事を進めながら、私は朝のSHR前にクラスメイトと話したことを伝える。
すると、侑誠さんはばつの悪そうな表情を浮かべた。
「流華のクラスメイトが言うことは、間違いない。けど」
もごもごと居心地が悪そうに、侑誠さんは続ける。
「流華の性格が悪いわけない。僕がこうしているのは、流華が僕の婚約者であるからで……」
「それなんですけど」
午前中に考えていたことを、私は言う。
「侑誠さんが、私が婚約者だからという理由で無理をしているのであれば、私たちはあまり会わないほうが良いのではないでしょうか?」
「そ、それは嫌だ!」
がたん、と音を立てて侑誠さんは立ち上がり抗議してきた。
なにごとかと周囲の視線を一瞬だけ集めたが、私たち二人が揉めているとわかると、各々それまでの会話に戻っていく。言い争いも日常茶飯事だったのだろうか。
「だから、その……」
侑誠さんは小さく咳払いをしながら座り直すと、私を見据えて話を続ける。
「これまで僕らは、婚約者として定期的に交流を続けてきたんだ。それを辞めるのは、よくないと思う」
「なるほど……?」
私は首を傾げつつ、半分頷く。
記憶を取り戻す為には、これまでの日常を極力維持したほうが良いという話だろうか。でも、それなら侑誠さんの今日の行動は、矛盾しているのでは?
「そ、そういえば流華、授業のほうはどうだった? ついていけそうか?」
「え? は、はい。事前に予習もしておいたので、大丈夫そうです」
急な話題転換に困惑しつつ、私は訊かれたことに答えた。
婚約者云々は、あまり触れないほうが良い話題なのだろうか。
クラスメイトが言うような、侑誠さんの急な態度の変わりようも、なにか理由はあれど私には話したくないのかもしれない。
なんとなく距離を感じるが、しかし、記憶のない私にはこれ以上踏み入ることは許されないような気がした。
5.――「もしもし」
ひったくり事件から三週間が経過した。
私の記憶は一向に戻らない。
そのことがなんとなく悪いことであるように思えて、私は徐々に人との交流を減らしていった。学校も休みがちである。
侑誠さんは根気強く私に付き合ってくれているが、それだって記憶が戻ることを前提にしているのだろうと思うと、罪悪感が湧いて仕方がない。
「……はあ……」
ため息を吐いて、自室の天井をぼんやり眺める。
今日も学校を休んでしまった。記憶がない以外は健康そのものだから、罪悪感はさらに降り積もっていく。
気晴らしになにかしよう、と思い身体を起こした私の視界に、ふと、本棚の隅に入れられているアルバムが入ってきた。
アルバムを見れば、なにか記憶を取り戻すきっかけになるだろうか。
僅かな希望を胸に、私はそのうちの一冊を取り出し、広げてみる。
それは、小学生の頃のスナップアルバムだった。
一人っ子の私は、当然ながら一人で写っていることが多い。しかし度々、侑誠さんと思われる男の子が隣に居た。二人とも、楽しそうに笑っている。これを撮ったであろう私の両親は、写真の腕があるな、なんて思った。この頃は、もう婚約者関係にあったのだろうか。そういえば、いつこういう関係になったのか、聞いていないな。
しかし、楽しげな写真は、その最初の数冊だけだった。
中学生にもなると、侑誠さんの姿は嘘のようになくなっていた。
私と、両親。そればかりになった。
部活が忙しくて、会う頻度が減った?
だから、定期的に交流を持つことになった?
