優しい人は賢い
一番古い記憶はなんですか?
私は4才か5才。
似たような家が立ち並ぶ分譲住宅に住んでいたときの記憶です。
団地に住む子供たちのほとんどが顔見知りで、みんな一番小さな私のことを『まぁちゃん』と可愛がってくれましたが、
足が遅く、ゲームのルールもいまいち理解できず、最強に我儘で泣き虫な私のことを若干疎ましく思ってそうな雰囲気も漂っていました。
それでもお構いなしだった私は、来る日も来る日も彼らの後ろを金魚の糞のように追いかけていました。
とても楽しかったです。
いつも6、7人の子どもたちがいたけれど、どの子の顔も思い出せそうで思い出せません。
唯一ひとりだけ、はっきりと記憶に残っている女の子がいます。
腰くらいまでの長い黒髪に、いつも高そうな洋服を纏っていたお隣のさやかちゃん。私よりも4才くらい上の女の子。
イジワルな女がモテる
はっきり言って、私は彼女のことが好きではありませんでした。
大人になった今では『子ども特有のイジワルだったな』と微笑ましく思えるのですが、当時の私にとっては邪悪なだけの存在でした。
嫌いな子が遊びに混じると、あからさまにつまらなさそうな態度になって機嫌を悪くしたり、
「まぁちゃんはどうせルール分からんから」
とか、人のことを馬鹿にするような発言は毎度のこと。
実際、何度か暗い物置の中に閉じ込められたこともあります。
しかしなぜか、さやかちゃんは男子諸君から絶大な人気を誇っていました。
近所の公園で彼女を見かけたときは、いつも子どもたちの、特に男子児童の中心にいたし、(私には全員不良に見えた)
団地メンバーの中にも、口には出さずともさやかちゃんに憧れていそうな子は何人かいました。(嫌っていた子もいたけど)
さっぱり分かりませんでした。
今でも分かりません。
『ワルい女はモテる』
その理由が。もうそういう時代じゃないですか?ないよね。
優しくて思いやりのある人の方が絶対いいもん。年齢性別問わず。
捨てられた子猫を拾う
ある日、団地キッズのうちの誰かがどこからか段ボールに入れられた子猫2匹を拾ってきたことがあります。
みんなで会議をし(もちろん中心はさやかちゃん)、
「どうする?」
「可哀そう。誰か持って帰られへん?」
「お母さんに怒られる。隠してみんなで育てよ!」
と子どもたちだけで相談し、もう子猫に夢中でした。
さやかちゃんはずっと一匹の子猫を抱きしめていて、連れて帰りたい!と言わんばかり。お小遣いでキャットフードを買ってきたのも彼女でした。
私はそのとき、あんなに優しそうな彼女の顔を初めて見て驚きました。
『そんな風に優しくなれるんだ…』
と子どもながらに関心しました。
見かけた大人たちに
「飼ってあげてください。面倒は私たちがみます」
と、わけの分からない口説き文句を並べ断られ続けました。
結局それぞれの親にも反対され、行き場を失った子猫を近所のペットショップに連れていくことに。もちろん私たちのアイディアではなく、近所に住んでいた高校生だか大学生だかが提案してくれた最終手段でした。
結局、噂を聞きつけた猫好きの大人が2匹とも引き取ったそうです。
そのときの記憶は鮮明に残っていて、とくにさやかちゃんの変貌ぶりは忘れられません。
彼女が子猫に対して見せた優しい顔は、普段の尖った姿からは想像もつかないものでした。
優しさと賢さ
で、なぜ急にあのときの記憶が蘇ったのかというと、
『優しさとは一体なんなのか』
ということを考えたからです。
韓国語で”優しい”は”착하다(チャッカダ)”と言います。
どういうわけか、私は大学生になりイギリスに留学するまで、착하다は『賢い・利口だ』という意味だと思い込み使用していました。周りの友人たちも同じような意味で理解していました。
日本という異国の地で独自に発達した在日語なのでしょうか。
しかし調べてみると、韓国でも『賢い』という意味で用いられることもあるにはあるそうです。
それで思ったのですが、優しさとは賢さなのではないでしょうか。
