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向き合う姿勢の学び:『土偶を読む』

最近「縄文時代」が気になっている。前から縄文時代がブームになっていることは知っているのだけれど、改めて気になっている。当時の世界観を垣間見て、思いを馳せることをしたいな〜と思っていたら、この本が流行っていて、面白かったよ!と教えてもらったので読んでみた。

私の感想としては、私は当時の世界観を知りたいと思っていたので、私の目的を満たすものではなかったかな、と思う(たぶん著者としては、世界観そのものを書いているじゃないか!とおっしゃる気がする)

ちなみに私は、本や映画を読んでから、同じものを体験して他の人はどんな感想を持つのだろう?とレビューを読むことも好きだ。この本にはたくさんのレビューがついていて、これは考古学ではないと否定的なものもあれば、新しい見方にワクワクする!と肯定的なものもたくさんある。著者はこれまでの土偶論は「俺の土偶論」にすぎない、とおっしゃるのだけれど、この本もまた「俺の土偶論」だと私は感じる。そういうレビューも少なくない。

だけれど、それはそれでいいのだと思う。「俺の土偶論」で結構じゃないか。正解不正解を超えて(著者は俺の説が正解だとおっしゃるだろうけど)何がみんなをワクワクさせたのか?以下の点で私に大切な示唆を与えてくれた。


▼ 専門外だからこそ

著者は人類学者だ。土偶と言えば考古学に当たる。なので、著者が土偶についての研究を出版したいと言うと「考古学の専門家のお墨付きがないと…」と言われ、そのお墨付きをもらいに行けば「考古学者でもない人の研究を信頼するわけにはいかない」と八方塞がりになったらしい。著者がそのことについて非常に憤慨していることが文章の端々に現れている。

でも専門家だからこそ分かることもあれば、専門家には分からないことや発想できないこともきっとある。

専門知識が少ない人の方が優れたパフォーマンスを示すという現象が、多くの先行研究で報告されている。実際の製品開発でも、豊富な専門知識をもつ企業や研究所の開発者ではなく、一般ユーザの方が新しいアイデアを生み出す事例が見られるが、その理由は不明だった。
(中略)
その結果、専門知識の多い人は注意をスピーカーに集中し、スピーカーをアップで大きく写す傾向があった。この傾向は「集中的な注意配分パターン」と呼ばれ、アイデアの質にネガティブな影響を与えることが分かった。一方、専門知識の少ない人は注意を周囲の環境に分散し、スピーカーを引いて小さく写す傾向があった。この傾向は「分散的な注意配分パターン」と呼ばれ、アイデアの質にポジティブな影響を与えることが明らかになった。
出典:『専門知識の少ない人の方が優れた創作活動をする理由、東京大学が分析』
https://univ-journal.jp/117574/


専門家はその分野のこれまでの知識をふんだんに持っているから専門家と自負をする。そして専門知識を蓄えようとすればするほど、過去にも研究を重ねた人がいるのでさらに細かい分野に分かれてしまう。そうすると、細部しか見えなくなる場合がある。確かに専門知識は素晴らしいけれど、上記の研究によると、発想力という点では専門知識はネガティブな影響を与えるという。

私たちも、一般の人よりも専門家の方が知識が豊富だし、専門家の方がすごいに違いないと思っている部分がある。専門知識がないと改善なんて出来ないように思う。大好きでいろいろ知っていたとしても「私はまだまだ専門知識が足りないから」と思ってしまう。ビジネスにおいても専門家になろうとする。長年取り組んでいないとダメなんじゃないか、細部が分からないとダメなんじゃないか。

でも、今回の発想は専門家じゃなかったからこそ、思いつけた部分が大きいのではないか。専門家じゃなかったから、まず縄文に関心を持ったとき、縄文と言えば土偶?…と最初に「土偶」と検索した。そして土偶のフィギュアを買った。可愛くて、土偶を抱いて毎日一緒に寝た(本当にそう書いてある)そしたらあるとき、ピンと閃いた!土偶のこの部分って植物に似てない!?と専門家じゃなかったからこそ自由な発想に飛ばすことができた。

それまでの考古学の当たり前がなかったからこそ、専門的な知識がないから逆に発想できたこと。「それが当たり前」と思っていたことに、風穴を開けてくれた。他の見方があることを教えてくれた。それがワクワクのひとつじゃないか。

さらにもっと言えば、それはあなたにも、私にも素人だからこその可能性があるということかもしれない。

▼ 第一人者になれ

著者が土偶に関心を寄せてから調べていくと、土偶の研究は明治から130年以上重ねられているけれど解かれていない謎がたくさんあることに気づいた。教科書には土偶は「妊娠した女性を象(かたど)っている」と書かれていることが多いけれど、著者はそれに「そうは思えない」と不満を覚えた。だから自らがその謎を解くことにした。

同じ時期に『歪んだ正義「普通の人」がなぜ過激化するのか』という本を読んだ。著者は毎日新聞の人。海外特派員生活で過激化した人たちが怒りをむき出しにして衝突する現場を何度も目の当たりにし取材してきて、その過激化するプロセスはどこから生まれ、どのように育つのかという疑問を持った。

ただ、現場に追われていては、勉強不足になったり多角的な視点を補う余裕がなかったりで、目の前の点と点を、専門的で統計的な知識を持たないまま、自分の限られた経験だけを根拠につないで「現実」であるかのようにしてしまったこともあり、毎日新聞を休職し、海外の大学院に進学した。