それは、どちらから持ちかけて始まったことなのだろう。
ぐるぐるとあれこれ考えていた、そのときだった。
「わっ」
スマホが鳴ったのである。
電話だ。
発信者は、櫨原侑誠と表示されている。
いつの間にか、放課後の時間帯になっていたようだ。どうやら、学校が終わってすぐに電話をかけてきてくれたらしい。
少しの逡巡の末、私は受話器を上げる。
「もしもし」
「も、もしもし、流華? 今、電話しても大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
これまでスマホを使った侑誠さんとの交流は、全てメッセージのみだった。だから電話口に聞こえてくる彼の声はなんだか新鮮なように感じられた。
「体調はどうだ?」
「大丈夫です」
「大丈夫っていうのは……いや、うん、それなら良いんだ」
侑誠さんはなにか言葉を呑み込むようにしてから、続ける。
「その、体調が悪いようなら、今度のお茶会は延期にしたほうが良いかと思ったんだけど。大丈夫そうなら、問題ないな?」
「そ、そうですね」
お茶会。
実は昨日、電話帳登録済の喫茶店から電話があったのだ。
用件は、「毎月二名様のご予約をいただいてますけど、今月はどうされますか?」というものだった。
記憶を失う前に習慣にしていたことなら、と今月の予約を入れたのだけれど、どうやら相手は侑誠さんだったらしい。これも婚約者としての定期的な交流のひとつなのだろう。
「それじゃあ今度の土曜日、家まで迎えに行くから。準備して待っててくれな」
「は、はい」
「……それと」
侑誠さんは、少し躊躇うような間を置いてから、言う。
「僕相手に無理なんてしなくて良いからな。お大事に」
そうして、通話は終了した。
最後の言葉は、とても優しい声音で。
それはしばらく私の耳に残り続けていた。
6.――「このタルトかケーキかで迷ってます……」
「少し久しぶりだな。体調はどう?」
「大丈夫、だと思います」
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
土曜日の昼下がり。
侑誠さんは約束していたよりも随分と早い時間に、私を迎えにきてくれた。
直前まで着ていく服に迷っていた私は、どぎまぎしながら侑誠さんを出迎えることとなった。今日の服、変じゃないかな。侑誠さんの好みに合ってるのかな。そんな不安でぐるぐるしている。
「ほら、流華はこっち」
外に出ると、侑誠さんはすっと私を車道側から遠ざけた。
その優しさがなんだかくすぐったくて、思わず頬が綻びそうになる。それを侑誠さんに見られるのはなんだか気恥ずかしくて、私は頬をぐにぐにといじって誤魔化した。
「今日も、いつもの喫茶店で良いんだよな?」
「はい。席は予約しているので、ご安心ください」
「予約?」
私はなにか変なことを言ってしまったのだろうか、侑誠さんは不思議そうに私を見た。
「は、はい」
頷いて、喫茶店から電話がきた経緯を話す。
侑誠さんはぽかんとした様子で聞いていて、いよいよもって余計なことをしてしまった感が増していく。
「あの、もしかして私、余計なことをしてしまいましたか?」
だから私は、率直に尋ねることにした。
これまで予約していたのなら問題ないと思ったのだけれど、もしかしたら侑誠さんには内緒で行っていたのかもしれない。過去になにか一悶着あった可能性だって考えられる。
「いや、大丈夫。全然問題ないんだけど……その、流華が予約してたこと、僕は知らなかったから」
そうして侑誠さんは、耳を赤くしつつ、言う。
「いつもありがとうな、流華」
侑誠さんの不器用な微笑みに、私もつられて照れる。
「どど、どういたしまして」
なんだか、居心地の良いような悪いような、ふわふわとした気分になった。
ふわふわしていて、くつくつしていて。
そうして、気づけば件の喫茶店に到着していた。
席に着いて、各々メニューを広げる。
季節のタルトとケーキがとても美味しそうだけれど、昼食を食べてからそう時間が経っていない今は、どちらかひとつが精々だろう。
「流華、なに頼むか決めた?」
「あ……ええと、ええと……」
侑誠さんに問われ、慌てて決断を下そうとする。
タルトか、ケーキか。
「なに、迷ってるの? どれとどれ?」
メニュー表を共有するよう促され、私は正直に、
「このタルトかケーキかで迷ってます……」
