価値を問うことについて
いつもながら、無意味に思えるような問いについて考えている。
今日は「価値を問う」について考えてみた。「価値」や「価値観」という言葉を日常で見聞きし、自分自身も使っているが、その価値は本当に価値といえるか、「私には価値があるのか」と問うその「価値」は、しっかりと意味をとらえているだろうか。
アイン.ランドは著書の中で「人間は「価値」あるものを獲得するために行動する」といった。
また、「価値という概念は、他に選択肢があるにもかかわらず、ひとつの目標に到達することができる実体を前提としている」という。
あなたの探している「価値」と同じだろうか。私たちは言葉に表せないとしても「価値」を探している。
「自分には価値があるだろうか」と問い、悩みの対象にもなることもある。
また、価値を普遍性に昇華させようともする。お金儲けにつながる「値打ち」とは少し意味が違うのだ。
多くの人が述べる「価値」は、お金儲けにつながるかどうかを問う「値打ち」と混同した使い方をするが、価値あるものがお金儲けに直結することはないこともある。物事に価値を見出して「価値があるからそれをする」のではなく、価値を信じて行動するのである。
その結果、「あれには価値がある」というのではないだろうか。
普段、価値が決まったものに「挑む」とは言わないはずだ。
価値があるかはまだわからないが、それがあると信じて自分を賭ける行動をする。そうすると、自分に価値があるかどうかはやってみないとわからないものだということが見えてくる。
価値に従って生きたからといって、うまくいくかどうかはわからないが、それもやってみないとわからない。
そういった挑戦は人類にとって価値があるということは歴史が示している。
「私には価値があるだろうか」と問う人へのその答は、「やってみないとわからない」というところだろう。この答えには価値があるのではないだろうか。
私は自分の信じる価値に従って生きている。それを手に入れられるのなら、値打ちはないかもしれないが価値は普遍的でもある。