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⭐️学び:なぜ新しいモノは受け入れられにくいのか

何が新しいことを始めたり、今まで言われていなかったことをいったりすると「それはちょっと…」と抵抗を感じることはないだろうか。

新しいものや新しい意見は簡単に受け入れられることはない。

「常識を疑え」と言う話を簡単に受け入れるのに、それを実践するとなると何もできない。

「改善や改革」は良いことだと認めるのに、実践するとなると何もできない。

新しいことを受け入れることは難しいと言うと、「自分はそんなことはない」と言うのに、いざその場面になるとそれが出来ない。

ぼくは、これまでいくつか新しい発見や意見を述べてきたけれど、確かに受け入れられることはなかった。

人間は権威に弱く、常識的でないモノは「間違っている」と判断するものだ。
そのうち、「間違っていることが間違っていた」ことがわかってくると、「本当は自分もそう思っていたけどあの時は…」と言い出すものだ。

「常に進歩しようとする努力が大切だ」と野球の大谷選手が言うと「さすが大谷だ、いいこと言うね」と讃辞をおくるが、それと同じことをぼくも何度も言っているが、誰からの賛辞もなければ賛同もない。

「アレはいいよ」と言い続けていても「この前テレビでも言ってた」とも言われる。見つけたのはぼくだ。

こういった話は昔からある。

ウィリアム.ジェイムズは、
「新しい理論があらわれると、まず、不合理だといって攻撃される。次に、それは真理だと認められるが、わかり切ったことで取るに足らないことだといわれる。最後に、それはきわめて重要なものになって、初めにそれに反対した人々も、その理論は自分たちが発見したのだといい張るまでになってくる。」
と述べている。

これと同じ経験をしたことがぼくはある。

普遍的な意見を探すことがぼくの課題としてあるが、それを発表すると、「そんなつまらないことを…」と言われるだろう。

しかし、そのつまらないことを解決した人はいないのだ。
そのくせ、それが受け入れられるやいなや「私もそう思っていた」と言われるだろう。

人間はこういった心理を克服していない。

「自分を認めて欲しい」という願望は強いが、「他人を認めたい」という願望は皆無だと言っていい。
そのせいで、他人を認めるという態度は簡単なようで難しい。この意見ですら受け入れられないものだ。

「自分は自分」と他人を突き放したように言うよりも、「他人を認める」と言う方が何倍も難しいのだ。
これはぼくが言ったことだ。

同じことを有名人が言ってから「あの人はホンマ良いこと言うね」と言わないで欲しい。

さらに、「あの話って私も同じこと思っていた」とも言わないで欲しい。

全てぼくが言ったことだからだ。


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