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何者でもない者が生きる哲学

#創作大賞2024 #ビジネス部門

あらすじ
私はカイロプラクティックという神経系を通して身体を観る仕事の傍で、心についても実践研究してきた。
心の病気を治したいとか積極的な心を身につける方法ではなく、多くの人が些細なことだと関心を示さなかった心の煩悶について知りたいと思ったのだ。
私が述べたいのは、普段の生活の中で「なんでうまくいかないのか」の答えについてだ。「どう生きるのがいいのか」の答えだ。
日常に生じる煩悶や苦悩は些細なことなのだが、一度つまづくと人生が変わってしまうこともある。そんな時、どうすればいいかわかっているようでわかっていない。
私たちは知らないことが多過ぎる。知ってしまえばどうってことのないことが、それを知らないばかりに下手な手ばかり使ってしまうものだ。
そこで何者でもない者がどうすればうまく生きていけるかの考え方を提示してみた。それは再現性があり普遍的なものになると考えている。

【目次…】
はじめに…

心について…

心の苦悩…

考えることについて…

ストレスについて…

心の力の実践編…

おわりに…


【はじめに】


私はこれまでたくさんの人と接する中で、生きるうえで、うまくいくかどうかは心の力に強く影響されていると感じている。心の力とは考える力のことでもある。
自分がうまくいっていない時、「なんであの人はうまくいくのだろう」と思わない人はいないはずだ。
学校生活から社会人、プライベートまで、自分と同じような人間が自分とは別の人生をうまく生きていることに嫉妬にも似た感情で眺めることもある。
生まれながらにしての容姿の問題は仕方がないにしても、それ以外の面においても差を感じることがある。
誰でも大金持ちになるとか人気者になるとかスポーツ選手として成功することが簡単ではないことは知っている。努力したからといって報われるわけではないことも知っている。
しかし、現実は、もっともっと簡単そうに思える日常生活においてもうまくいかないことは多い。
好きな仕事を選んだつもりなのにしっくりこないから辞めてしまったが、さらに満足のいかない仕事に就いたりすることもある。
他人の口車に乗せられて不幸の人生を歩むこともある。
私はカイロプラクティックという仕事を通して、たくさんの人が身体だけでなく心の内を明かしてくれる環境にある。身体的な痛みに対応していたはずが、いつしか必ず心の問題という壁に突き当たることに気づいた。
「痛みとは何か」という問いから「心とは何か」という問いに変わっていったのである。それについて考えない日はない。どんな人でも何の問題もないという人はいないの確かだ。
現在はうまくいっているように感じていても、月日が経つと問題が生じてくる。
「こんなはずじゃなかった」
「こんなことになるとは思っていなかった」
という言葉がついもれる。
自分自身に問題がなくても、家族や親しい友人などの問題も浮上してくる。これらを解決する方法は誰にも教わっていないのだ。出たとこ勝負に頼ったやり方でしか対処できないのである。
長かった学校生活の中で、人間関係をどう構築するか、人間関係の再構築はどうするか、良好な人間関係をどう維持するかなどを学ぶことはない。
それだけじゃなくペットの飼い方や子育ての仕方を学ぶことすらもない。いつも出たとこ勝負でやりくりしなくてはならないのだ。
そんな時、必ず影響されるのが環境である。どんな家庭環境にあるか、どんな経験をしてきたかなどによって対処法が変わるのだ。そして、ほとんどが自分の成功体験を雛形にする。
たとえば、子育てをする際には、「私はこうやって育てられたからこうやって育てる」「私はこんな育て方をされてきたから別の育て方をする」というように体験を元にする。それがうまくいくこともあればうまくいかないこともある。良くも悪くも再現性に乏しいのだ。
それはそれで仕方ないのだが、課題は、うまくいかない時にどうやってうまくいくように変更させるかである。私はそういった話から心の力によって問題を乗り越えることができないかを探ってきた。
カイロプラクティックは、神経系を通して人間を観察し、問題が生じた時に何が原因なのかを探り出して矯正することが仕事である。うまく矯正が成功すれば、神経系の働きが正常化して病的な状態から健康な状態に自然に逆転できるということを基礎としている。事実、問題の原因を取り除くことができれば健康を取り戻すことは難しくない。
それと同じように、心の問題によって生じる生きることの問題は、心の力によって逆転し健康的な生活に戻るのではないかと考えている。
それは、身体的なものとよく似ていて、苦悩の原因は何なのかを見出して取り除くと苦悩は自然に消えていくのだ。
日常生活で生まれる煩悶や苦悩には原因があり、それを取り除かずに放置したままでは解決しないことはわかると思う。
心の苦悩と身体的な苦痛の違いは、身体的な痛みには明確な感覚があり、それを取り除かなければ痛みはますます増大する。そして、痛みは慣れてしまうことはない。
常に「痛み」という感覚が私たちの行動を制限する。そんな痛みの感覚でも、消えてしまえば何事もなかったように元の生活に戻れる。
しかし、心の苦悩や煩悶には明確な感覚がない。常に曖昧で放置しがちで、慣れとは言えないまでも「誤魔化し」や「諦め」といった心の状態によって不幸や病気になるまで変更されることはほとんどない。
私は身体的な痛みについての研究をこれまでたくさんやってきた。日常的な痛みならある程度の制御が可能だということもわかってきた。
身体的な健康は心の状態と無関係ではないことは知られている。いくら身体的に健康だと思えていても、心が不健康であれば、必ずその心の対処法は身体的な不健康へと向けていく。
「ストレスが病気をつくるのではなく、その対処法が病気をつくるのである」という話はおそらく真実だ。
身体的な不調を改善してきたのと同じか似たような対処で心を制御できないかと考えて、「心」について記しておこうと思った。かといって、心の病気を治したいとか何とかしたいというわけではない。あくまで心の力によって自分を変更してよりよく生きる方法を手に入れたいのだ。ぜひ私の話を日常で応用してみてほしい。
心の状態が変更可能なら病気予防も可能だと思う。心についてはまだまだわからないことがたくさんあるがわかっていることもたくさんある。
心を完全にとらえることは不可能だとしても微調整を繰り返しながら制御することなら可能であることがわかっている。
心は誰もが経験するようにいつも変化する、電源のスイッチをオンやオフにするように自由自在にはいかないのだ。

【心について】

〈心について学ぶ〉
心について学ぶことはほぼない。また、心について学ぶことに興味を持つ人は多くない。
心について話すと「何かの宗教ですか?」と言われることもある。多くの人は、自分のことは自分で制御できると思い込んでもいるものだ。
そのくせストレスにさらされると何にも対処できず「ストレス解消」という名のもとに、パチンコや暴飲暴食、散財などありきたりの対処を行ってしまうものだ。
それは誰にでもある心理傾向であり、多くの人がやってしまう対処法でもあるが、ストレス解消には効果がみられない対処法でもある。ストレス解消を暴飲暴食や散財するための言い訳に使っているのが現状だ。
やがて病気になって「ストレスのせいでこうなった」と言うが本当にそうだろうか。他のストレスの対処法はなかったのだろうか。
心はその程度の対処法で制御できるほど簡単ではない。憂さ晴らしは出来たとしても煩悶はすぐにやってくる。それは誰もが経験することでもある。
私たちの心は常に変化し続けている。たとえば、心をとらえ切ることが出来ないことの理由の一つに加齢による変化が挙げられる。
心が老化するという意味ではなく、年齢を重ねることによって周囲からの評価が変わってくるのだ。そして、それに対する自分自身の対処も変わってくる。それが一様ではないので、ある時はうまくいき、ある時はうまくいかないということが生じる。
美人やかわいいと褒められていた人が年齢を重ねると、周囲の評価は変わってくる。称賛されることが減ってくるのだ。
そうなると多くの人がやる対処法は似たものとなるが、うまくいくこともあるがうまくいかないこともある。対処法がシミ取りやシワ取り、脱毛ではないことは確かだ。
大切なのは、大げさに言えば岐路に立った時の対処によってその後が決まるということだ。そんな時にどう考えるかが大切なのではないかということは気づくと思う。

