⭐️学び:自分の思想を生み出す時
自分の意見や思想を持つことは案外難しいものだ。他人の意見を自分の意見のように述べる話ならいくらでもある。
自分の意見や思想を持つには様々な経験と時間が必要だ。追い詰められたような環境や何をしてもうまくいかない経験が必要なのだ。
小利口であっては思想を持つことは出来ない。
モテたことのない人が「どうやればモテるだろうか」と考えた答えと、容姿端麗で何の苦労もせずにモテる人の答えが同じになることがないことで理解できるはずだ。
若い世代の世界観と老齢での世界観は同じにならない。どう考えるか、どうするべきかの答えが同じではないということだ。
ぼくは、経験による観察によって意見を導き出そうとしている。普遍的であるかどうかを判断しているつもりだ。
ショーペンハウアーの言葉を借りると、
「先人思想家たちがすでに見出していたことを、彼らに依らず、またその事情を知るよりもさきに、自分自身の力でみずから発見することには、大きな価値と効用とがある。なぜなら、われわれは自分で得た思想を、他人から習得した思想よりも、遥かに深く理解するものである」
知識よりも実践が優先されるのだ。
自分の意見を持つということは勇気がいることでもある。批判や否定にどう対処するかも問われる。普遍的であろうとすると尚更だ。
「◯◯によるとね」と他人の意見をパクることで権威の後ろに隠れようとする者もいるが、ぼくはそうできない。
「厄介なぼんくら頭たちに何が本当に欠けているのかというと、判断力と、自分の思想をもつ能力である」
とショーペンハウアーは言う。
自分の思想を持つには現状への不満が不可欠ではないだろうか。愚痴や不平不満とは別のものだ。
不満は不満で終わらせるのではなく、満足で終わらなくてはならないと思っている。
それが思想とか信念とか哲学と呼ばれるものになるのではないだろうか。
そして、煩悶は消えて価値があると言われるようになるだろう。
煩悶が消えることは価値があるのだ。ぼくはそんな気がする。