映画「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」と、自己のセクシュアリティについて。
こんにちは、チャン・パムです。
最近は、昔ほど虫が怖くなくなりました。
むしろ、こんな小さな体で動いて、生きていて凄いなぁと。でも触るのはまだちょっと怖い。
さて本日は、映画「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」を観に行ってきました。
先日、美術館の企画展示「クリムト展 ウィーンと日本1900」を鑑賞したばかりだったのですけれども、映画も併せて観たら、もう、200倍は楽しめます。
例えば、
クリムトの壁画作品「ベートーヴェン・フリーズ」は、ベートーヴェン第九交響曲に基づいておりますが、映画だとそのベートーヴェンの曲と共に芸術作品を追いかけられる。
こんなに素晴らしい事はないと思います。
他にも、この映画ではウィーン黄金時代を絵画を音楽、哲学、文学、心理学等などあらゆる面から語られる構成となっており、大いに見応えたっぷりでした。
また、映画の中で度々セクシュアリティについての話題が取り上げられています。
セクシュアリティを表出した作品の、衝動性というのは一体何処から沸き起こるのか。
何を描き出し、何が人々の心を震わせたのか。
今回は、この映画のキーマンの1人である「エゴン・シーレ」が描いたセクシュアリティから、自身の性について考察していきます。
※以下、ネタバレを含みます。
代々鉄道員であった一族の息子として産まれた「エゴン・シーレ」。
彼も当然、鉄道員の道を歩むものと思いきや、彼は勉強が出来なかった為、絵ばかり描いていました。
彼は、グフタス・クリムトを師とし、絵を描き続けます。
シーレは、姿見で自分の表情やポーズを見ながら自画像を何枚も描き、「人間のあらゆる側面の可能性」を表現していました。
大胆なポーズの裸の女性などポルノ色が強く、
また、退廃的な色を使って描く作品は、何とも過激で観る人を選びます。
劇中でも語り手が、
「シーレの絵を見ていると、息が詰まりそうになる。」と語っていました。
セクシュアリティというのは「攻撃的で、人々の関心を引きやすい。」と。
確かに近年、メディアなどを見ていると特にそれを感じます。
そこで、自身のセクシュアリティについて考えを巡らせました。
思えば私は幼い頃から、セックスに興味のある少女でした。女性と男性の性的な物語を絵本や漫画、小説等あらゆるものを通して描き出しては、こそこそと1人で楽しんでいました(今思えば、それが私が当時軽蔑していた“神様“への1番の冒涜だということと、それに対する背徳感からくる興奮が堪らなかったのではないかと)。
好きなドラマ、好きな映画、好きな音楽。
自分が好きなあらゆるものに、「セックス」がありました。
不思議で堪らなかった。
しかし、私がセックスに求めるものは快楽だけではない。それはロマンスでも、ましてや愛でもない。それは、初めてセックスをした時に実感しました。いや、正確に言えば、その時にはっきり自覚していた訳ではなく、今もセックスをすると何となく心にもやもやしたものが閊えるのを感じていた、ということです。
しかし、シーレの作品、ないしこの映画を見終わった後にふと、その心のもやもやの正体が、ぼやっと浮かび上がって来たのです。
それは、
「他者あるいは自己の抑圧された意識が垣間見えるかどうか。」
というのが1番近いような気がします。
つまり、シーレが言う「人間のあらゆる側面の可能性」を見出す事に近いという事です。
好きな俳優、女優、綺麗な女性、好きな異性、
彼らが「セックス」と口にする度に、胸がドキドキする。それが過激であればあるほど、抑圧「するべき」と認知していればしているほど、胸が高まる。
「他者のセクシュアリティ」というのは、日常を歪ませるくらいのパワーを含んでいると思います。非日常的体験というか。
しかし、この理屈で言うと、解放は抑圧の上でしか成り立たないし、非日常的も日常の上でしか成り立たない。
これがもうまた、魅力的ですね。
セクシュアリティはどうしても過激性だけに注目されがちですが、私は人間がこうして日常に仕込ませる事によって、
詰まるところは「不穏の上でしか平穏は成り立たない」事を証明しているのではないかな、と感じました。
語りたい事はまだまだありますが、
この辺で。また次回。
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