留学を伸ばそうか、迷っていたときに、ある教授の話を聞き、思い切って相談してみた。自分の関心分野を専門とする教授が少ないことや、できれば教授が取り上げたような見地を深く研究したいのだけれど、どんな進路をとったらいいかとアドバイスを求めた。

「君が興味を抱くテーマに100%合う研究をしている教授はいないし、そうした分野を専門とする学部や学科もまずない。むしろ研究者は自分の関心テーマの情報を様々な分野からかき集めて、自分だけの研究世界を作る。それが研究活動と言うものなのだよ」
私はこの言葉によって遅ればせながら「開眼」した。自分が関心を抱くテーマと同じような研究を続ける教授や大学、研究所ばかりを探していたが、考えてみれば、そういう姿勢では誰かが既にやった研究に追随することにもなりかねない。大事な事はいかに自分ならではの研究世界を立ち上げるか。むしろ自分を中心に置き、大学やシンクタンク、そこの研究者などから必要な知識や分析をかき集め、そこからオリジナルな世界を創造することこそが大事なのだ。
(『歪んだ正義「普通の人」がなぜ過激化するのか』340ページ)

日本人の…とまとめてしまっては申し訳ないかもしれないけれど、けっこう多くの人が新しいことを始めようとしたときになにかスクール的なものに通い始めたり、まず「教えてくれるところ」を探しがちではないだろうか。私自身も、なにか新しいことに出会ったとき、もっと知りたいとまずは本を探す。

だけれど、その姿勢が染み付きすぎてはいないか?教えてもらえることが上限だということにはならないか?教えてくれる人についてまわるだけでは十分ではない。それはあなたが、私が、第一人者になる機会を失っている。

確かに、私自身、専門家が現時点でそう結論づけているのだから、と土偶=妊娠女性説を疑ったことはない。なんなら、その説は結構好きだ。

だけれど、いわゆる通説と言われていたものが覆されることは、歴史を振り返ればたくさんあるはずだ。だから「通説と言われるものにも疑問を持っていい」「もしかしたら、何十年後、何百年後には覆されている可能性がある」ということを頭の片隅に置くことで、あなたが、私が、第一人者になる機会が生まれるということかもしれない。私だから、あなただから、気付けることがあるかもしれない。

同時に、私がそんなことを思いついたとしても「いや、そんなことを言っている専門家はいないし…そんなわけはないか」とその思いつきを流してしまうだろう。直感を大事にすることができなかったかもしれない。でも、一人ひとりが第一人者だと思えば、私やあなたの小さなその直感も、なにか後の重要なヒントになるかもしれない。

・通説に惑わされるな
・直感も大事
・「もし私が第一人者なら…」くらいの仮定で楽しめ

そんなところもワクワクの正体のひとつじゃないか。

▼ 人生、どこでつながるか分からない

数年前、ある学生さんにポロリと相談を受けた。進路に迷っていて、ざっくりと今は△学部にいるのだけれど将来やりたいことが少し見えてきた気がしている。やりたいことを直接学ぶなら◎◎学部、だけれど学部を変更するのは難しさもあり…また親が…というような内容だった。セミナー講師で呼ばれ、休憩中の話で、時間がなくなり、相談があるなら連絡しておいでと名刺を渡したけれど、結局それっきりだった。

そのときにも同じ話をしたつもりなんだけれど、どこまで伝わっていたか分からない、もう一度伝えられたらと思い返すことがある。

彼女の倍以上生きて、人生を振り返って思うことがある。大丈夫、それらのどの道を選んでも、あたなの思い通りの道になるよ。今は学部とかが大きな問題に感じるかもしれない。分かれ道に感じているかもしれない。でもその先には、どちらの道を選んだとしても「なんだ、結局ここにたどり着いたな」というところにしか来ないんだよ。

あのとき、今と全く違う専門性のことを学んでいたけれど、結果的に、あの学びがあったから今、これにつながることができた。

人類学者である著者が、土偶の研究をして、土偶について講演をしている。プロフィールには「独立研究者として」と書いてあるので、想像だけれど、興味関心を持ったことにはなんでも研究に突き進む方なのではないか。

だからこそ、今がある。それが人生のおもしろさなのかも。そして軌道修正ができるという余白でもあるんじゃないかな。

▼ 最後に

私自身は、土偶のモチーフが女性やビーナスだったり、妊娠の…という説には神秘を感じるのでそのままでもいいし、これは植物モチーフだよ、と言われたら、それはそれでいいかな、と思う。だけれど、全部ただの植物モチーフと言われたら、なんか寂しい気持ちが湧いてくる。

今の私たちの感性で見ると女性に見えなかったり、手足が人間を模したにしては短いとか形が変わっているということはあるかもしれない。でも、同じようにつくることだけが方法じゃないだろうし、デフォルメしたり、私のような適当な人間が作ったとしたら「まぁそこらへんは重要じゃないので細部はニュアンスで!」みたいなかんじで完成させてたかもしれないし、顔の創作に力を入れたから手足は簡単に済ませちゃおう、なんてこともあったかもしれない。それはあまりに縄文の人たちに失礼かもしれないけれど、今の私たちの感性をそのまま当てはめなくてもいいかな、と思う。

だから、土偶についての関心よりも、著者の生き方、土偶の研究に至ったことやその研究姿勢についての関心の方が高かった。それはこの本を読んだからこそ気づけたことだし、そして、ここから学んだことはきっと、私の道を少し補強してくれる気がする。

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