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分かり合うには勇気もいる

同じものを見ても、他人が同じように感じているとは限らない。
「同じように考えているだろう」
というのは事実ではなく想像、もしくは希望だ。
人間は、視覚からの想像やこれまでの経験からの想像や思い込みによって、間違っていても正しいと判断するものだ。


横山雅彦さんの「無敵の英語勉強法」という本の中で、面白い記述があった。
「ただいま千円札が不足しております」
という張り紙がしてあれば、日本人ならどう対応するかという話だ。答えははいわなくてもわかるだろう。
これをby telepathyというそうだ。

日本という狭い中に、たくさんの人が住み続けるには、このby telepathyが不可欠なのだろう。
しかし、時には、このtelepathyが邪魔になる。
分かり合えていたと思っていたtelepathyが間違っていたという時だ。

日本での生活にはtelepathyは不可欠ではあるが、精度が今ひとつで、いつも間違えている。そして、その間違えていることに気づかない人が多いのだ。


車の運転で距離を詰められると、telepathyが働き「ケンカ売ってんのか!」となる。ウ○コしたいからつい急いじゃって…ごめんね、かもしれない。
「マスクはずすと変な目で見られる」というtelepathyが働き続けると永遠にマスクだ。


これを回避するには、言葉の使用だ。言葉は一発で感情を変えることができる。telepathyの出る幕はない。


しかし、言葉の使用には勇気がいることは事実だ。
こんなことを言ったら嫌われるかなというtelepathyが働くからだ。
「敬意」と「尊重」がこのとき役に立つ。


それなのに、多くの人が、思い余って「言葉」を口に出す時は、ほとんどが「攻撃」になる。使い方が違うのだ。この時にこそtelepathyを使って欲しい。


ぼくは仕事柄いろんな人に対応するが、背中に絵の入った人もみる。
「ワシは○○組の○○と言いましてな」
「あのー、ぼくはそっち方面のことは全くわからないので、来てもらったからには、ぼくの言うことを聞いてもらえますか」
と「敬意」をもって言う。
「任せます」と言ってもらえる。
半グレくんなども気合い入ってるから乱暴な口ぶりの人もいる。
「そういう口の利き方はやめてくれるかな、少なくとも五分五分で頼むわね」
とはっきりいう。
「すみません、気をつけます」
と言ってくれる。相手の状況を「尊重」しているからだ。
telepathyよりも言葉の方が理解が早いのだ。


「空気を読む」という言い方があるが、人間関係においては邪魔だ。

大概、自分の思っていることは間違っていないという「傲慢さ」が含まれているからだ。


「察して欲しい」というのも間違っている。自分が思っていることを自分ほど的確に察する人はまずいない。

相手の答えが、自分の求める答えではなくても、怒らなければいい。ありがとうと言えればそれでいい。しかし、違うのだ。

モヤモヤが残るなら、自分の考えていることを「言葉」に出して、超的確な表現で相手に理解してもらう努力をすればいい。相手の無理解は、自分の表現の不足だと理解したうえでだ。

そもそも、相手のtelepathyに依存するよりも、初めからそうする方が良い。


察するように努力しただけでもいいじゃないか。無関心を装うよう努力しただけでもいいじゃないか。

そのことをtelepathyを使って察して、上手に言葉を使って、空気を読めば万事うまくいくはずだ。


今日の知恵は自信かある。
「telepathyよりも言葉を使うべし」
「言葉の使用には「敬意」と「尊重」に留意すべし」
「話してみるまで空気を読むべからず」
「思い込みの傲慢さに注意するべし」

参考文献:横山雅彦、完全独学「無敵の英語勉強法」、ちくまプリマー新書