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映画と戦争

「映画ファン」というほど映画を見ているわけではない。でも、それなりに映画を観てきて、サスティナブルにゾッとしたのは、映画「ゴジラ」の第1作目。その東京が炎に包まれる場面だったんじゃないかと思っている。

1954(昭和29)年に公開された第一作めの映画「ゴジラ」は、全国で焼夷弾空襲が繰り返された1944(昭和19)年から翌45(昭和20)年。東京の下町を焼き尽くした東京大空襲は1945年の3月というタイミングでの公開だった。

つまり、映画の臨場感は、CGやSFX的な技術力の高低より、やはり実際の「経験」には敵わないのではないかと。空襲から10年を経ずして製作された「ゴジラ」のスタッフさん、エキストラに至る出演者のみなさんには体験に基づく記憶があって、それが言語、数値では説明できない「リアルな恐怖」を、あの映画に吹き込んでいたのではないか…そう思っている。

1953(昭和28)年に製作された「ひろしま」(関川秀雄監督 日教組プロ製作)という映画にも同じようなことがいえる。

この映画には、広島県下にお住いのみなさんから提供された戦時中に使用された服装や防毒マスク、鉄カブトなどが(小道具として)使用され、数多くの広島市民が手弁当でエキストラに参加された。あの表情、あの声、あの仕草は、そうしたみなさんに拠るリアルな記憶。また、あの日を体験している、あるいは類推できる体験を持つたスタッフさんたちに拠ってしか、再現不可能だったにではと思っている。

(映画「ひろしま」は、1955年 第5回ベルリン映画祭長編映画賞を受賞している)

僕らは悲惨さも含めてデータとしての広島しか知らない。

いつしか、あの日を知る人は旅立たれる。だからこそ、そうしたみなさんの肉声、表情を記録して残しておくことは、とても大切なことになる(戦争の痕跡を残す遺構の保存も大切なこと)。

表情は雄弁だ。そして、人間の恐怖感は時を超えて共通のもの。理屈としての反戦のイデオロギーよりも、おばあちゃんの目を、言葉を発することができなくなる口元を注視することが重要になる。

戦争はデータではない。リアルな地獄。今、ウクライナで起こっていることも、ガザで起こっていることも。

だから、戦争はデータとして知るべきではない。人々が感じた恐怖を自分の胸で感じることだ。


映画「ひろしま」
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冒頭に掲げた写真はwikipediaから、映画「ひろしま」の一場面

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