あながち私の訳し方も間違ってなかったなぁという思いです。
優しさと情
例えば寒い日の道の真ん中で小さな子猫がお腹を空かせて泣いている場面。
一方、ボロを纏い異臭の漂うホームレスの老人が物乞いをしている場面。
両方にでくわしたとき、私はどちらにも同じような対応ができるだろうか。
……。
できないと思います。
さやかちゃんがそうしたように、子猫には手厚く介抱するけれど、
ホームレスの老人に対しては無関心を貫いてしまうかも知れません。
本当に優しい人は、どんな状でも関心を持って接することができるのではないでしょうか。
ただの一時的な情ではなく、その人の心を察することのできる賢さがあるから。
イギリスのホームレス
それは12月のある日のことでした。
フラットメイトのフィリップが、近所のパブに軽く飲みに行こうと誘ってくれた夜。
寮とパブの間には長いトンネルがあって、アメフト部の大柄なフィリップがいたからいいものの、夜間は女性が一人で通っては危険な場所とされていました。
トンネルの入り口付近に立った瞬間に気付いたのですが、中に一人の老人がうずくまっていました。
"Change please(小銭をください)"
とオウムのように繰り返し唱えながら、片手に握りしめた紙コップを頭上に掲げていました。靴はつま先の部分が剥げて中の靴下が見えていました。
「日本とはちがって、海外のホームレスは襲って来る可能性があるから用心すること」
渡英前から教授や先輩にそう教えられていた私は怖くなって、足早に前を通り過ぎようとしました。
するとフィリップは、
「こんばんは、おじさん、調子はどう?」
と、まるで旧友にでも話しかけるように親しみを込めて、老人のことを”pal(友)”と呼びかけたのです。
"最近寒くなってきたから辛いよ"
「今年は冷えるからね。これでビールでも飲んでよ。昨日はリーズ・ユナイテッド(地元のサッカーチーム)が勝ったんだ」
その後もスポーツや政治についての会話を交わし、『じゃあまた!』と何ポンドかを老人に手渡して私たちは再びパブに向かいました。
想像すれば簡単なこと
「なんで?なんでそんなに優しくできるの?ちょっと危なそうな人だったよ」
パブでフィリップはエールを、ビールが苦手な私はジントニックを飲んでいました。
私の質問に彼は怪訝そうな顔をして、
「彼は別に怖い人でも悪い人でもないよ。僕らと同じ人間で、たまたま運が悪くてあそこにいるだけだ」
と言いながらエールを飲み干し、
「誰かに親切にするのに理由なんかいらないでしょ」
と言い、またアメフトの話に戻りました。
そのときです。
”優しさ”とは、想像力を働かせることができる”賢さ”なんだと気付いたのは。
フィリップみたいになりたくて同じエールを頼んだけれど、私にはやっぱり苦くて、全部飲むことが出来ませんでした。
いつか飲めるようになったらいいな。
「あ、でも君が一人のときは話しかけない方がいいよ。世の中いい人ばかりじゃないから」
なんだかバランスのいい人だな~、と思いました。
知識の詰め込みがインテリジェンスなわけじゃない
『優しさとは賢さ』
逆もしかり。
『賢さとは優しさ』
ただ高学歴だとかエリートと呼ばれようとも、そこに優しさがなければ決して賢い人とは呼べないような気がします。
そして、ときにその優しさはすぐには気付けないことも。相手のことを思うがための”厳しさ”に覆われて、芯の優しさには気付きにくいですよね。
あー、あれは優しさゆえの言動だったんだ。私が優しくなかったから気付かなかったのか。
もう遅いかも知れないけれど、やっとそう受け止められるようになりました。
こんな感じで、全てを優しさとして受け止めることができれば、自ずと優しい人になれるのかなと、
いつまで経っても美味しいと感じられないビールを眺めながらボーっと思いました。
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