〈心とは何か〉

心とは何だろう。自分の心なのだから自分で制御できると思えなくもないが現実は何もできていないことに気づく。
心はわかっているようでわかっていない。心について詳しく記録されたのは原始仏教が始めではないだろうか。
仏陀の哲学では、心についてこう述べている。中村元らは、著書「バウッダ.仏教.」(小学館 119頁)の中で、「こころは変動しやすく、守りがたく、制御しがたい。見きわめることも、とらえることもむずかしく、微妙であり、軽率に浮足だち、欲情に応じて、「こころ」は揺れ動く。
「こころ」は、しばしば汚れ、濁り、押しひしがれ、ふさぐ。
安定しないばかりか、怨み、怒り、憎み、おびえ、そねみ、そしり、争い、怠け、貪り、迷い、とらわれなどは、すべて「こころ」にあり、羞らいなく、恥そのものを知らず、過ちをかくし、ものおしみ、頑迷、疑い、不和、怠惰、陰鬱、へつらい、欺き、おごり、悔み、嫌悪、不信、傲慢、無知などは「こころ」に発する。」
という。
現代の私たちの「こころ」と昔の人の「こころ」は何も違わないのである。
「こころ」は今も昔も苦の種であり、それを克服してはいないのだ。「こころ」の制御は今も昔も私たちの課題でもある。
そして、中村らは、「「こころ」がそのようにあればあるほど、そのありようの現実の実態を凝視して、「こころ」はそれらを払拭する。それを果たすのが、同時にまた「こころ」そのものにほかならない。」と述べる。
「こころ」が「こころ」を制御しようともするのだ。それは自動的でもあり能動的な意思によってもなされる。心の働きは今も昔も変わりがないということを認めるとしたら、私たちが出来ることはやはり「こころ」で「心」を制御することしかない。しかし、そのことを学ぶことはない。
私は苦悩を取り除くことよりも「そこからどう考えるか」という方法をとる。そして、「何をするべきか」に移行する。
「どう考えるか」ということの答えが「心」の問題となっていることが多いからだ。
心は、人間の歴史から観て、誰も制御する方法に成功した者はいない。それは苦悩を取り除こうとする方法だからではないだろうか。
身体的な痛みは原因を取り除けばほとんどの痛みは取り除くことができる。
皮膚に棘が刺されば、薬を飲んだり塗ったりする方法ではなく、「棘を抜く」という方法が最も単純に、また明確に痛みを取り除くことができる。
痛みは生体の警告信号だといわれ何を警告しているかを探求しなければならないのだ。それを発見し取り除けば自然に痛みは消えていく。
長年の苦痛であっても痛みの原因を取り除けるなら自然に痛みは消えていく。
心もそれと同じような働きがあるのではないかというのが私の考えだ。苦悩を取り除くのではなく苦悩の原因を取り除くことに挑戦したいのである。

〈心には役割がある〉

確かに心は苦悩や煩悶の原因になるが、生きていくうえで不可欠なものでもある。
もし、不安がないとしたらどんな生き方になるだろうか。
何にでも手を出して挑戦もするが失敗もたくさんするだろう。そのせいで、生存を危うくするに違いない。
また、怒りがなければ攻撃を受けた時に抵抗もせずに攻撃を受け続け生存を危うくするだろう。
淋しさがないことで社交性が全く育たず繁殖の機会もなく孤立しても何ともないかもしれない。
感情自体は何かを変える力はないが、心は不快な感情から代償的に生存に有利な行動を生み出すこともある。
心は生存と繁殖のために使われることがわかる。ジャン.ドラクールは、「心とは表現を作り出し、これを生存と繁殖の手段として使用する能力にほかならない」と述べている。(ジャン.ドラクール「脳は心である」文庫クセジュ)
一般的に「生存と繁殖のため」と言うと「そんなことは考えていない」と抵抗するが、意志の力や何かの目的を意識して行動するわけではない。生存や繁殖を有利にしようとするのは本能的であり自動的でもある。そして、日常生活にある煩悶の原因がそれに関連していないということはない。
容姿へのこだわりやファッション、アクセサリー、車、時計、ブランドなど自分を誇ろうとする態度はなぜ生じるのかを考えれば理解できるのではないだろうか。価値ではなく利得を目的としているといえないだろうか。繁殖のための心の使い方なら恋愛の悩みなどは特徴的にそのことを示している。

〈心が目指すもの〉

心について述べようとすると宗教だと思われがちであるが、宗教が心の専売特許ではない。心にについてどう考えるかとは言わないのだ。
心について学ぶことは、宗教に近づくよりも、むしろそこから遠ざかる話題であり、何かに成れるどころか何にも成れない話でもある。
要するに心について学ぶと「特別な人」には成れないかもしれないが、「普通の人」には成れるはずだ。何者でもない者に成るということでもある。
そういうと「面白くない」と思われるだろう。しかし、普通の人に成ることは意外にも難しい。健常な人でもあるからだ。ほとんどの人は悩める人に成り普通にも届かないのだ。
私たちは何者でもない者でありごく普通だ。その中でよりよく生きることを目指す者なのである。
心が普通の状態とは健康的な状態でもある。幸福な状態でもある。悩める人とは違うのだ。
私たちは通常、食欲、排泄すらも意識せずともこなしている。健常だからだ。それが一旦不調に陥ると苦痛だと感じる。同じように、心にもそんな状態があるのではないかと考えている。

〈心は健常であること〉

心は、前向き思考やカラ元気、ハッタリでは解決できないものだ。それが本当に効果的であるなら心の制御にも役に立つかもしれないがそんな話はない。自己暗示はそういった使い方をするものではないのだ。
私は成功物語や成功の法則についての話が好きじゃない。
これまでに散々聞かされ学びもした。とっくの昔に卒業したが、何か新しい自分を発見したかといえば何もなく、何者にも成れない自分に出会っただけだった。
そして、成功を謳う人たちの成功に貢献しただけで、私の成功とは全く関係がないということを気づかせられたのだ。
私が成功について語るとすれば、健常な心から生み出される努力は、世間的には最も成功に近いということである。
成功するためのノウハウを求める野心的な心や過剰に期待する心は健常とはいえない。それよりも健常な心の状態から生まれる努力の成果が生み出すものが成功と言われるものに最も近いということだ。
商売でいえば、適正な品物を適正な値段で適正な顧客に提供するなら失敗するという確率は低いのである。
低品質の品物を高額な値段をつけて善良な人に売りつければ、一時的に儲かるかもしれないが成功するといえるだろうか。
そして、重要なのはそうやって商売をしようとする人の心の状態はどうなっているのかを想像してほしい。健常だろうか。心の使い方は健常であることが重要なのである。

