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【短編小説】鬱で療養中の「私」が昔馴染みの雪女と雪だるまを作る話

『雪解けのときはまだ遠く』


 小学生の頃、雪が降っている日に限り、同い年くらいの女の子とよく遊んでいた。
 雪が音を吸収し、世界に一枚布を被せたような静寂さが支配する世界では、私と彼女の笑い声だけが響き渡っていた。雪だるまを作り、氷柱つららを使ってチャンバラをし、かまくらを作り、雪合戦をした。
 彼女は、少し――いや、かなり、不思議な子だった。
 烏の濡羽色のような瞳も髪の色も、ただ美しいと思うだけだ。私が不思議に思ったのは、彼女がいつも、こちらが寒く感じるほど薄着であることだ。私がスキーウェアに帽子、手袋と完全防寒の格好をしているのに対し、彼女はいつもワンピース姿だったのである。真っ白な雪の世界に、空色のワンピースが花のように踊る光景は、今思い出しても神秘的なものだった。
 彼女は、人間ではなかった。
 それでも、私は彼女を遠ざけようとは思わなかった。
 彼女と遊ぶのは楽しい。
 だから、離れる理由はない。
 子どもらしい、単純な理由だった。
 ……いや、当時はもうひとつ、理由があったのだったか。
 あの当時、家では両親が喧嘩をしてばかりで、私は家に居たくなかった。だから、毎日のように、許される限り外に出て遊んでいたのだ。
 あの子が私の前に現れたのが偶然か必然かはわからない。
 ただ、当時の私は彼女との時間に、ひどく救われたのは、変えようのない事実である。
 あの子が居るなら、きっと地獄のような日々も耐えられる。そう思っていた。
 しかし、人間の住む環境というものは存外簡単にひっくり返る。
 雪解けの頃には両親の離婚が決まり、私は母に連れられ、生まれ育った透目町すきめちょうをあとにした。
 新しい土地、新しい小学校、新しい友達。
 環境の変化に目を回しているうち、身体はそれに馴染み、いつの間にか心も馴染んでいった。
 月並みに人生のイベントごとが発生したが、月並みにそれらをこなした私は、大学を卒業すると、大半の人間がそうであるように、会社に就職した。
 働いて、働いて、働いて。
 そうして、心身ともに壊れてしまった。
 医者が言うには、しばらく療養が必要らしい。
 鬱状態のときにしてはいけないことのひとつに、就労に関することがある。まともじゃない精神状態で進退を決めてはいけない、というものだ。しかし精神的に追い込まれていた私は、勢いに任せて退職を決めてしまっていた。晴れて、精神疾患持ちの無職のできあがりである。
 だが、生きていくには金が要る。
 一人暮らしを続けるには家賃が必要で、それだけで貯金を削られていく。明日どうなるかわからない不安が、鬱をさらに悪化させていった。
 そんな折、母からひとつ提案を持ちかけられた。
 曰く、お父さんの家に住まないか。
 小学生の頃に住んでいた透目町の家は、十年ほど前に祖父母が亡くなり、家主だった父も去年亡くなったことにより、空き家になっていた。立派な日本家屋だから、壊すか残すかで揉めているという話は、なんとなく聞いてはいたが。なるほど、私を住まわせることによって、結論を保留しようということだろう。確かに、あの家は立派で、壊すのはもったいない。とうの昔に縁を切った母にまで話が回ってくるほどだ、一族としては極力あの家を残しておきたいのだろう。それには私も同意だ。なにより、身内の古い一軒家なら家賃は発生しない。それは無職の身の上である私にとって、かなり大きな理由となった。
 そういった経緯があり、私は母の提案に乗ることにした。
 透目町はなにもない不便な田舎町だが、私は気に入っていた。
