⭐️心の学び:人間の器は誰が測るのか
最近、気になったのは人間の器が小さいとか大きいとか言う話だ。
何でもかんでも大きい方がいいように思えるが、では人間の器を小さくすることができるだろうか。
傍若無人の人が大人しく謙虚で引っ込み思案に成ることは可能だろうか。
人間を自由自在に扱えるかのように言う人もいるが本当だろうか。
口では何とでも言える。机上の空論というヤツだ。そんなお伽話に振り回される人は多い。
お金まで巻き上げられているのに、詐欺師を庇うことすらある。
人間の器とはどういったものだろうか。
未熟な人をつかまえて「お前の器は…」と言うのは器のデカい人の言うことでもあるまい。
人間の心は生まれながらの性質に偶然的な経験が加わり作り上げられていくものだ。当然、自分と他人は同じ発達はしない。似た発達ならあるだろう。
自分にない経験をした人や自分とは違う対処をする人を見ると、「あの人は…」となるが優劣はない。どう適応しているかがわかるだけだ。
そもそも器の大きいと言われる人はどんな人のことをいうのだろう。反対に器の小さい人とはどんな人のことだろう。
人間の器を測る物差しとは何だろう。
気前がいい人、寛容な人、受け入れてくれる人、もし、そんな人なら「器の大きな人」ではなく「自分に都合のいい人」という方が当てはまる。
他人の器のことを評価する前に自分を評価してみるといい。
たまたまうまくいっていることが、自分の器の大きさによるものだと思うなら必ず間違う。
最も生きのびるといわれる「適応」は器の大きさとは関係ない。
自分は優れていて相手は劣っていると言いたい気持ちを器の大きさに例えているだけで、単純に、相手を自分の好みに合わせようとしていることに気づく。
他人を育てる意味で器に例えるにしても、自分を育てるようにして他人を育てるつもりなら、もっと別の言葉は使えないだろうか。
まさか「お前は許容範囲が狭い」という意味で使っているとしたら誰も育たない。
そもそも他人の器とやらを測る資格はあるのだろうか。あるならそれはどういった理由からだろうか。