【心の苦悩】

〈人間の条件〉

人間はコミュニケーションをとって生きていく生き物であり、その条件の中で自分が何をするべきかを問われている生き物でもある。上になるとか下になるとかを嫌う生き物でもある。
そういった条件の中で、他人を犠牲にして自分の利益を最大限にしようとする行為は時間の経過と共に劣化していく。
人間は騙すことについては寛容になるが、騙されることや出し抜かれることには強い反発を覚えるものだ。
心の力は、こういった本能的で自動的な心理傾向を制御するためにあると考えられる。それはおそらくよりよく生きるための健常な心の使い方だと思っている。
「アイツを傷つけたい」という衝動に対して、「やめろ」という心の声は、それをやってはいけないという理由をいくつも挙げて制御する。
反対に、何の恨みもない人に対して「アイツを傷つけろ」とあなたの心の声が命令することがあるだろうか。
心はいつも本能的な衝動に対して制御しようとする。それができないのは病的であると考えることができる。
この制御しようとする力こそが「心の力」であると私は考えている。
そして、その心の力は、生まれつきの力もあるが後天的な努力によって鍛えることができるのである。凡人であっても努力することでこれまでとは違う自分に成ることができるのだ。かといって優劣とは無関係だ。

〈苦悩の原因は期待と思い込み〉

私たちが日常で出会う苦悩は、身体的な苦痛とは全く違うものだが、かといって快適な気分でもない。不満なのだ。
中村元らは著書(「バウッダ」120頁)の中で、
「「苦」(ドゥッカ、ドゥフカ)とは、単なる身体的もしくは生理的な苦痛ではなく、日常的な不安または苦悩でもない。」と述べ「自己の欲するままにならぬこと」「思いどおりにならないこと」と解釈される。
そう、私たちの不満はこの「自己の欲するままにならぬこと」「思いどおりにならないこと」で苦しむのである。
仏教というと、これまで言われてきたような欲望があるから苦しみが生まれるという話は真実ではない。
私たちに生まれる「苦」は期待と思い込みから生まれるのである。
ありもしない出来事をあるのではないかと期待し、みんなこうしているなら自分もそうなるといった思い込みが現実化しないことに苦しむのである。
大人になれば誰か良い人と出会って恋に落ち、そして、結婚をして子供が産まれる。
子供たちはすくすくと育ち、家庭は明るく親を大切にして育っていく。
やがて、そんな子供たちは結婚して孫が産まれる。明るい笑い声につつまれながら老いていき、たくさんの家族に見守られながらこの世を去っていく。
これが人間の真の人生だと言える人はいない。そんな雛形に振り回されている人は多い。現実はそれとは全く別の人生を歩むものだ。
好きな人ができたのに恋は成就せず、好きでもない人と結婚し、ケンカは絶えず、子供は言うことを聞かない。「誰に似たんだろう」と思いながら他人の子供の自慢話を聞かされる。
「何で自分はこんな目にあうのだろう」と人生を恨んだりもする。
また、好きな人と結婚したのに、子供ができずに「子供さんはまだ?」と訊かれうまく答えられず「うちの子供はね」と聞きたくもない話を聞かされる。
さんざん昔一緒に遊んで仲が良かった友達から「ご飯行こうよ」と誘われたので行ってみると、「今度、結婚するんだ」と嬉しそうに話す。
「彼氏できた?」と不躾に聞いてくる。「いない」というと「私は勝ち組になった」と得意そうな顔で話す。
昔、三十歳過ぎた頃に、「私ら子供もいらんし結婚もいらんよな」と酔っ払って言う友達を思い出している。
今じゃ「ママ友がね」と言いながら散々自慢話を聞かされて、「何しにここに来たんだろ」と思いながら、「コイツと会うことはもうないな」と連絡先から名前を削除する。
思いどおりにならないことが現実ではあるが、現実は現実のままである。
現実からかけ離れた期待や、現実にはない世界があるように思い込んでいたことが苦悩を生むことがわかる。
期待が大きいほど裏切られた時の苦悩も大きく、思い込みが現実からずれればずれるほど苦悩は大きいものだ。
私はそういった期待と思い込みから解放され現実に近づくことで苦悩からも解放される人たちを観てきた。それは学ばなければ現実とズレたまま生きることになる。

〈ストレスは煩悶である〉

私がここで書きたいことは日常で出会う心の煩悶をどう取り扱うかについてのことである。皆がよく言う「ストレス」や「苦悩」のほとんどは「煩悶」と呼ぶ方がより正しい。
私たちが知っておかなからはならないのは、煩悶というストレスについてだ。

〈心は型にはまらない〉

生きる上でうまくいかないとき、心や人格を病的に類型にはめ込もうとする傾向にあるように感じられる。
「⚪︎⚪︎障害」などは一つの例だが、それは誰にでもありがちな傾向であることが多い。
性格的な特徴を述べるともっともらしく思えるが誰にでもある心理傾向でもある。
占い師が「あなたの性格は、普段はケチなのにいざとなったら思い切ってお金を使うタイプの人でしょ?」と言うと「確かにそうだ」と思えるが、その反対の「普段はお金をばらまくが、いざとなったらケチになるでしょ?」といった人に出会うことがあるだろうか。
誰にでもある心理傾向は心の力で制御することは可能だ。うまくいかないとき、「だから自分はこうなのだ」という結論を簡単に出すには早すぎるのだ。このことは知っておいてほしい。

〈心は変わるものだ〉

心は環境に応じて変化し続けていることは事実だ。日々、私たちの心は快適な心の状態に振り回されることはほとんどないが、不快な心に振り回さられることならいくらでもある。
心には、私たちが日常で感じる苦悩とは別に「煩悶」というのがある。苦悩とは似ているが「煩わしいこと」といった些細なことに振り回されるものだ。それを「ストレスがたまった」と言いながら解決しないまま憂さ晴らしをし病気に陥っていく。
事実、私たちは苦悩よりも煩悶に振り回さられる。些細な煩悶が心に多くを占めると苦悩に変化することはある。
そういった煩悶は、期待や思い込みによって生まれることがほとんどではないだろうか。うまくいくと思っていたことが、うまくいかなかった時の経験を思い出してもらうとわかりやすい。
試験で合格していると思っていたのに不合格。評価されていると思っていたのに低評価。相手も好きだと思っていたのに勘違い。
現実は期待を裏切るものだ。そもそも人間は自分の評価を高く見積もるものだ。その思い込みも現実が打ち砕く。
親の庇護のもとに生活をおくる学生時代の自分と社会に出てから様々な年齢の人たちの中で過ごす自分は同じ自分ではないはずだ。
必死に「自分軸が…」と言おうとも環境に順応していくうちにそれも消えていく。
思い込みや期待は現実を歪めてとらえていることが多い。
「夢は諦めなければ必ず叶う」という言葉の期待は、「無理だと思ったら早々に撤退する」という言葉で打ち砕かれ、成功した者だけしか言えない言葉だと気づくのだ。
そう言うと「夢がないな」と返ってくるが、私が言いたいのは「夢」と「現実」を分けることが心には大切だということだ。それらを混同することは煩悶だけでなく苦悩をも生むのである。
「いや、宝くじは買わなければ当たらない」と言うかもしれないが、当たるのはあなたではない。
宝くじが当たるまで買い続ける人生を否定しようとは思わないが、健康的な心の状態とは別の人生を生きることになるにちがいない。
期待や思い込みによって生きようとする心理傾向は誰にでもある。自動的で本能的な心理だといってもいい。それを現実的にとらえようとするには能動的な意志がいる。それが心の力である。
苦悩や煩悶は心理傾向に任せていては解決できないものだ。
それらを乗り越える心の力を磨いてうまく生きてほしい。それは健常や心の使い方であり、それに従った努力の方が「夢を諦めない」よりも成功に近づくはずだ。