 交通の便は悪いが、母の知り合いから格安で軽自動車を貰い受けることができたから、いきなり田舎に放り込まれた、移動手段を持たない都会人とはならずに済んだ。ペーパードライバーだったが、人も車も少ない土地柄故、ゆっくり運転に慣れることができた。
 しかし車は、遠出のときに使うに留めていた。
 田舎において車とは、どれだけ短距離であろうと移動手段として確立しており、都会人なら歩いて向かう距離だろうと、車を使う傾向がある。確かに車は便利だ。一切疲れることなく目的地に向かうことができる。
 それならば、心身共に壊れ、食欲が落ち、体力も落ち、虚弱になった私に車は持ってこいなのだろうけれど。車を使ってばかりでは、落ちた体力は戻らない。それに、失ったものを取り戻し復調する為に、医者は運動を勧めてきていた。
 だから私は、極力毎日、散歩をすることにした。
 適当に、家の周りをぐるりと歩き回るだけで、徘徊と言っても相違ないのかもしれない。平日の昼間から外を歩き回る成人男性の姿を、不審に思われはしないだろうかという不安が常に背中にのしかかる。実際、田舎の車社会では、徒歩の人間は悪目立ちした。車中から、歩いている人間はどこの誰だろうという視線が突き刺さるのだ。そうでなくとも、昔に離婚して出ていった家の倅が鬱病になって戻ってきて、その療養に散歩をしているのだという生温かい視線を、日々感じていた。知り合いが誰も居ない都会より、知り合いしか居ない田舎というのは、それだけで息苦しさを感じるものだ。
 それでも私は、散歩を辞めなかった。
 散歩を続けていれば、鬱が良くなると信じて。
 なにもかもが良い方向に続いていくと信じて。
 それは、執着にも近い祈りだった。
 

 その日は、夜のうちにどっさりと雪が降り積もっていたが、私はいつも通り散歩にでかけた。
 早朝のうちに除雪車がおおよその道路の除雪は済ませてくれているし、大半の人間が出勤や登校を済ませた道は、ほどよく歩きやすく均されていた。
 雪は、私の膝丈ほどまで積もっていた。この町においては、例年並みの積雪量と言ったところだろうか。小学生の頃はもっと積もっていたような気もするが、ぐんと背が伸びた大人になってみれば、大したことのないように思える。いや、これだって雪の降らない地域の人間からしたら、豪雪と言わしめる程度の積雪量なのだろうけれど。
 雪が降り積もると、世界は途端に静かになる。
 いつもであれば遠くに聞こえる電車や車の走る音、どこかの工事現場の音が、雪に吸われてしまうのだ。
 聞こえるのは、自分の呼吸音と、着込んだ服の衣擦れする音と、ぎゅむぎゅむと雪を踏みしめる音だけ。いたってシンプルだ。
 足元だけを見つめ、黙々と足を進めていく。
 雪の日は特に足元に気をつけて歩かないと、すぐに転んでしまうからだ。瞬時に次に足を置く場所を選び取り、慎重に足をつける。それができたら、もう片方の足。その繰り返しだ。それだけに集中して一定時間歩くだけという点においては、私にとっては、雪の日は一番散歩に向いているのかもしれない。歩くこと以外に、なにも考えずに済む。
 そうして、どれだけ歩いた頃だろうか。
 気がつけば、私は家からかなり離れた空き地の近くまで来ていた。
 正確に言えば、ここには昔、そこそこ大きな家があったはずだ。しかし、ここに一人暮らしをしていたおばあさんが亡くなって、あっという間に家は取り壊され、開いた土地だけが残ったのだ。田舎ではよくあることだ。うちの近所でも、何軒か同じ状態になっている場所がある。こんな田舎でも、子どもの頃から比べると、随分と風景が変わってきているのだ。
 変わらない場所なんてない。
 だからきっと、私もこの状況からは遅かれ早かれ脱却できるのだ。そうに違いない。そうでなければ――
「やっほー、久しぶりー」
 と。
 歩きながら良くない思考に陥りかけていた私の耳に、底抜けに明るい女性の声が届いた。
