考察: 哲学と死と
哲学関連の本をパラパラとめくって読むと「死にたいする恐怖」が哲学を学ぶきっかけになった、といったことを目にすることがある。
哲学を学ぶと死にたいする恐怖から逃れられるのだろうか。おそらく逃れられることはないだろう。
死には特有の避けることのできない意味があるように思うからだ。
死がないとしたら、生きることにも大きな変更を余儀なくされることは誰でも想像できるだろう。
「生きる」にしか興味のない人にはわからないだろうが、死のない「生きる」など存在しないのだ。
死には大きな力があるのだ。無駄なものではない。
当然ながら「死ぬ」ことと「殺される」こととは全く意味が違う。死への恐怖が健常であれば、その意味はわかるだろう。
ぼくの哲学への興味は「死への恐怖」ではなく、人間をどう理解するかから始まったものだ。
または、どう理解してもらえるかという動機もある。
どちらにしろ人間の理解への強い興味からだ。
ぼくの仕事はマイナー(少数派)の分野であることが少なからず影響している。
「どう理解してもらうか」が必ずあるのだ。
メジャー(多数派)の人が、ぶっきらぼうに話していても通用することが、マイナー側に立つと全く受け入れてもらえない。
どう説明するか、どう理解してもらうか、相手をどう理解するか、が必ずつきまとう。
バイアスとの闘いもある。
「バイアスが必ずあるのではないか」というバイアスとも闘わなくてはならない。
メジャーな分野に進んでいれば、こんなに考えなくてもよかったのだろう。おそらくそうだ。
しかし、そのおかげで「自分の問題は人間の問題でもある」ことがわかった。
価値観という本当の意味がわかった。
自尊心とは何かということもハッキリとわかった。
「人間とはなにか」という疑問もわかってきた。
人間の苦悩についてもわかってきた。
そうしているうちに「死について」もわかってきた。
さらに「煩悶」すら消えていることもわかった。
何よりも「健常とは何か」についての視点があることがわかった。
こういったことが動機となった哲学は、「死にたいする恐怖」から生まれた哲学とは別の哲学になるだろう。
「死にたいする恐怖」から始まった哲学の学びの人はどこまでわかったのだろうか。