〈心は満足を求めている〉

心はいつも変化する。飽きもせずに繰り返すことは生存にとって良くないこともある。私たちの生活の中にもある。
何かを向上させたいと思った時、間違ったやり方を飽きもせずに繰り返すことは向上を妨げるかもしれない。
そんな時、不満という心の状態は現状を変えようとする。
どんな人と付き合ってみても、いつしか必ず不満が芽生えて最初の印象を変えてしまうことは誰もが経験する。
気に入った仕事を見つけたのに、しばらくすると不満が生まれる。なぜだろう。
不満は私たちを何かに向けては働かそうとするようにも思える。
人工知能の研究者であるマーヴィンミンスキーは著書「心の社会」の中で、
「自分で学習するどんな機能も、自分を防護するための、飽きるというメカニズムをもつ必要がある。なぜなら、そういうメカニズムがないと、学習可能な機械であっても同じ行動をいつまでも繰り返してしまう可能性があるからである。
幸いにも私たちには、あまりに多くの時間を浪費しないですむようなメカニズムが備えられている。また幸いにも、こうしたメカニズムのはたらきは抑制しにくくなっている。」
としている。
私たちの心は、心の働くままに任せていても何とかなるようになっているようだ。しかし、自らの心を制御しようとすると途端にうまくいかなくなる。
飽きてしまう心のせいで大切なことを放棄したり、継続が必要なのにやめてしまうことも多い。
人間関係ですら最初に出会った頃とは違う印象を抱き始め、好きだった人が嫌いになることもある。それらを制御するには意外にも労力が要る。
「継続は力なり」と言うと、誰もが「そうだ」と賛同してくれるのに継続することは誰でも難しい。心は飽きてしまうからだ。
そういった心の働きが継続の難しさを生むのである。そういったことに心は不満を抱くこともある。
「何でだろう」という疑問は現状への不満から思考が始まる。継続できない自分に不満があると「何で続かないんだ」という疑問の答えを求めようとし、継続することを身につけることで満足して思考を止める。
哲学者のチャールズ.S.パースは「思考は不満から始まり満足で終わる」としている。私たちの心にはそんな働きがあるのだ。

【考えることについて】

〈考えることと思うことは違う〉


私たちが「考える」と思っていることのほとんどは「思っている」ということに置き換えられる。思っていることは「満足」にまで到達することはない。
雨が降りそうだから嫌だなと思ったとしても満足のいく解決には至らない。
雨が降りそうだから傘を持って行こうと考えるのなら、「傘を持っていく」という答えによって、雨が降ることへの不満を解決することで理解できると思う。
ここでは難しいことを言いたいのではなくて、日常にある些細なことに私たちは振り回され、それを「煩悶」としてとらえているが、実は、考えているのではなく思っているのだということを知っておきたいのだ。
思考は不満から始まるが、満足で終わらなければならない。不満のままだと「苦悩」となることもあるからだ。
私は心についての理解に不満があり、それを満足で終わらせたいと思っている。
満足した思考は同じ課題で苦しむことはないのだ。雨が降りそうな時は傘を持って行くという満足な結論はもう出たのだ。
考えることは思うこととは違う。考えることは意外にも難しいのだ。適当に考えていては満足に到達することは容易くない。
たとえば、心には推理する力があるが、それらを分類すると帰納的推論、演繹的推論、仮説的推論の三つがある。これらについて理解して実践しようとするには相応の思考力を使う。「面倒くさい」と放棄する人も多いが、それらを実践に使うと何が必要で何が必要でないかがわかり、分類されているが、現実はそれらの推論を何度も何度も繰り返していると、分類されているのではなく相互作用によって結論に向かっていることに気づく。それらを理解しようとすることが心の力である。それはよりよく生きることへ貢献するのは間違いない。

〈探究しようとする心〉

心の力はテクニックではなく探究しようとする力にも関連している。
思考は不満から始まって満足で終わるというのは真実だが、満足に向けて思考していくには心の力が必須だ。
山の頂上に立つには体力も必要だが「頂上に立つ」という心の力が必須なのと似ている。
私は心の使い方がジャン.ドラクールのいうような「生存と繁殖のため」に使うことを認めるが、生存に積極的でない心の使い方に対して別の使い方があるのではないかと考えている。
また、繁殖期を過ぎてからの心の使い方は、心の力によって変化させることが可能だと思っている。それは、ドラクールの意見に不満があるからだ。
動物的で自動的な心の使い方があるのは確かだが、人間的な能動的な意思による心の世界観もあるのではないかと考えるのである。
心の力は心の世界を拡張しようとしているように感じる。現状に満足できない自動的な心の働きは、何としても人間的な心の使い方を獲得しようとしているのではないかと思えるのだ。
リチャード.ドーキンスの利己的遺伝子の意図というのは、いろんな人間の行動をうまく説明できるが、そういったことを知るよりも、利己的遺伝子の意図を覆すことの方が人間にとって重要なのではないかと思うのだ。
自動的に働く本能的とも思える心を乗り越えることが心の力にはあるのではないだろうか。
たとえば、生存や繁殖を心から取り除いたとすれば、私たちは何をどう考えるだろうか。そして、どんな生き方をするだろうか。その答えを見つけるのは心の力だ。
その答えは証明できるものではなく「その信念が何に適しているかを示すにとどまる」といったウィリアム.ジェイムズやチャールズ.パースの意見に従うものだ。
優劣や生死などのように二項対立によって私たちは正否を比較するが、なぜそうするのかは利己的遺伝子の意図によるものだろう。

〈理性と本能〉

誰にでもそれぞれの生き方がある。それは生存と繁殖を有利にするための心の使い方による世界観だといってもいい。そして、人間は理性に従って生きるよりも本能に従って生きる方が簡単だ。
多くの人がそうしているから満足なのかと思っていると、信念や価値のことを言い出す。しかし、信念や価値に従って生きることが生存や繁殖を有利にするとはいえないのに不思議だ。
信念の獲得は生きることを容易くするかもしれないが有利になるとは限らないのだ。それにも関わらず理性に従って生きようとする人もいる。この心の使い方が利己的遺伝子の意図を覆し、心の使い方を生存と繁殖から自由にさせるかもしれない。
心の力は最終的にここらあたりをゴールにしているのではないだろうか。