 こんな雪の日の、こんな半端な時間に、こんな場所で、待ち合わせをしている人なんて居たのか。
 好奇心で顔を上げて周囲を見回すが、ここには声を発した女性と私の二人しか居なかった。
 静寂に包まれた、真っ白の世界に、二人だけ。
 それが心臓を握り締められたような錯覚を覚えるほど、苦しく切ない思いにさせる。有り体に言えば、『懐かしい』というやつだ。
 その女性は、私の古い記憶にある少女の面影がありつつも、しっかりと大人の姿になっていた。昔は空色だったワンピースも、今は少し落ち着いた色――勿忘草のような色味になっている。いや、正直に言ってしまえば、見た目云々よりも先に、真冬にワンピース姿という、ある種突飛な格好をしている点においては当時から変わらずで、むしろそれだけで、私は彼女が当時遊んでいた女の子であると同定できてしまっていた。
「君だよ、君。灰崎はいざき千慧ちさと君。友との再会に、もっと喜び給えよ」
 えへへ、と脱力した微笑みを向けてきた彼女に、私も似たような表情を浮かべ、
「相変わらず寒そうな格好してるなって思ってただけだよ、蒼葉あおば
と言いつつ、歩み寄る。
 彼女――蒼葉の足元には、手のひらサイズの小さな雪だるまがいくつも並べられていた。今日ここで会う約束なんてしていないのに、私が来ると信じて疑っていなかったようである。いや、蒼葉ならそういうこともわかるのかもしれない。なにせ彼女は、人間ではない。
「なんだっけ、全国を巡る修行の旅をしてたんだったよな?」
「そ。ようやく一人前になって、姿も大人になれたからさ。千慧にお披露目してあげようと思って、こっちに来たんだ」
 雪女、大師様、雪婆ゆきんば――蒼葉がそういった類の存在であることは、本人から聞かされていた。
 私がこの町から引っ越す際も、無理を通して見送りに来てくれた。
 そのとき、修行云々についても言及していたのだ。
 修行の旅に出るからしばらくは会えなくなる、と。
 だけど絶対一人前になって戻って来るから、そのときはまた一緒に遊ぼうね――そんな約束もしていた。
 しかしまさか、こんなタイミングで蒼葉との再会を果たすとは予想だにしておらず、私は内心動揺していた。それは、彼女が怪異的な存在だからではなく、私が平日の昼間に近所を徘徊する大人に成り果てていることに対しての、掴みどころのない焦燥感と羞恥心からくるものである。
「おかげで、この大雪ってわけだ」
 彼女がそういった類のものを見通すことができるのかは、わからない。しかし私は、それらを誤魔化すように言った。
「えへへ、つい張り切り過ぎちゃった。でも千慧、わたしと再会できて嬉しいんじゃないの~?」
「そりゃあ嬉しいさ。嬉しいけど、加減ってものを知れって話。除雪車がいつも以上に活躍しまくってたぞ」
「だって、千慧とたくさん雪遊びしようと思ったんだもの」
「確かに、これなら遊び放題だけども」
 蒼葉との会話は、二十年のブランクを一切感じさせなかった。まるで昨日も一緒に遊んでいたような気さくさで、私の心を当時に戻してくれているようにさえ感じる。社会の泥を身体に詰め込まれる前の、純真無垢だった頃に。
 しかしそれは、あくまで錯覚だ。
 社会に揉まれすり減った私は、もうあの頃と同一になれはしない。
「なにからやる? まずかまくら作っちゃう? この積もりようなら、いくらでも大きなかまくら作れちゃうよ?」
「かまくらは、さすがにスコップがないと作れないだろ。家から取ってこようか?」
「んー、でも千慧の家ってここからそこそこ距離あるよね? それじゃあ、ひとまずかまくらは置いといて。まずは、雪だるまを作ろう! おっきいの作ろうよ」
「……よし、やるか」
 幸い、防水手袋は装備していた。たかが散歩で防水手袋を着けるのはおかしいだろうかとも思ったが、直感はこれで良いと言っていたのだ。結果的に、直感に従って正解だった。履いている靴も、防水防寒の長靴だし、雪遊びをするにあたって問題はひとつもない。
