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アオハルと夏、社会と校則

皆さんごきげんよう、ぱんだるまです。


最近noteを眺めていて気になったトピックだったので、気軽さだけを頼りに書いてみることにしました。なかなか長くなってしまいましたが、あまり重く考えずに軽ーく読んでみてくださるとうれしいです。


さて、最初に「校則」の2文字を見て頭に浮かんだのは、以前友達と見に行った『ブラック校則』という映画でした。ストーリーをだいぶざっくりとまとめると、高校生の男の子が、偶然出会った同じ学校の女の子に興味を持ち、その子を苦しめている校則を変えるべく友達と共に奔走する、といった話です。

この映画の公開にあたって、様々なメディアで「厳しすぎる校則」について取り上げられている場面を多く目にしました。携帯使用禁止といったものから、挙句の果てには下着の色の指定がある学校まで本当に様々で、驚きの連続でした。映画の中で取り上げられていた地毛証明もその一つとして挙げられていました。


私の経験からすると、校則に関して悪いイメージはありません。

私が通っていた学校では、少なくとも下着の色の指定の様に意味の分からない理不尽な校則はありませんでした。カーディガンのみでの着用禁止などはありましたが、特に厳しいとも思わず、また周囲の友達も大きく校則を破る子はいませんでした。どちらかというと、ギリギリ校則違反にならないグレーラインを探りながら気崩す、といった感じで、むしろそのギリギリ感を楽しんでいる人の方が多かったかもしれない。ちょっとしたスリルを味わえる遊びみたいなものでしたね。

特に身だしなみといった観点での決まりごとが多いイメージの校則ですが、厳しすぎる校則の様に、その内容は学校によって大分差がありますよね。しかも進学校の中には、あえて校則を設けず、何なら制服すらない学校もあります。



では、そもそも校則って必要なのでしょうか?というか、何のために校則ってあるのでしょうか?


私自身の答えとしては、「校則は必要なものである」です。なぜなら、将来ルールに囲まれた”社会”で生きていかねばならないからです。校則がある学校でそれを守って生活することで、ルールの中でどうやって生活をしていけばいいのか、自ずと生徒たちは学ぶことができます。

例えば、ここでもわかりやすい例として身だしなみについて挙げたいと思います。生徒たちは、その学校に通う者として最低限、その校則を守ることを課せられます。しかし彼らにも意思がある。そこで、定められたルールの中で、いかに自分の意思を表現していくのかを自然に考えるようになります。それこそ、髪形を工夫してみたり、校則で明記されていないグレーゾーンを攻めてみたり。あるいは、身に付けるものではなく持ち歩くもので自己を表現することも可能です。

このように、自分のやりたいことをする自由や自分の意思の表現を、どうしたらそのルールの中で可能にすることができるのか、校則に縛られそこから出ようともがくうちに、その方法を自分なりに見出してゆくのです。

私はまだ社会に出てはいませんが、きっと大人の世界って今以上にもっとたくさんの制約があるんだろうな、と父や母を見ていると感じます。そういった制約の多い状況の中で、いかに時間を見つけて好きなことをするか、いかに嫌な上司と円滑に仕事を進めるかなど、校則からのもがき方を応用することで、より上手な社会での生き方を見つける足掛かりになり得るのです。


また、制服を着ているということは自分の所属する学校を周囲に示しながら過ごしているのと同じである、と口酸っぱく生徒指導の先生などから言われたことがある方も多いと思います。私の学校でも、よく公共交通機関でのマナーが悪い、という電話を受けていたと記憶しています。何度も例として示していますが、身だしなみもまた然りです。定められた服装から崩した服の着方は他者にどんな印象を与えるのか。なかなかそこまで深く話してくれる先生はいませんがね。

とにかく、これによって生徒たちは、ある集団を形成するグループの一員としてどういったことに意識を向けてどういった振る舞いをすべきなのかを考えます。とすると、校則はある意味では「社会のルールを成文化したもの」とも言えるかもしれません。


ここでもう一度、校則がない学校について考えてみましょう。既述したように、校則がないことを売っている学校もあります。生徒たちが自主的に考えて自分たちで一つ一つの状況に適した判断を下していく、という行為を促すことで、個々で自立した人材を育てていく、といったことが狙いかと思われます。

確かに、自分たちで考えることはとても大切ですし、今後必ず必要になってくるスキルです。しかし、全国の中学生や高校生全員がそれと全く同じ判断ができる訳ではありません。優柔不断であったり、生まれ育った環境と学校が大きく異なって至り。近年では生徒たちのバックグラウンドも多様化してきています。そんな時に校則があるとどうでしょうか。確かに自分たちでの判断ではありませんが、少なくともそこからある程度の”社会”のルールは学ぶことができます。


しかし現状として、厳しすぎる校則が存在しているのも事実です。どこまでを普遍の”社会”のルールとするのか、どうしたら生徒に対して理不尽なものにならないのか。

解決策としては、主に2つあるかと思います。

1つ目は、校則に対する不満が出た場合に、校則を課す側である教師が、生徒たちが納得できる説明をできるようにすることです。納得できないことに対して、なんでそれをしなければならないのかもわからずに物事を課されることほど、モヤモヤすることはありません。そもそも先生方って、なんでそんな校則があるのか、全部隅から隅まで説明できるのでしょうか。教える側に立った経験がないのであくまで憶測でしかないのですが、きっとすべてを説明できる先生は少ないと思っています。

もしこの記事を読んでくださっている先生がいらっしゃいましたら、今一度勤務されている学校の校則を見返してみてください。きっと、疑問に思う校則があると思います。そして先生が疑問に思うということは、きっと生徒の中にも少なからず同じように思っている子がいると思います。課す側の人間としてそのルールがあるそもそもの理由を把握しておくことは、最低限必要なことではないでしょうか。

2つ目に、校則を変えやすくすることです。といっても、ホイホイと気安く変えられるようにするのではありません。新たな校則の案が出てきた場合に、生徒たちには教師や保護者が納得するような説得力のある理由まで考える、という条件を付けたうえで、校則を変えるかどうかの判断をするのです。こうすることで、理不尽な校則を避けつつ、またそれぞれの時代の流れや変化まで、しっかりと校則の中に取り入れることができます。

例えば女子のスラックスの着用を認めている学校は多いですが、逆はどうでしょうか。少なくとも男子のスカートの着用について、生徒手帳などを見る限りではその記載を目にしたことはありませんでした。こういった時代の風潮も、その後の未来を生きていく生徒たちのために、敏感に取り入れていくべきだと思うのです。



ここまでなんと3000字近く色々と書いてきましたが、兎にも角にも校則は必要なものであると私は思うのです。アオハル映画に夏という季節が不可欠であるように。

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