〈心の力の使い方〉

心の力はうまく生きていくために使うものだ。それは生存や繁殖を有利にするために使われる心の使い方以上のものだ。
ショーペン.ハウアーは「若い時は直観に頼り、老齢になってくると思考に頼るようになる」といった。生存や繁殖を超えた思考が必要なのではないだろうかと私は考えるのだ。
苦悩や煩悶は私たちがうまく生きていくことの邪魔をする。満足よりも不満の方に意識が向いてしまうのはなぜだろう。
マーヴィン.ミンスキーは、
「私たちが《意識》と呼んでいるものに関係した特別のエージェンシーたちは、主として、他の機能がうまくはたらかなくなりだしたときにはたらき始める。
だから私たちは、余計なことをせずにきちんと動く複雑なプロセスよりも、うまく動かない単純なプロセスの方に気がつくことが多い。」(心の社会 26頁)
と述べている。
このことから私たちは何がいえるだろうか。
きちんと動くプロセスは問題がないので心を向けることがない。
たとえば、健康であることは、健康であることに問題がないので意識することはない。不調や不健康になってから健康を意識することと似ている。
うまくいかないプロセスというのは「不満」や「煩悶」を指しているのではないだろうか。
それなら不満や煩悶の源は何なのかを知ることで、うまくいかないプロセスをきちんと動くようにすればいいのではないかと私は考えるのだ。

〈心の力をどう活かすか〉

心理学や哲学は心について探究する学問であるが、実践となるとうまく使えないことが多い。
心理学は心理傾向を示してくれるが、どう扱うかとなると簡単ではない。あくまでも心理傾向なのだ。
哲学は思考するという働きを促してくれるが、一般的にいわれる哲学の多くは「⚪︎⚪︎がこう言った」「⚪︎⚪︎哲学ではね」といった記憶に頼った話が多い。心の力ではなく記憶の力ではどうすることもできないことも多い。
哲学者のゲルハルト.エルンストは「哲学は生きていくことにどう取り組むかという学問だ」と哲学についてこう述べている。
悪くない話しだが、かといって、哲学が日常生活をどううまく生きていくかの答えはない。
哲学が心の働きの一面を表していることを認めるとしても、うまく生きていく答えを導き出すのとは違う働きをしているように思えるのだ。
哲学は、ものごとを正しく考えようとする態度は良いのだが、どうするべきかについては答えてくれない。
心の力は、暫定的な正しさを求めるのではなく、うまく生きていくために使うものだ。それは生存や繁殖を有利にするために使われる心の使い方以上のものであり、それをコントロールしようとするのが苦悩や煩悶ではないかと思うのだ。
私は「考えることを考える」ことが哲学の本筋ではないかと考えている。あくまで「考えること」を目的とするもので答えを記憶することではないと考えている。

【ストレスについて】

〈心の苦悩、煩悶について〉

私たちが日々の生活で感じるのは煩悶であり、もう少し深刻な悩みになるのは苦悩と呼ばれる。
ラーフラは著書「仏陀の説いたこと」の中で、仏教の中の「ドゥッガ(苦悩)」は単に苦痛のことを指すのではなく煩悶も含めた状態のことをいう。
中村元もドゥッガ(ドゥッカ、ドゥフカ)とは、「単なる身体的もしくは生理的な苦痛ではなく、日常的な不安または苦悩でもない。」と述べ、「自己の欲するままにならぬこと」「思いどおりにならないこと」と解釈されると述べている。(欲が苦を生む話とは違うことを知っておきたい。)
そういったことなら私たちの日常でいくらでもあるが、それらについて学ぶことはほとんどない。
日常で生じる煩悶は、仏陀の話の文脈からすれば期待と思い込みから生まれると解釈することができる。
仏陀の述べたことを「生きる」ということに知恵として組み込むとしたら期待や思い込みをどう制御するかが問われるように思われる。
生きていくためには、やりたいことだけでなくやりたくないこともやらなくてはならない。
好きな人とだけ付き合っていれば気楽だが、嫌いな人とも付き合わなくてはならないことが日常生活にはある。そのことを心理学的な解釈が可能だとしても解決に至らないのはよく知られている。

〈ストレスが病気を引き起こす条件〉

私たちが社会生活で出会うストレスにどう対処しているだろうか。どんな条件がストレスになって不調に陥るのかを知っておくといい。
ホーカン.ヨハンソンは著書である「ストレスと筋疼痛障害」の中で、職場における痛みとストレスの原因として、精神的、心理社会的要因について述べている。それは、
⚪︎不快あるいは危険な物理的作業条件で、少しの不注意でも深刻な結果を招く状況を伴うもの。
⚪︎主観的に知覚される過大な作業負荷
⚪︎技能の低活用:個人の活動あるいは資質を有効に活用する機会の欠如。
⚪︎決定裁量権や自立性の欠如:単調な作業
⚪︎社会的支援の欠如や同僚、上司との良好な関係の欠如。
⚪︎正当な評価の欠如:良い業績を上げたことに対して、尊敬、給料、昇進等の面で正当に評価されなかったり、報いられたりしないこと。
⚪︎仕事上の要求やスケジュールと家庭からの要求がうまく調和しないこと。
⚪︎偏見や差別:年齢、性別とそれによるひいきす、人種、民族、宗教などによる偏見や差別にあうこと。
⚪︎ハラスメント:暴力、脅迫、いじめ。
⚪︎仕事要求度ーコントロールモデル:高度な心理的仕事要求度(たとえば時間的切迫)と職務上の決定裁量権の低さのコンビネーション。
⚪︎要求度ー能力モデル:外部からの要求度とそれらに対応する個人的問題解決能力との不均衡。
⚪︎努力ー報酬不均衡モデル:努力と報酬との間の不均衡
(ホーカン.ヨハンソン「ストレスと筋疼痛障害」名古屋大学出版会.2010.P16)

少なからず私たちはこういった条件の中で暮らしている。それに対してうまく対処するかどうかは難しい。
しかし、それらの負荷が長期にわたるとしたら、また、それを長く対処できないとしたら病的な状態に陥ることを予想することができる。
これらの条件から「どう考えるか」は必ず問われる時がくる。

〈ストレスと抑うつ気分〉

ランドルフ.ネシーは、抑うつ気分に陥るのは「屈辱と泥沼化」を挙げている。
容易に解決できない環境が長引くことは心の健常さを失うものだ。
私は同じ意味で「出口の見えない状態」によって抑うつ気分だけでなく生きる気力を削がれていき、心の不調を逆転させることが難しくなることがわかっている。
煩悶を引き起こす情動である喜怒哀楽を制御すれば何とかなるというものではない。明るい将来像や期待がなければ気力を引き上げることは難しいのである。
心は自身をよりよく生きるために使おうともする。それが実感できると自信が生じ勇気が湧き出る。心配、不安、恐怖が払拭され新しい成功体験を身につけることで新しい自分に出会うのである。
進化心理学的な解釈をすれば、喜怒哀楽という情動は生きるうえで不可欠な心の働きである。それらの働きによって生存や繁殖を優位にする面もあるからだ。
先日、社交的な男性といろんな話をした。その中で彼は「ぼくはとても淋しがり屋だ」と言った。
淋しいのを避けるために社交術を身につけて独りを避けるようにしているのだという。
それが功を奏して、事実、たくさんの友達がいて賑やかに暮らしている。
反対に「女は自立しなくちゃ」という四十代の女性もいる。その強い自立心が他人を寄せ付けず社交性もなく、孤独、あるいは孤立している。他人に助けを求めることがないので苦労が絶えない。
大きく観ると、それは生存を危うくしないでもない。
私たちは心の使い方について学ぶことはないのだ。
学生時代にありがちな同年代への関心や意識は、社会人になると、幅広い年齢層に対応し、経験や知識、地位などにも対応する環境に心は変わっていく。当然ながらほとんどの人がうまく学習しながら適応していくだろう。
しかし、そうならない人もいる。そんな時に必要なのは「どう考えるか」「どうするべきか」という思考ではないだろうか。それは心の力によって生まれる意志でもある。