と白状した。
「ふうん。……それじゃ、僕がタルトを頼むから、流華はケーキを頼みなよ。それで半分こすれば良いじゃん」
「い、良いんですか?」
「うん」
「やったあ! ありがとうございます」
えへへ、と堪らず笑みが零れた。
すると侑誠さんが、なにやら不意打ちを喰らったようにぐっと喉を鳴らしたが、急にどうしたのだろう。まあ良いや。タルトとケーキ、楽しみだな。
侑誠さんとスイーツを半分こし、舌鼓を打ちつつ雑談に興じる。
今の私にとっては雑談の引き出しがほとんどないのだけれど、侑誠さんがいろいろな話題を振ってくれるおかげで、私たちの間に沈黙が横たわることはなかった。
こんなに楽しい時間を毎月過ごしていたのに、私はそれを忘れてしまっているんだ。
そう思うと、胸が苦しくなった。
7.――「とっても嬉しいです」
楽しい時間はあっという間だった。
半分こしたケーキとタルトを食べ終わり、おかわりしたコーヒーも飲みきり、私たちは喫茶店をあとにした。会計のとき、店員さんがやけに微笑ましいといった様子で私たちを見ていたけれど、もしかしたらあの人が電話をくれた店員さんだったのかもしれない。来月の予約をするときには、気にかけて連絡をしてくれたお礼を言わなければ。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、一緒に来てくれるか?」
「? はい」
喫茶店を出ると侑誠さんがそんなことを言ってきたので、私はあまり深く考えずに頷いた。
外出したついでに、どこかでお買い物でもしたいのかもしれない。
それに、侑誠さんとの会話は楽しかったから、どうせならもうちょっとお喋りしたい気持ちもあった。
「す、すみません、予約していた櫨原です」
しかし、到着した先は花屋だった。
想定外の場所に、私は侑誠さんの背を見守ることしかできなかった。
けれど、その時間もそう長くは続かない。あっという間にお会計を済ませた侑誠さんが、くるりとこちらに向き直る。その手には可愛らしいブーケが握られていた。
「これ、流華にやる」
「え、えええ、ありがとうございます」
気が動転していて、ブーケを受け取った私の声は若干裏返っていた。
どうしてだろう。まるで、侑誠さんから初めてプレゼントを貰ったような気持ちになる。いや、今の私にとってはそうなのだけれど、なんというか、脳裏に「初めてプレゼントを貰った」という強烈な印象が過ったのだ。
ブーケは、白とピンクの花を基調にした、可愛らしい色合いのものだった。鼻を近づければ、華やかな香りもする。それだけで、なんだかとても幸せな気分になった。
「……その、もし流華が良ければ、これからはお茶会のあと、こうやって花を贈らせてほしい。構わないか?」
「もちろん。とっても嬉しいです」
なんだろう、胸の奥がとってもむず痒くなる。嬉しさと気恥ずかしさとが同居していて、また気分がふわふわしてくる。
「そ、それじゃあ帰ろうか。家まで送るよ」
侑誠さんはそう言うとさっさと歩き出してしまって、私は慌ててそのあとを追う。そうしてから、侑誠さんははっと気づいたように、また私が車道側を歩かないようにエスコートしてくれた。
婚約者が居るというだけでも漫画みたいだと思っていたのに、こんなに丁寧な扱いを受けていると、なんだか自分がお姫様にでもなったかのような勘違いをしてしまいそうになる。
侑誠さんの為にも、早く記憶を取り戻さなくちゃ。
強く、そう思うようになった。
「……――でさ、流華? 聞いてる?」
「え?」
ふと顔を上げると、侑誠さんがこちらを覗き込んでいた。
「その感じ、僕の話を聞いてなかっただろ。いや、僕が言えた義理じゃないんだけど……」
後半なにやらもにゃもにゃと呟いた侑誠さんは、だから、と話題の軌道を修正する。
「来週、遊園地に行かないか?」
「遊園地?」
小首を傾げる私に、侑誠さんは、そう、と頷いて話を続ける。
「記憶が戻らないことで落ち込んでるんじゃないかと思って。そういうの、よくわからないけど、焦ったところで身体に悪いと思うし。ぱーっと遊んで気晴らししようぜ」
「遊園地……」
端から見て、私はそう思わせるほどに思い詰めているように見えたのか。
隠していたつもりだっただけに、ちょっとだけ気落ちしてしまう。がしかし、確かにこういう思考自体、あまりよろしくないのかもしれない。
