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わかるということ

最近「わかる」が矮小化させられていると感じる。

コーヒーをやってくる中で色々な不思議があった。
「深煎りのコーヒーって苦くない??なんで大人たちは皆美味しそうに飲んでいるの?」
「てか日本のカフェラテまずくない?」
みたいなこと。
「この1杯と昨日の1杯の味はなぜ違うの?」
「どうしてお店の味と自分の味は同じにならないの?」
「どうしてこのまずい店は人気があるの?」
そういうこと。

昔いくつかのチェーン店でアルバイトをしていた。
そこでは「クレーム」防止が重要であり、そのためにも「味の均一化」が目指されるところだった。
しかしコーヒーに向き合えば向き合うほど、「味の均一化」ってどんどん遠くなる。

北千住の劇場「BUoY」のカフェ立ち上げの際にもお話したけど、味は「ぶれる」。その意味は、その時のことはその時にしか起きないということです。
同じコーヒーを同じようにいれても、昨日と今日でそれは「同じ」ではない。
同じように見えるけど、同じじゃないし、わたしたちはひとときにひとところにしかいられない。
コーヒーに限らず「味」は不安定なもので、わたしとあなたが同じものを口にしても、感じるものは違います。

ただコーヒー屋としては、「だからなんでもよい」ではありません。
それは「わたしが美味しいコーヒーを出すことしかできない」という意味であり、
「わたしが美味しいコーヒー」をどこまで追求できるとかという部分が大切なのであります。
それしかできることがない。

最近のコーヒー屋さんは「わけのわからないこと」を言う人が少ないです。
みんな決まりきったどこかで聞いてきたことを話して「わかり」を得たように感じているように見える。
「なんとなくやってて感じる」「ここに違いがある」日々続けることでその微細な変化に気づくことが面白みのひとつでもあるのに、
どこかに教科書があるみたいに通り一遍の話をしている。
その話はわたしにとっては全然面白くない。
「あなたがどう感じたか」を聞かせてほしい、そう思います。
この世界に教科書なんてないから。

少なくとも、わたしたちが今この世界を生きる中で「わかる」を求めたり共有することが必要な場面はある。
これは言葉で説明することを怠ることの推奨を意味するのではない。
すべてものごとには、
「言葉や説明では理解しきれないなにかがそこにあり、それを読み取れるかどうかが重要であり、それは言葉や論理だけではわかり得ない」ということであります。

先日カフェにいた時に隣にいた人がこんな話をしていた。
「さいきんの子どもはモニターの画像ばかり見ている。現実の目で受け取る情報は画像よりもはるかに多く、モニター慣れしてしまうと現実に見るもののその莫大な情報を受け取ることができにくくなるらしい」というもの。

ことばや人の説明や論理はこの解像度の低いモニターのような説明であり、
それは理解を促しはするが人が感じ取れるすべてのものではない。
モニターの解像度以上のものをちゃんと見ることができるかどうか。見つけた方がずっと世界は美しく面白いとわたしは思う。

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