〈煩悶はなぜ生まれるのだろう〉

私たちは日頃、あーでもないこーでもないと考えない日はない。仕事をしなければしないで煩悶は生まれ、仕事をすればしたで人間関係の煩悶から逃れることはない。健康不安に振り回されたり家族の問題に巻き込まれることもある。自分自身が周囲の煩悶の源にもなり得る。
いつも思い通りにならずに満足のいく生活をおくれないように思えて仕方がないものだ。
そして、そのうちこれまで出来ていたことが出来なくなることで老いを突きつけられるものだ。それがまた煩悶ともなる。
これまでにも誰にでもあった出来事が自身に生じると「こんなことになるとは思わなかった…」と言いながら強い煩悶を苦悩と感じるようになる。他人からみればわかりきったことに悩むのが私たちである。
大昔に仏陀は生老病死に苦しむことを述べていたにも関わらず、現代に至っても何も克服できていないのが現実だ。
なぜモヤモヤと悩むのだろう。そんなことを考えることはないだろうか。
私は人間の持つ「推論」という心の働きが悩みを生むと考えている。
未来や現状を推理しようとする働きは自動的でもあり能動的な意思によっても生じる。それは、一般的には「期待と思い込み」となって心を動かしている、。

〈推論する心〉

私は苦悩の原因が期待と思い込みにあると観ているが、それらの原因となるのが「推論」である。
「〇〇だから⚪︎⚪︎である」とは、日常でよくある思考法だが「思い込み」であることに気づく。
「これまでうまくいっていたからこれからもうまくいく」といった思考法や「うまくいっているのはこれだからだ」といった断定もよくやる。しかし、これらの結論は正しいのだろうか。
居酒屋で一杯呑みながら「オレから言わせるとな!」「ワタシから言わせるとね!」とよく聞く台詞は真実だろうか。
たまたまうまくいった自分の成功体験物語は、ほぼ普遍的な話ではない。再現性があるとも思えない話ばかりだ。
昨日釣れた魚が今日も同じ場所で釣れるとは限らない。パチンコに行く道中の信号が全てうまいこと青信号だからといってパチンコで勝つとは限らないのだ。
こういった推論は誰でもよくやるが、うまくいかないことがほとんどなのに誰もがやってしまうものだ。
推論には帰納的推論と演繹的推論があるが、どちらにも欠点があるので可謬的な立場に立つべきである。
帰納的推論は、昨日ここで魚が釣れた、今日も釣れた、だから明日も釣れるといった話だ。明日魚が釣れなければ「ここで釣れる」という話は偽となる。
演繹的推論は、ここには魚がいる、だから魚が釣れる、だからここには魚がいる、といった話であるが「そのままやん」という印象から広がることはない。わかりきった話だからだ。
こういった推論は本能的だと言われる。自動的であるということでもある。
職場のあの人はきっとこんな性格に違いない。だってあんなことをする人は必ずそうだ、といった印象から推理していくものだ。
「今日、仲のいいあの人に挨拶したのに無視された、だから、きっと私は嫌われている」といった推論もある。しかし、これらの話が真実とは限らないのだ。
私たちは日常の出来事を推理せずにいられないのである。それが間違っていようと間違っていないと関係なく推論している。
しかしその推論は訓練されたものではなく直感である。また、間違っていても修正しようとする努力をしない。間違いやすい人はいつも間違えるものだ。
たとえば、車を運転していると、後方の車が車間を詰めてきたらあなたは何を考えるだろうか。
最もわかりやすいのは「ケンカ売ってるのか」という推論だろう。おそらく正しい。しかし、それが真実かどうかはわからない。
私にもその経験があるが、サービスエリアに入ると、後方の車がついてきたので、停車してその車から運転手が降りてくるのを待ってみた。
しかし、運転手は私の顔を見ることもなくトイレに駆け込んだ。
車間が詰まったのはトイレに行きたかっただけだったようだ。
推論は自分の生存を危うくするような出来事をいち早く知るためにあるようにも思える。
ミンスキーは「うまくいくプロセスよりもうまくいかないプロセスに注目する」という。そう、私たちは順調に物事が進んでいる際には「なんでこんなにうまくいくのだろう」と推論することはほとんどない。
いつも「なんでうまくいかないのだろう」「なんでこうなるのだろう」といったことに関心を寄せる。それは私たちの心が生存を容易くするために使われるということと無関係ではないはずだ。
とするなら、私たちが自動的にやってしまう本能的な推論をうまく使うことで苦悩や煩悶を減らすことができるのではないかと考えるのだ。
現実を把握する心の力を少し高めることでこれまでとは違う心の世界が生まれるかもしれないのだ。この推論は間違っていないだろうか。

〈推論に振り回されないようにする〉

正しく推論すれば、よりよく生きるのに魔法の杖を手に入れたようなものだ。しかし、現実は間違ってばかりいる。
それは思い込みや期待によって現実との違いに苦しむといってもいい。どうすることもできないのかといえばそうでもない。
私たちは自然に、自動的に推論してしまう。それを削除することは不可能だと考えておいた方がいい。それなら推論を推論するという癖をつけることも可能なはずだ。自分の推論の答えは間違っているのではないかという推論を身につけるのだ。そうすれば謙虚な心が生まれ、他人からも「あの人は断定しない人」「話を聞いてくれる人」といった評判も生まれてよりよく生きることにも役に立つはずだ。
推論は間違うことを前提にして何度も推論し、さらにたくさん推論し、間違っていればすぐに変更するという習慣を身につけることが重要なのではないだろうか。
あなたの知っているあの頑固な人は推論が出来ないはずた。
間違っているのにそれを認めないあなたの知っているあの人は推論がいつも間違うことを知らないでいるはずだ。
いつも「うまくいかない」と嘆くあの人は推論の数が少なすぎるのではないかということに気づくはずだ。これも推論である。
推論するという引き出しの数を増やすことは心の柔軟性を身につけることでもある。これは脳の可塑性という機能を高めることでもあるのだ。
推論する力を鍛えることで、失敗してもすぐ立ち直れる、失敗しても我慢して耐えられる心の力も身につけることが出来るはずだ。
メンタルが壊れてくると推論する力が限定され、物事を極端に悪くとらえる傾向がある。
「だから自分はダメだ」という「だから」には間違いがたくさんあるものだ。
推論を正しく働かせることはメンタルを健康に保ちよりよく生きることにも貢献するのではないかと私は推論するのである。