「良いですね! 行きましょうっ!」
「良し、決まりだな」
「あ、チケットの予約とかって――」
「良いよ、僕のほうでしておくから」
「で、でも……」
「流華はこれまで、喫茶店の予約をしてくれてたんだ。遊園地くらい、僕に手配させてくれよ。な?」
「……それなら、お言葉に甘えさせていただきます」
そう言われてしまえば、お互い対等である為には私が折れるほかなかった。
記憶喪失になってから、侑誠さんに甘えっぱなしな気がする。
婚約者という関係性なら、それも当然なのだろうか。けれど、クラスメイトたちからの印象を聞く限り、記憶喪失以前の私たちは、もっとドライな関係だった感じがする。
どうして今の私には優しくしてくれるのだろう。
どうして前の私には優しくしてくれなかったんだろう。
気がかりは増える一方だ。
焦りは禁物だけれど、このまま微温湯に浸かっているわけにもいかない。
8.――「今日はめいっぱい遊びましょうね」
侑誠さんと遊園地に行く。
そのことに思考の大半を占拠されているうち、約束の日がやってきた。
「おはよう、流華」
「おはようございます、侑誠さん」
侑誠さんは、例によって約束していた時間よりも随分早くに迎えに来てくれた。
「あの、侑誠さん。顔色、ちょっと悪い気がするんですが、大丈夫ですか?」
「別に。……あー、いや、その。今日が楽しみで、あんまり寝れなかっただけだから……」
「あまり無理はなさらないでくださいね」
でも、と私ははにかむ。
「楽しみにしていたのは、私も一緒です。今日はめいっぱい遊びましょうね」
「……そうだな」
侑誠さんはまた耳を赤くして、そっぽを向いてしまった。
今の私の発言に、なにか問題があっただろうか。
そんなことを考え始めた刹那、侑誠さんはすっと私に左手を差し出した。
「そ、それじゃあ、行こうか」
「……はい! よろしくお願いします」
その左手はエスコートする為のものだと信じ、私はそっと右手を出した。すると侑誠さんはその手を優しく握り返してくれたのである。私よりも大きな手。とても安心する。
遊園地に到着し、お揃いのカチューシャを買った。
侑誠さんは照れくさそうにしていたけれど、「たまにはこういうのも悪くないな」なんて言って不器用に笑って見せた。
アトラクションは、とにかくいろんなものに乗った。
ジェットコースターの種類が豊富な遊園地だったので、それを制覇することにした。どうやら私は絶叫系のアトラクションは得意なほうだったらしく、どれも、とても楽しかった。
逆に、お化け屋敷はひどく苦手だったようで、私は終始侑誠さんの腕を掴んでいた。お化け屋敷を出ると、侑誠さんの顔は真っ赤になっていた。何故?
昼食は、この遊園地で名物となっているものを食べた。ハンバーグもエビフライもオムライスもある、大人向けのお子様ランチのようで、とても美味しかった。
たくさん遊んで。
たくさん笑って。
気づけば、日は傾き始めていた。
「……最後、観覧車に乗らないか?」
「良いですね。行きましょう!」
この遊園地の観覧車はとても大きく、この辺り一帯を遠くまで見通せるらしい。時間帯的にも、少し早い夜景のようなものが見られるかもしれない。そう思って、私は侑誠さんの手を引いた。
思えば、今日は朝からなんだかんだ手を繋いでいた。お化け屋敷でこそ顔を真っ赤にしていた侑誠さんだが、それ以外はずっと上機嫌に手を繋ぎ返してくれていた気がする。やっぱり優しい人だ、と思う。
観覧車に乗り込むと、ゴンドラはゆっくりと上昇していく。
「……流華。ちょっと話したいことがあるんだけど、良いかな」
外の風景を眺めていると、正面に座っていた侑誠さんは、とても真剣な佇まいでそう切り出した。
「は、はい」
私もつられて、居住まいを正す。
侑誠さんはそれを見てから、小さく深呼吸をし、話し始める。
「今まで、ごめん!」
溜めていたものを放出するような大きな声で言って、侑誠さんは頭を下げた。
「え? え、いや、あの」
侑誠さんの話したいことというものに予想がつかなかったのもあるが、まさか初手で謝られるとは思っていなかった私は、わかりやすく狼狽していた。
9.――「大好き」