 頷いて、私は雪玉を転がし始めた。
 雪はふわふわとしいていて、ある程度転がしては固めてを繰り返していかないと、強度を保てない。静寂の中に、ぎゅうぎゅうと、強く強く雪を固めていく音だけがする。
 そうして、雪玉が膝丈ほどの大きさになった頃、蒼葉が不意に、
「風の噂で聞いたよ、千慧のこと」
と、口を開く。
「あ、風の噂って、本当に文字通りの意味ね。誰かから聞いたとかじゃなくて、風に乗って聞こえてきた人間の声を聞いたって意味」
 私は雪玉を転がす手を止めず、
「……ああ、だから今日、僕がここに散歩で来るって見当をつけられたのか」
と言った。
「半分は、そう。まあ、噂がなくても、わたしたちが昔よく遊んでたのってこの辺りだったし。雪が降ったなら、ここに来るだろうなって思ったんだ。大正解。ぶい」
 蒼葉は無邪気に笑い、ピースサインを作って見せた。
 その指先は、素手で雪玉を転がしていたにも関わらず、全く冷たさの影響を受けていない、暖かそうな色味をしていた。子どもの頃もそうだった。彼女はそういう存在で、人間の常識に囚われるものではないのだ。
 蒼葉はあの頃の心を保ったまま、美しく成長した。
 だからこそ、余計に自分自身が汚く思えてしまう。
「無様だろう、今の僕は」
 着ぶくれするまで着込んでなお、顔は赤く悴んで。
 上手に笑うことさえできない、今の私の姿なんて。
 失笑や苦笑する以外に、反応しようがないだろう。
「そんなことないよ」
 私の近くまで雪玉を転がしてきた蒼葉は、それに腰掛けて、言う。
 失笑でも苦笑でもなく、真っ直ぐに、真剣に、私を見据えて。
 私は咄嗟にそれから視線を逸らしてしまう。
「千慧のそれは、身体が風邪をひくのと同じようなものでしょ? 必要以上に自分を責めなくて良いんだよ。人間は誰だって病気に罹る。治す為には、ゆっくり休まなきゃ」
「……」
「千慧は今、ゆっくり休めてる?」
「もう三ヶ月も仕事をしてないんだ。そりゃあ、休めてるだろ」
「うーん、そういんじゃなくてさー」
 足をぱたぱたと揺らし、蒼葉は言う。
「考えなくて良いことを考え過ぎたりしてないかなってことなんだけど」
「それは……」
 それ以上のことを、私は言えなかった。
 図星だったのだ。
 私はこの町に戻ってきてから、散歩に執着し、頭の中では毎日が大反省会だった。あのときああしていれば、いや、こうしていれば。そんな選択肢の分岐先のもしもを考え、それを選ばなかった現状を後悔し続けている。
「わたしは人間じゃないけどさ」
 蒼葉はひょいと雪玉から降りたかと思うと、その両手で私の顔に触れた。
 氷のように冷たく、人と違って、そこからじんわりと温もりが伝わってくることはない。
「辛いとか苦しいとかって感情は、わたしにもあるから、完全じゃなくても、ちょっとはわかってるつもりだよ。逆に、完璧に人間じゃないからこそ、人間を俯瞰できてると言っても良いかもしれない。そういう立ち位置から言わせてもらうとさ、今の千慧は、そういうのが溜まり過ぎて、感覚が鈍くなっちゃってるんじゃないかと思うんだよね」
「鈍く……」
「そ。痛みに慣れ過ぎて、致命傷を食らってようやく『ちょっと痛い』って思っちゃってる感じ」
「……それなら……だからこそ、僕は、休まなくちゃいけないんだよ」
「うん。だけど、それが完璧である必要はないってこと。千慧が楽に息が吸えるようになれるなら、方法はなんだって良いと、わたしは思うわけでして」
「……」
「だからさ、おっきい雪だるまなんだよ」
言いながら、蒼葉は私の広角を強引に上げる。
「お互い、昔に比べて身体が大きくなったからさあ、すごく大きなやつが作れるよ。それは楽しいことだと思わない? 今の千慧は、難しいことなんて考えず、楽しいことだけすれば良いんだよ」
