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うちにニンゲンがいた話

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その瞬間のことをはっきりと覚えている。

我が子の印象、とでもいうようなものを確信的に受け取った日であった。
目に光が射し、意志を感じる、そんなふうでもあった。

名前を呼びかけ、おっぱいをあげミルクをあげ、全ての時間を間近で過ごし、スペシャルにプレシャスにオンリーワンの我が子ながらも、その瞬間まではまだ『赤ちゃん』という大枠から完全に抜け出していなかったのだ。
その日か我が家の「赤ちゃん」はいなくなった。

「元気でパワフル、繊細さには欠けるが底抜けに明るい陽人間」
その瞬間にこんなことを思ったわけではないが、敢えて言葉にするとこんな感じだろう。
自分とは正反対の印象だ。
夫から感じるものとも違う。 幼少期、私は覇気がなく、途中、覇気があったこともあったが、今現在やはり覇気がない大人だ。
夫は楽観的な人だけど、何せ幼少期のあだ名が「ぼけ」なので、 ぼ〜っとした子であったことは間違いない。

この時、娘は生後6ヶ月のバリバリの赤ちゃんなので、「へうーっ」とか「ヒィーっ」とか「うぁ」、「ヴァッ」とかしか言えない。
なので私が感じたのは、性格とかではない。
言うなれば、初対面の人から1秒で感じ取れる範囲の、印象、オーラ、雰囲気、、、そんな類のものだと思う。

赤ちゃんなんだから元気でパワフルなのは当たり前だろ、と思うかもしれないが、それではないんだ、としか言いようがない。
確固たる印象。
今娘は5歳になったが、その印象は、その時のものと全く変わらない。

異常なほどの明るさ。
鬼気迫るパワー。
陽の気。
想定の範囲を超える社交性。
やる気。
すごいやる気。

他人から見ても多分、そんな印象の子である。
あの日タオルを畳んでいる時、不思議に不意に、自分という人間とは完全に引きちぎれて、あちらとこちら、という関係性で娘と相対することとなった。

「はじめまして、こんにちは。」

「突如出現した我が子の印象」

そして、「自分の子」は半分は自分でできている、などという、私の独身時代の考えは全くおこがましく見当違いな不安で、材料・素材としては私と夫のDNAを使っているが、そうして出来上がるのは全く別々の一個の人間、ということを思い知らされた出来事でもあった。
改めてみると当たり前のことなのだけど、その時の私は「そうだったのか!」と、まるで長年間違った読み方をしていた漢字の、本当の読み方を知ったような感覚でいた。

「自分の子供のイメージと実際」

他の家のことはわからないが、例えばお父さんが「もの静かな人」で、その子供も静かな感じの子だったとしても、それは「そのお父さんのもの静かさ」が受け継がれている訳ではなく、○○ちゃんと□□ちゃんて何かあんま喋んないよね〜、みたいな文脈で語られるのと同じくらい、粗く括られた「もの静かさ」なんじゃないのか。
それくらい違う「もの静かさ」なんじゃないのか。
逆に、もの静かなお父さんに対し、子供は社交的だったとしたら、今度は母方のじいさんにそっくりだとか、おいちょっと待てよ、そう言えばおばさんは社交的な人だったよなぁとか、親族を探せば誰かしら「もの静か」か「社交的」がいるもんだ。
なーんかあそことあそこ繋げたいな〜と思えば、どんなんでもストーリー作れちゃう。 実際人間はもっと複雑で、ぐっちゃぐちゃにぐちょぐちょな色んな要素の捏ねくり回せで成り立っていることくらい、本当はみんな知っているはずだが、とにかくそういうストーリーが好きなんだ。

不思議なのは、自分が親に似ているとか、ここは受け継いでるなぁなんて思ったことは一度もないのに、自分の将来の子供を想像したときには、どこか分身のような感覚があったのはどうしてだろう?
似てたらどうしよう、、、という不安からかもしれない。
私は自分のことがあまり好きではなかった。
「子供を作る」って言うからだろか。
見た目が猛烈に似てる親子を見た時のパンチ力もある。
分身感がすごい。
うちも、娘の顔とか体にはかなり親近感がある。
やっぱり似ているらしい。むしろすごく、似てるらしい。

「地味だが激似な親子を見た時の衝撃」


[ 夜 ]

すぅーすぅーと息を吸う音が、一定のリズムになってきた。
ようやく寝たようだ。

おでこから髪の方へ、2回撫でて、温かさと髪の柔らかさを感じる。
下がった眉毛を親指でなぞる。 おでこにキスをする。
つい最近、自分のシャンプーを選んで使うようになったので、私と違う匂いがする。
鼻の先を、ちょんとしてみる。
まだ柔らかい。
そのうち、娘の手まで布団から引き出してきて、それをまじまじと味わい始める。
自分の手のひらに合わせて、大きさも見てみる。
まだこの分だけ、小さい。
さらにその手の甲を自分の唇に当てて、皮膚の感触を確かめる。
やっぱりまだ柔らかい。
もう一度顔の方に戻って、長い長いまつ毛を眺める。
夫に似ているところだけど、 夫よりももっと長いかもしれない。
艶があって、美しくカーブしている。
ほんとにきれい。
鼻の幅より小さい口も、ちょんとする。柔らかい。
私のと、バランスが似ている。


あんなに違うのに、やっぱり自分に似ていて、私の子供で、愛おしくてたまらない。 全くほんとに、この現象をなんと呼んだらよいのか、わからない。

「子供の寝顔を見ると、疲れなんて全部吹き飛んじゃうんです。」

というフレーズをメディアで何回も耳にしたことがあったが、ちょっと噂と違かった。
子供の寝顔は、本当にかわいい。
でもそれは、娘が寝たことで、こちらも心の平穏さを取り戻し、黙っていることで普段はうるさい娘の、純粋な可愛さに集中することができ、また、寝顔の中に、まだあどけない赤ちゃんの頃の可愛さが瞬時に蘇えされ、可愛いだけだった。
寝てる時の可愛さは、起きてる時の可愛さと、種類が違うだけだった。
別に疲れは吹っ飛ばず、疲れたし、可愛いだけだった。

「疲れが吹っ飛ぶ人たち」


本当に、自分の子供というのは想像してたのと全然違かった。
想像しようとしても、うまくできなかった。
まして自分が親になるなんて、そんなこと、していいのか悪いのか、自分に聞いても全くわからなかった。
自信なかった。
でも、産んで良かった。

そこに居るだけで、様々な感情が私の中に力強く込み上げて、泥遊びのように心をぐちゃぐちゃにされる。
揺さぶられる。掻き乱してくる。
すごく楽しくてすごくキツい。
可愛いなぁ、あぁ、楽しいなぁ、ありがとう。
そういう平和な時間がある一方で、本当に暴力を振るってしまうんじゃないかと、自分が恐ろしくなる時がある。気が狂いそうになる。
そしてそれが、2時間前の自分と、1時間後の自分だったりする。
「だいすきぃ」って言ってきたり、素直な心で、剥き出しの言葉で、私を傷付けてくる。
あと、実は「だいすきぃ」よりもっと感動的な言葉をたくさんくれる。

エグい。

こんな人、会ったことない。
こんな人いるんだ。

私は本当に全然、知りませんでした。

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