「僕はずっと、流華の優しさに甘えてた。なにもかも流華から提案してくれるから、僕はそれに乗っかるだけで満足してた。流華と会うときは、いつだって楽しみにしてたのに。でも、楽しみにし過ぎていつだって寝過ごして、遅刻して……。僕は、本当に格好悪い……。どれだけ反省して謝っても、許してもらえるなんて思ってない……」
堰を切ったように吐露される、侑誠さんの感情。
いつからこれを抱え、私と会ってくれていたのだろう。
「侑誠さん」
私は、優しく声をかける。
「今の私にとって、侑誠さんは最初からずっと格好良い人ですよ。私の心配をして病室に駆けつけてきてくれましたし、一緒に登下校してくれましたし、こうして一緒に外出もしてくれました。約束の時間より早くに迎えに来てくれたことも、それだけ楽しみにしてくれてたんだなって思うと、とても嬉しかったです」
「流華……」
私の言葉に、侑誠さんはそっと顔を上げる。
しかし、その自責の念はよほど強いものなのか、侑誠さんは、だけど、と言う。
「僕は卑怯な男なんだ。流華が記憶喪失になったって聞いたとき、頭が真っ白になった。でも同時に、流華が記憶喪失になって、これまでの僕のことも忘れたのなら、それは挽回のチャンスだって、思っちゃったんだ」
「挽回……」
「実際、流華は今の僕を格好良いと言ってくれただろ? それはたぶん、これまでのマイナス分がないから、そう思ってくれてるだけなんだよ」
だから、記憶が戻ったら、流華は僕のことを嫌いになる。
そう言った侑誠さんの目には、うっすらと涙が溜まっていた。
そんな人を、これ以上責め立てることなんて、できるわけがない。
「クラスの人が侑誠さんに驚いていた理由が、わかった気がします。私たち、本当はもっとドライな関係だったんですね」
「……ああ」
「だけど、侑誠さん」
私は、言う。
そうでなければ良いのに、という願いも込めて。
「私の記憶が戻ったら、侑誠さんはまた、そっけない侑誠さんに戻ってしまうんですか?」
「そんなわけない!」
侑誠さんは、私の言葉に食い気味に反論する。
「流華のことは、今までもこれからも、ずっとずっと大切だ。だって僕と流華は、ずっと一緒って、約束したんだから」
「ずっと一緒……」
ずっといっしょ。
その言葉が、脳内で反響する。
それは以前、どこかで聞いたことがあるような気がした。
いつ? どこで?
刹那、古い映像が脳裏に蘇る。
それは、小学校に上る前のことだ。
私と侑誠は、公園のブランコに乗って、遊んでいた。
ゆらゆらと揺れる、ふたつのブランコ。
「わたしたち、こんやくしゃに、なるんだって」
「うん。ぼくもきいたよ、それ」
「こんやくしゃって、なんだろ?」
「ずっといっしょにいることだよ」
「ずっとって?」
「ずっとだよ」
「すごいね」
「うん」
侑誠のブランコは、ぐんと更に勢いを増した。
大きく、大きく、ブランコが揺れる。
その振り幅は、私の倍以上だった。
「流華ちゃん、ずっといっしょにいようね!」
「うん!」
遠い昔、そんな約束をした。
心の奥が温かくなる、優しい約束。
それを、それ以外も全部、私は忘れてしまっていたんだ。
「……流華? 大丈夫か?」
ふと侑誠の声がして、彼の顔を見る。
あの頃からしたら、ぐっと成長したものだ。
格好悪くて格好良い、私の幼馴染で婚約者。
それが櫨原侑誠だ。
「……そうだね。ずっと一緒、だもんね」
私がそう言うと、侑誠の表情がぱっと明るくなって、それから、萎んでしまった。
「もしかして、記憶が戻ったのか?」
「うん。全部、思い出した」
同時に、全ての謎が解けたとも言えよう。
侑誠の遅刻癖も、生返事ばかりの会話も。全部、照れ隠しのようなものだったのだ。
まったく、小学生みたいなことをしてきたものだ。
「良いよ。私は気にしてない。だから侑誠も、気にしなくて良いよ」
「流華……」
侑誠は私の名を呼んで、それから、そっと私の両手を握る。
「今まで、ごめんなさい」
それから、と侑誠は続ける。
「流華のこと、ずっと大好きです」
ぎゅうっと握られた両手は、痛いくらいだった。
けれど、それが嫌だとは思わない。
あの日大きく揺れたブランコを思い出しながら、私は言う。
「私も、侑誠のこと、大好きです」
目と目が合う。
侑誠の瞳は、きらきらと揺れていた。
私の瞳も、同じように震えているのだろうか。
「大好き?」
「大好き」
観覧車のゴンドラが、頂点に到達する。
私たちは眼下の光景には目もくれず、互いだけを見つめ。
そして、唇と唇を合わせたのだった。
終