治療的哲学:闘うことはもうやめた
「論破する」「論破した」「勝った」「負けた」よく聞くセリフだ。そんなに勝負事が好きなのだろうか。
そうしたがる心理を一度、進化心理学的に想像してみると恥ずかしい答えが出てくるだろう。
しかし、ぼくにもその心理はあった。勝ち負けに強くこだわり誰にも負けない気持ちが。恥ずかしい…。
探究することを目的にするようになって、勝ち負けを目的にすることはなくなった。全くといっていいくらい消えた。
探究することは、探究することが目的でなければならない。
勝ち負けを目的にすることと探究することは全く別の目的なのだ。
「探究する」と言いながら「勝ちたい」と言えばおかしな話になるのだ。別の道に逸れている。当然、答えは求めるものとは違うのだ。
議論というほど大げさでもないが、論争を仕掛けてくる人もいるだろう。「論破」したいのだろう。嫌になるね。
自分の道を進みたいという人に闘いを挑むよりも、「論破」に明け暮れている人を相手にすればいい。
闘いを目的にしない人に挑むのは、格闘経験のない人に格闘を挑んで勝った気でいる人と同じだ。恥ずかしい。
最後には「経験した者にしかわからない!」と奇妙なことを言う人もそうだ。「そのまま」の話を特殊のように言ってはならない。
誰も食べないような物を食べて「食べた者にしかわからない!」と言われたら、あなたならどう答える?「そのままやん!」って言うしかないのだ。
「どんな味?」と尋ねると、返ってくる答えは、食べた者にしかわからないのだ。
自分だけが知っていて相手が知らないと優越になる人もいる。
勝ち負けが好きなら、口よりも物理的にやった方がいいのではないだろうか。
そうすると「何でそんなことされないとあかんの!」と言われるだろう。
「勝ち負けが好きなんでしょ?」と言うしかない。
「私は議論したいだけだ!」と言うかもしれない。
「あなたのその好みを押し付けないでね」「私は口よりも手の方が好きなんですよ」と、こちらは言うしかない。
ぼくは論破できるのだろうか。無理だろうな。
闘うつもりは全くないので、敗者にもならないけれど、勝者にもならないのだ。
ぼくはぼくの道を進むことが大好きなのだ。
邪魔するやつは許さない^_^皆そうだろうけれど(^^;;