『炎三態』 / 谷本洋インタビュー 前編
ー作陶の世界に入ったきっかけから教えてください。
まず、父が陶芸家だったんですね。谷本光生と言います。最初に少し父のお話からさせてください。
父である谷本光生は元々絵描き志望だったんです。大正五年生まれですから戦争に行ってます。それで帰ってきてから、日本が大変な時に絵を描くというのは、直ぐにはお金にもならないし、そういうことをやっているのもどうなのかな、ということで何かものを作る仕事をしようと。それで陶芸を始めたんです。
昭和戦後の頃は、桃山時代の素晴らしい焼き物を再興しようと取り組んでおられた方々がそれぞれの産地にいたんです。父も伊賀という土地で生まれて、伊賀焼の復興に使命感を感じていた。当然ながら今のような形での資料も情報も無いような時代に、手掛かりの少ないところから伊賀焼を復興したのを横に見て私は育ったんです。その父に仕事を習っていましたし、轆轤は5歳の頃からやっています。歌舞伎などの伝統芸能の世界じゃないですけれども11歳のころには薪窯の手伝いも始めましたし、中学生の頃には陶芸家になろうと決意していました。その上で自分の方向性を考えていくということなんですけれども。高校の頃には美術部と剣道部とコーラス部の掛け持ちでしたね。
ーコーラス部も含まれるんですね。
その話はまた後ほど繋がってきます笑
藝大を目指していたのですが、諸事情あって諦めることになり、普通の四年制の大学には入ったんですけどね、そこでグレました笑
元々狙っていたところに入れなかった上に、目指すところとも全然違うので中退しまして、そのあとは京都で陶芸専門の訓練校と試験場に入りました。現代のように情報も無いものですから、陶芸家になるための決まったルートもなく、自分で模索しながら色々やってて、最終的に伊賀焼をやるから伊賀へ帰ってやろうということになります。
訓練校では轆轤をみっちり一年間やり直していました。京都の訓練校ですので伊賀の轆轤とは違い、きっちり寸法を合わせて総削りしたりするんですね。その京都での経験も今の作品に役立っていますし、その違いも面白かったです。京都が大好きだったので、大学も含めて六年間いました。
ーその後フランスに渡ることになるんですね。
フランスに渡るのは24歳になった年からです。
これも父がよく言っていたことですけれども「伊賀焼を知るだけではだめだ」と。焼き物しか知らなければ井の中の蛙となってしまう。また「作品は人なり」ともよく言っておりました。例えば伊賀焼にある耳付の花入は大体28cmくらいのサイズですけれど、それくらいなら轆轤を始めて一年半くらいの陶芸経験の人なら誰でも挽ける。だけどそこから先の違いは、その人がそれまで何をしてきて今何をしているかという点で違いが生まれます。
だから勉強をしなさい、と言われました。デッサンにお茶、字を綺麗に書くこと、美術館に通う、人に会う、美味しいものを食べる、などあらゆることをですね。そこで自分に何が足りないかと考えて、油画やデッサンをちゃんとやってみよう、せっかくならパリに行って本格的にやってみよう、と考えました。それでパリに渡って美術の学校に入り、デッサンと油画を改めて学んだのですが、その時に自分の人生を変える師匠となる人との出会いがありました。
J.G.アルチガスというバルセロナの現代美術家がアシスタントを募集していたんですね。この方は画家のミロの陶芸作品の全てにも携わってた方です。例えば1970年大阪万博の時の大阪ガスパビリオンや、バルセロナ空港の陶壁とか数々の陶芸作品ですね。それらは「ミロ・アルチガス」と言う連名になっているのもありますけれども、アルチガスもミロの影響を受けて、アメリカで一番大きな設計会社と提携してビルのエントランスに陶壁やオブジェを作っていました。その制作アシスタントに採用されたことをきっかけに長年お世話になりました。
アルチガス先生は濱田庄司先生とも交流があって、アルチガス財団のレジデンス施設には濱田先生の作った登窯と僕の作った窖窯があるんですよ。それぞれ『益子』と『伊賀』という名前がついています。
そして彼のアシスタントとしてパリのアパートとバルセロナを行ったり来たりする期間がしばらくありました。そのまま十年くらいパリに住みたいと思っていたのですが、日本へ戻った時、病気をして日本で長期間療養しなければならなくなった。
けれどその後も毎年夏は一〜三ヶ月くらい先生のところ、バルセロナのアルチガス財団の施設に滞在して、お手伝いをしつつ自分の作品制作もしています。
ー今も続いていらっしゃるんですか?
コロナ期間で少し間が開いたりもしました。
アルチガス先生のところで多くの現代美術家の面白い人たちと出会うことができたのも、すごく勉強になりました。
でも彼からの一番の教えは日本の素晴らしさや制作姿勢です。それをお前は認識しなきゃいけないと20代の時に言われました。伊賀で生まれ育って、京都にかぶれ、海外にかぶれ。けれど自分の足元をちゃんと見ていなかった。井の中の蛙だったんですけれど、その井の深さが全然分かっていなかった。
ー現代美術の方々とのふれあいの中から、結果として伊賀焼に向き合っていらっしゃる。もっと抽象性の強い現代陶芸的な方向に行く可能性もあったのでは?
僕は若い頃に「伝統」というのは古臭いものと感じていました。若い時は誰でもそうですね。もちろんその伝統が続いている理由もあって、父が伊賀焼を再興しようとした気持ちの根源もそこにある。その気持ちが今ひとつ分かっていなかった。
しかし自分自身の視点で伊賀焼を世界の中にポンと置いてみると、めちゃくちゃ面白くかっこいいものだということが分かったんです。
30代のある時にスペインでワークショップをしたんですね。そこで伊賀焼の伝統的な形の耳付の花入を作った。それを見て彼らは「なんて前衛的なんだ」って言ったんですよ。ということは初めて見る人にとってはこれは前衛なんだと。端正に作った後に耳をつけたり、へら目を入れたり、歪ませたり、口を曲げてみたりとか。向こうの人たちからしたらこれがものすごく前衛的に見えた。形だけじゃなくて作っている動作から僕を見ている。世界からはそういう風に見えるんだと改めて理解したんです。そこが若い時には分からなかったことです。伊賀にいると古臭く感じても、世界からすれば前衛なんです。
ーそれこそ白白庵の目指すところにも繋がる視線ですね。茶ノ湯的な視点は世界にとってはまだまだ新しい。
(後編に続く)
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