「……そうだな」
 言って、私は笑って見せた。
 上手く笑顔を作れた気は、全くしない。
 けれど、自然と顔が綻んだのは、ひどく久しぶりな気がした。
「とびきりでっかいのを作ろう。下校してくる小学生が大声上げて驚くくらい、でっかいやつ」
「うん!」

 それ以降、私と蒼葉はろくに言葉も挟まず、黙々と雪玉を転がし続けた。
 耳から入ってくるのは、自分の呼吸音と、雪を踏み締める音だけ。
 静寂は思考を曇らせがちだが、今日に限ってそれはない。このときばかりは、バランスの良い球体にするほうに思考を割けていた。或いは、全身を動かしているのが良かったのかもしれない。
 それだけ集中していても、成人が大きいと思えるほどの雪玉ができあがるにはかなりの時間を要し、いよいよ蒼葉の作った雪玉と合体させる頃には、日が傾き始めていた。
「いよいよ合体のときがきた!」
 楽しげにそう言った蒼葉の雪玉は、私よりもふた回りほど大きなものだった。成人男性である私の胸元ほどまである、巨大な雪玉である。これについては、流石、雪が得意なだけあるな、としか言いようがない。
「大きさ的に、僕の雪玉を上にしたほうが良いな。結構な重さがあるから、協力して一気に乗せよう」
「そうだね。それじゃあ、いくよ千慧ー!」
「よし、せーの!」
 声を掛け合い、ぐいっと雪玉を押し上げる。
 私の作った雪玉だって、私の腰元に届くほどの大きさがあるのだ。重さだって相当なものである。大の大人でも、全力で挑まなければ押し上げきれない。しかし、力加減を間違えば、せっかく作った雪玉が崩壊してしまう。豪快さと慎重さを同時に求められる。なんとも繊細な作業だ。
 果たして、私の雪玉はゆっくりと蒼葉の雪玉を乗り上げ、見事大きな雪だるまと成った。
「……できた。できたな……!」
 久しぶりに達成感に満ち足りた気持ちになった。
「いや、まだだよ」
 が、蒼葉はそれをばっさりと否定する。
「顔とか手をつけなきゃ、雪だるまは完成とは言えないでしょ」
「た、確かに……」
 言われてみれば、という感じだった。これでは、ただの巨大な雪像である。いや、これはこれで立派ではあるのだが、雪だるまにする以上、蒼葉の言う装飾は必要不可欠だろう。
「飾りつけに使えそうな石とか枝とかはわたしがその辺から見繕ってくるから、千慧は一回休憩しなよ」
「いや、それは……」
「ああ、ええとね、千慧はここらで一回身体を温めたほうが良いよってこと」
 それはもっともな指摘だった。
 防水の手袋はとっくの昔に浸水し、指先どころか手全体が冷え切っていた。身体を動かしていたからか、あまり寒さは感じないが、身体の芯まで冷え切る前に、なにか一度温かい飲み物を飲んでも良いかもしれない。
「それじゃあお言葉に甘えて、休憩がてら向こうの自販機まで行ってくる」
「行ってら~」
 蒼葉に一声掛け、私は一旦空き地を出た。
 田舎にコンビニはほとんどないが、自販機ならそこそこの頻度で見かける。この辺りも例に漏れず、少し道を戻った交差点に、二台設置されていたのを、来る途中に確認済だったのだ。
 自販機の前に立ち、ぼうっと羅列した商品を眺める。
 身体を温めることが目的なのだから、冷たいものは除外。コーヒーの気分か? それともお茶か? 或いは、スープ系? 甘いものか、そうでないものか。温かいもの、温かいもの、温かいもの……。駄目だ、選べない。決められない。目が回りそうになる。
 私は深くため息をついて、それから、最下段にあった温かいココアとお茶を購入した。どちらもペットボトル容器のもので、飲みきれなくとも大丈夫なものにした。
「蒼葉、どっちが良い? ……って、なにがあったんだよ」
 そうして空き地に戻ると、半べそ状態でしゃがみ込んでいる蒼葉の姿があった。