〈能動的な意思と本能的な心〉

心がいつもあーでもないこーでもないと考えているわけではない。
思うことはいつも思うが、考えることは少し意思の力を必要とする。思うことと考えることは違うということは違うという知識は大切だ。
推論は自動的でもあり本能的でもある。学習された働きではないということだ。生きるための情報に対して反応しているのだ。
先述したように車の運転中に後方の車が接近してきた時、「友好的な人だ」と想像する人はいない。
敵と判断することは妥当だが、それが本当にそうだとは限らない。心が生存のために使われるということと無関係ではないはずだ。
本能的に働く推論の答えを「正しい」と断言するには
少し意思の力を必要とすることがわかる。

心の力の実践編】

〈人間の大部分は何者でもない〉

私がこれまで述べてきたことは、何者でもない者が普段の生活で繰り広げられる煩悶についてである。
何者でもない者が人間のほとんどなのに、つい大物の話に引っ張られさらに煩悶を増やしてしまう。
何者にも成れないのに何者かに成れるように思わされたりもするがそれはビジネスだ。
現実は何者にも成れないのだ。そんな中で私たちにできることもある。「どう考えるか」ということだ。それは何者かに成れるノウハウではないがよりよく生きるための思考だ。
チャールズ.パースやウィリアム.ジェイムズは「一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい」(プラグマティズム 岩波文庫 39頁)
という。
多くの人が好む「優れている」とか「劣っている」とかの話ではなく「何に適している」ということが何者でもない者には重要な話なのだ。
私たちの生き方が何者かに成れる方法を示すことはできないとしても、「何に適しているか」を示すことならできるかもしれないのである。
そのことが真実なら、私たちの生き方自体が自身の自尊心を維持することに貢献するのではないだろうか。
しかし、そういうと「何に適しているか」なんて興味ない」と言う人もいるだろう。
何者でもない者に必要な話は、「何かに成れる話」ではなく、何者でもない者がどううまく生き、どううまく死んでいくかの話ではないだろうか。

〈心の力は善なる意志から生まれる〉

私たちは日頃どう考えていれば心は揺れ動くことなく、しかも自分自身の自尊心を保ちよりよく生きていけるのだろうか。
哲学者カントは、
「善なる意志は、それが引き起こし成し遂げることによってでなく、またそれが或るめざされた目的の達成に有用であることによってでもなく、ただ、その意志作用のみによって善なのである。」(カント プロレゴーメナ、人倫の形而上学の基礎づけ 中高クラシックス 241頁)
という。
自分の信じる意思は心の力でもある。それが善であると信じるなら何かのためではなく、その心に従えばいいのである。
すぐに「何のため」と問いたがる私たちの功利的な心はよりよく生きることを邪魔をする。功利的な心は人間的な心ではなく動物的な心でもある。
善なる意志は人間的な心ではあるが、何者かに成ることはできないだろう。しかし、何に適しているかを示すことができるはずだ。
何者にも成れないとしても、私たちは私たちの人間的な意志の力で生きていかなくてはならない。
「特に運命に恵まれなかったり、冷淡な自然がわずかしか必要物を与えてくれなかったりしたために、この善なる意志がその意図を実現する能力を全く欠いているとしても、したがってこの意思がその最大の努力にもかかわらず何事も成し遂げず、残るものはただ善なる意思である。」(カント 人倫の形而上学の基礎づけ 中公クラシックス 242頁)
ほとんどの人は運もなく能力もなく、努力しても報われることもなく生きていく環境の中にいる。そういった環境を自覚して生きることが嫌になることもあるだろう。投げやりな生き方になることもあるはずだ。生きているのか死んでいるのかわからない態度で生きている人もいる。
私たちは、人間的ではない心の使い方で損得勘定に振り回されて生きる方法を選択しがちだが、そのせいで生きることに疲れることもある。
カントの話は、別の生き方がないわけではないことを示してくれる。お得感はないかもしれないが、これまでとは別の生き方をするべきではないかと思えなくもない。
そういった別の生き方が何に適しているかは誰もやったことがないはずだ。

〈心の自由度〉

「なるようにしかならない」と諦めきった表情で呟く人は多い。
人間は生きている途中で生き方が変わることはできないのだろうか。私は変われる可能性があるのではないかとみている。
リチャード.ドーキンスは、著書である「延長された表現型」(33頁 1987年 紀伊國屋書店)の中で、
「人間の神経系が実際には決定論を忘れてしまえるくらいに、そしてあたかも自由意志をもっているかのようにふるまえるくらいに複雑である」と述べている。
もしこのことが本当なら、大それたことはできないとしても、私たちの望む程度の話なら心の力で何とかなるのではないだろうか。
「才能が…」「能力が…」と遺伝子のせいにしたがる決定論は、何者でもない私たちが使う程度の心の力にはほとんど影響しないはずだ。
私たちがやるべきことは何者かに成るわけではなく現状を変更したいだけだからだ。
そのことが「何に適しているか」を示すにとどまるとしても、よりよく生きることへ貢献できるのではないだろうか。一度考えてみてほしい。

〈人間関係への悩みを考える〉

調査によると会社内のストレスになるのは上司や社長ではなく同僚が七割だということらしい。
また、日常生活においても人間関係のストレスは消えることがない。
苦悩や煩悶のほとんどが人間関係に関わっているのなら解決するべきはそのことである。
そして、あなたは普段どうやってそれらの人間関係の煩悶を解決しているだろうか。自分をどうやって助けているかということだ。
嫌いな人や苦手な人を避けてばかりはいられないのが現実だ。避けなければならないのは手に負えない病気の人や残酷な人のことである。
それ以外の人とは何とかやりくりしながら付き合っていかなければならない。
しかし、その付き合う相手のほとんど全てが、私たちと同類である何者でもない人たちであることは忘れてはいけない。自分が考えている程度のことは他の人も同じように考えているはずだ。要するに同じ問題を抱えているということだ。

〈自尊心を考える〉

煩わしい人間関係に対処していく上で最も重要なのは自尊心ではないだろうか。
「人は人」と他人を突き放すことができるように思えるが難しい。
他人を意識しないで暮らすには動じない心がいる。それが自尊心ではないかと思うのだ。自尊心があればなんとか自分の心を保つことができるものだ。かといって、自尊心が一朝一夕に生まれるわけではない。
自尊心は「他人の干渉を排除しようとする心理、態度」といわれる。
自信は自尊心と似ているようでいて違う。自信には過去の成功体験や実績など他人からの評価によって生まれてくるものだ。
自信は人間関係の煩悶を解決する力はそれほどない。自信は、他人からの評価によって強化される。嫌われることもある。評価が下がれば煩悶は広がる。
自尊心は、他人の干渉を排除するにはこれまでにはない心の力を手に入れなければならない。私はそれが道徳哲学にあるのではないかと考えている。

