190804 物語を紡ぐということ
先月から参加している「週1note」も、次週が最終週となった。
準備・推敲・投稿の連続は、思いのほか日常にするりと馴染んできて、今となっては1週間を整える一つのサイクルだ。
参加してよかったことは幾つかあるが、とりわけ大きかったのは、他の約40名のメンバーの文章に触れられたことだろう。
唐突に、どうしても紹介したいので勝手に紹介しますが(ごめんなさい)、最近深く心に響いたメンバーnoteはこちら。
家族・友人・職場の同期等、大事な人達が手渡してくれた愛の大きさに気付き始めたちょうどその頃、拝読し、シンクロ具合に対して、発見の驚きや幸せがびゅーんと伝わってきたことに対して、とにかくとってもうれしくなり、ねえ見てこういうことなんだよめっちゃいい文章やばいなどと早口になりながら大事な人①にも、先日勝手に紹介してしまった。笑
こうした不思議な偶然がぽこぽこ生まれる環境は一人こつこつ書いているだけでは得られなかったのでとても有り難いなあと思っている。
これが、参加してよかったこと。
一方で、参加したことで頭を抱えたくなる場面も時々ある。
他の人とすぐに比較できるため、文章や思考のクセ、技巧・ボキャブラリーの貧弱さが自ら認識できるほど、丸裸になる。恥ずかしい。その時は素直に落ち込む。
昨日友人と話していて改めて気付いたのだが、そういえば最近意識していたのが「物語を紡ぐ」ということだった。癖の元凶は大体それなのかもしれない。
物語を紡ぐといっても、実際に仕事として物語を書きたいわけではなくて、人生に対するスタンスを指している。(所謂「BEの肩書き」や提唱者兼松さんの考えに強く影響を受けた)
要は「人と人」「出来事と出来事」等を繋ぎ、結び付け、編集し、一つの物語を紡ぐ人、所謂童話作家のような存在でありたいと、兼松さんにお会いした昨年末から言っている。
自身に対しても大事な人達に対しても、世の中に対しても。
だからわたしにとっては、人生も思考もだが、何より世界を切り取る文章とは、ずばり物語そのものなのだった。その方向性を考える必要はあっても、悩む必要はないんじゃないだろうか。(ただの保身かもしれないが)
文章も思考も十人十色であること、まだ叶えたい表現のために努力できることが自分にはたくさんあるんだと知れたことは大きな収穫だったなあと思う。