「使えそうな枝も石も全部が雪の下で、絶望してたの……」
「ああ……」
 この積雪量だ、それなりに掘らないと地面まで到達しないだろう。途中まで掘った形跡はあるが、良さげな石や枝を探すには途方もないことに気づいて止めたことが窺える。
「千慧はちゃんと温かい飲み物買ってこれたんだね。えと、わたしのぶんもある感じ?」
「うん。どっちが良い?」
「それじゃあ……お茶! ご馳走さまですっ!」
 ぱっと伸ばされた手に、お茶を渡す。
 早速それを飲んで、蒼葉は小さな笑い声を漏らした。
「なんか懐かしいね。子どもの頃、千慧が水筒に入れて持ってきてくれた温かいお茶を飲んだときのことを思い出しちゃったよ」
「それ、お前に温かいものを飲ませたから溶けて消えちゃうんじゃないかって、僕が大号泣したやつだろ」
 まだ覚えてたのか、と私は嘆息した。
 当時は本気で心配したし、その日の晩は恐怖でろくに眠れなかったことを思い出す。そんな気が気でない夜を越えた翌日、いつもと変わらない様子で私を待っていた蒼葉を見て、私は安堵し、大号泣したのだ。
 消えてなくて良かった、居なくならなくて良かった。
 そんなことを言いながら泣き叫んだんだっけか。
「飲食については人間と同じもので問題ないんだけど、あのときはそれを言わなかったわたしも悪かったからねえ。あれ以来、わたしの素性を知ってる人には、事前に言うようにしたんだよ」
「それは殊勝な心掛けだ」
 第二第三の被害者が出ていないのなら、重畳である。
「それで、石とか枝とかが見つからないって話だったか」
 私は手元に残ったココアの蓋を開けて飲みつつ、話を戻すことにする。
「一緒にその辺を掘り返しても良いけど、綺麗な雪原に土が混じるの、あんまり好きじゃないんだよなあ……」
 どれだけ雪景色が見慣れたものとなっても、真っ白な雪景色は真っ白なままで居てもらいないものだ。
「わかるー。春先の雪解けで地面が見えてくるのとは違うんだよね。風情がないっていうかさ」
 ごくごくと良い飲みっぷりで、容器の半分ほどまで空けた蒼葉は、ふとそのペットボトルを見つめ、そうだ、となにやら閃いたように大声を上げた。
「このペットボトルの蓋を目にしよう! 千慧のも使えば、ひとまず目は作れるよっ!」
「名案。採用」
 言って、私は早速手元の蓋を雪玉に嵌め込んだ。
 蒼葉もそれに倣い、バランスを見つつ嵌め込む。茶色と緑色の目を持つ、オッドアイ雪だるまの顔ができた。
「あとは手だね。手くらいなら――えいやっ」
 思案顔から一転、蒼葉がなんだか気の抜けそうになる掛け声をかけた、次の瞬間。
 とても冷たい風が、頬を撫でた。
 その冷風は、蒼葉の元に集まっていく。いや、正確に言えば、蒼葉の手元に、だ。
 軽く広げられた蒼葉の手元に風が集まり、そして、驚くべきことに、そこから氷が生成されていくではないか。
 それは次第に大きさを増していき、長く、長く、伸びていく。
「じゃじゃーん、氷柱の完成~!」
 そうして、世の小学生の大半がそうするように、蒼葉は氷柱を剣のように構えて見せた。そうして、どうだと言わんばかりに鼻を鳴らし、私を見る。
「すごい、すごいよ」
 子どもの頃に蒼葉の正体について聞かされたときも、これと似たようなことは見せてもらっていた。しかし、当時とは桁違いの生成速度と大きさだったのだ。語彙を失った感嘆の声だって漏れ出てしまう。
「なんてったって一人前ですからな~。こういうことだってできるんですぜ、旦那」
 ふざけた口調になりつつ、蒼葉は得意げに氷柱に手をかざす。
 すると、一本の無骨な氷柱の先に、手のかたちを模した氷ができていくではないか。
「改めて、完成~! はい千慧、これ持ってて。もうひとつ作っちゃうから」
 言うが早いが、押しつけるようにして私に氷柱を持たせると、蒼葉はあっという間にもうひとつ作り上げた。
「いやあ……本当にすごいな」
 相変わらず私の口からは月並みな言葉しか出てこないが、素直に感動していた。
 超常的な力を目の前で見ることができて、感動しない人間はいないだろう。まして、こんなに美しいものなのだから、尚更だ。
「それではいざ、手の装着でござい!」
 私の感動を置き去りに、蒼葉は雪だるまの左側に回り、作ったばかりの氷柱を突き刺した。
「ほら、千慧も!」
 そう言われ、私も蒼葉に倣い、雪だるまに氷柱を突き刺す。しっかり固めた雪玉なだけあって力が要ったが、無事、氷柱は折れることなく刺さってくれた。
「今度こそ完成、だな」
「うん!」
 やったー、と両手を上げて喜ぶ蒼葉。
 それを見ていると、なんだか身体の内側からくすぐられているような気分になった。しかしそれが、嫌ではない。むしろ、自然と口角が上がるほど私の感情は上ずっていた。
「蒼葉、せっかくだから記念撮影をしないか」
 言いながら、私はポケットからスマホを取り出した。
「良いね!」
 蒼葉は踊るような足取りで雪だるまの隣に立った。
 私はスマホのカメラを起動し、綺麗に画角に収まるよう位置取りをする。
 灰色の空に、真っ白な雪原に、オッドアイの雪だるま。
 そして、勿忘草色のワンピースを着た昔馴染み。
 果たしてこれが、所謂『映え』になるのかは、私にはわからない。けれど、今この瞬間の高揚感を、この一枚に全て閉じ込められたらとは思う。
「千慧ー、カメラ、その位置でおっけー?」
「え? ああ、うん。じゃあ撮るぞ」
 蒼葉からの問いかけの真意がわからないまま頷き、シャッターを切ろうとした、その瞬間。
「えいやっ」
 例によってなんだか気の抜ける掛け声がしたかと思うと、足元から氷が生えてきたではないか。
 氷はするすると伸び上がってきたかと思うと、私が持っていたスマホをするりと奪い、その位置で停止した。
「千慧、画角の調整したら、タイマーかけてこっち来なよ。一緒に撮ろ?」
「そういうのは、もっと事前に説明をだな……」
 驚きのあまりばくばくと鼓動する心臓を押さえつけながら、私は小声で抗議した。聞こえないように吐いた言葉は、想定通り蒼葉の耳には届いていなかったようで、彼女はにこにこと微笑みつつ首を傾げ、私が来るのを待っていた。
 私は小さく肩を竦め、それから、蒼葉の作った氷のカメラスタンド上で画角の微調整を行い、タイマーを起動した。
「十、九、八、七……」
 カウントダウンをしながら、早足で雪だるまの隣に向かう。
「六、五、四……」
 蒼葉、雪だるま、私の順で横並びになるよう位置取り、くるりと振り向き、スマホのほうを向く。
 しかし、ふと、この写真に私は不要ではないか、なんて不安が芽吹く。
 上手く笑えすらしない私なんて、写ったところで意味はない。どころか、不愉快でしかないかもしれない。あとになってこの写真を見返したとき、私は私が要らないと思ってしまのではないか。そんな、よくないことを考えてしまうのではないかと、不安になる。
「さ、三……」
 口ではカウントダウンを続けつつ、咄嗟に、蒼葉のほうを見た。
 瞬時に私の視線に気づいた蒼葉は、
「にっ」
と、歯を見せて笑い、スマホのほうを向くよう促してきた。
「いち」
 そのとき、私がどれだけ笑顔を作れていたのかは、わからない。可能な限り、この楽しい気持ちが伝わるよう、努めたつもりだ。
 カシャ、と無機質なシャッター音がスマホから鳴る。
 写真の出来栄えについては、言及するまでもないだろう。
 それを見て、私たちは声を上げて笑った。
「千慧、ピースしきれてないじゃん! これじゃ猫ちゃんの手だよっ!」
「蒼葉こそ、半目じゃねえか! 撮り直しだ、撮り直しっ!」



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