〈道徳哲学と自尊心〉

よりよく生きるのに道徳哲学が必要だといっても、なにも良い人になれと言いたいのではなくて「その考え方や行動や態度が世の中の普遍的な法則となった時どんな社会になるだろうか」といった思考が必要なのではないかと言いたいのだ。
「自分は好きなように生きて他人など死のうと生きようと関係ない」といった他人を排除した考え方もあるだろう。
しかし、それが世の中の普遍的な法則になるとしたら自身も生きていけないだろう。
人間の心は面白おかしく生きるために使われるのではなく、生存や繁殖を有利にすることも含めて、よりよく生きるために使われているのではないだろうか。
そうだとしたら、自尊心を育むには、よりよく生きる考え方に従って生きることで、他人との距離をうまく保ち、さらに自分自身が生きやすくならなくてはならないのではないかと考えるのだ。そして、自分自身を生きやすくする考え方が、同時に他の人間をも生きやすくする考え方でなくてはならないのである。
道徳哲学には普遍的なものがある。厳密ではないという批判があるとしても普遍的に近づく考え方でもある。
何者でもない者が生きるにあたって、様々な軋轢や煩悶が生まれる。自己嫌悪や自己憐憫、自己批判など生きることを投げ出したくなる気持ちになることもあるだろう。
しかし、道徳哲学を身につけることは、他人からの批判や否定に出会っても道徳哲学に照らした自分の考え方は揺らぐことがない。生きていく道標にもなり得るのだ。
他人を排除したとしても、または他人から排除されたとしても自身の自尊心は保たれていくはずだ。そのためには先述した「善なる意志」についてもう一度考えてほしい。

〈道徳哲学はなぜ必要なのか〉

現在、道徳について学ぶ機会がほとんどないといわれる。私が道徳を身につけると心が落ち着くというと意外に思われるかもしれない。
人間はコミュニケーションをとって生きる生き物だと私は観ている。そうだとすると、人間同士のルールのようなものが必要となる。
人を殺してはいけないとか盗んではいけないというルールがなぜ必要なのかを想像すれば厳密な答えは導き出せないとしても、お互いがそのルールを守ることでうまく付き合っていけるように思えないだろうか。
また、人間はいつも迷うものである。そんな時、道徳に従うことで自分自身への落とし所が見つかることも多い。
「あなたのその行為が社会全体のルールになればどんな社会になるか」という問いに対する答えによっては安堵することもあるのではないだろうか。
自分の生きる指針は道徳によって支えられることもある。
私が道徳の必要性を説くのは、大それた「社会のために」というようなことではなくて、生きていくうえで人間として正しさを求めることで、心を安定させることにつながるのではないかと思うからだ。
たくさんの人間との関わりは避けて通ることはできない。そんな中で自分を保つことはかなり困難なことでもある。
道徳を難しく考えるのではなく、何かを支えにし、なおかつ、他人との距離も保たなくてはならない環境の中で「どうするべきか」の答えが道徳にあるように思うのだ。
哲学者カントの道徳哲学を紹介しておく。
◎「あなたの格率(意志作用の主観的原理)が普遍的法則となることを、あなたが同時にその格率によって意志しうる場合にのみその格率に従って行為する」
◎「あなたの人格の中にも他の全ての人の人格の中にもある人間性を、同時にあなたがいつも目的として用い、決して手段としてのみ用いない、というように行為する」
◎「意思がその格率によって自己自身を同じように普遍的立法者ともみなしうるような仕方で行為する」
自分の考え方が人間の法則になるかどうかという答えになるまで思考しなくてはならないということである。
私たちの生き方は、自分の「好み」によって決めるのではなく「人間の法則」にかなうかどうかによって決めなければならない。それが最も揺るがない心の状態なのだ。
これを完璧に守ることは出来ないにしても、守ろうとする態度は自分自身に恥じない生き方になると思う。
それは、誰からもケチをつけられないということにおいても心は強く安定するのではないだろうか。
「自分軸」や「積極思考」のようなカラ元気やハッタリではなく、自らの思考から生まれた普遍的な法則になるような答えによって、私たちは自らを支えるのではないだろうか。

〈脳の可塑性という働き〉

私たちは学ぶとなると意外に苦手である。「生まれつき能力がないんで…」「努力しても…」「頭が悪いので…」こういった発言をする人は多い。本当にそうなのだろうか。
私が言いたいのは、何かに成れるとか偉大な人になれとかではなく、心の力を磨いてよりよく生きる対処法を学んではどうかということだ。
そういったことについて、これまで学校でも誰からも学んだことがないはずだ。
脳に可塑性があるように心にも可塑性がある。変更可能だということだ。
リチャード.ドーキンスは、「脳は生存機械の日々の営みに携わっているばかりでなく、未来を予言し、それに従って行為する能力を手に入れている。脳は遺伝子の独裁に叛く力さえ備えている」(「利己的な遺伝子」124頁 2018 紀伊國屋書店 )とまでいう。
これまで自分の才能や能力だと思い込んでいたことは良くも悪くも本当に正しいのだろうか。
ドーキンスのいう「遺伝子に叛く力」を行使して、これまでの自分とは違う自分を体験することが可能だと私は考えている。
これまでの自分を振り返ってみて、他に何かできたのではないだろうかと考えることがあるはずだ。
そんな中で、これまで自分を乗り越えるために、それについて一度も真剣に考えたことはなかったことに気づかないだろうか。
これまでの心の使い方の多くは、生存や繁殖のために関連したことばかりである。
これまでに何かを目指していたが諦めて別の道へ行くことを経験したことがあるはずだ。それは考えることで脳の機能変化、すなわち脳の可塑性によって達成できたのだ。
新しいことを学ぶことは脳の可塑性を促すはずだ。心の力は、この脳の可塑性という力に依存している。それは遺伝子の独裁に叛く力を備えているかもしれないことを覚えておきたい。
私は脳の可塑性という働きを基礎に置いて心の力を養っていくと何とかなると思っている。

〈哲学で世界観を拡げる〉

私たちは損得を求めて行動することがほとんどかもしれない。
「何のために?」「それって何かいいことあるの?」こんな質問は山ほどある。
心理学と哲学者でもあるウィリアム.ジェイムズは「われわれは限りなく有用とも有害ともなりうる諸実在の世界に生きている。」と述べているが、損得勘定を追い求める心の使い方は、有用だと思い込んでいることが有害、もしくはその反対であることに気づかないものだ。それは私たちの心の基礎になる思考を持たないからでもある。
「真の思想を所有するということは、いついかなる場合でも、行為のための貴重な道具を所有していることだという事実である。」といったジェイムズの言葉に賛同する。
哲学が究極的に思考した結果だとしたら、哲学は損得勘定にはさほど貢献しないかもしれないが、よりよく生きることには貢献するかもしれない。それをどう使うかが重要なのだ。
さらにウィリアム.ジェイムズは、「絶対的に真なるものとは、将来の経験が決して変えることのないものを意味し、われわれの一時的な真理がことごとくいつかそれに向かって集中するにいたると想像されるあの理想的な消点である。」という。
私たちが求めるのは究極の答えだ。再現性があって間違いのない答えだ。
間違いを修正しながらよりよく生きるための答えを求めようとするのが人間なのではないだろうか。
しかし、現実はそのゴールに到達することは難しい。自分自身の心の落とし所を見つけなければならないのだ。
実は、私たちがあーでもないこーでもないと煩わしい自分に振り回されつつも、それらを回避しながら理想的な消点に向かって近づいていくと思えなくもない。
哲学者のチャールズ.パースが述べる「思考が不満から始まり満足で終わる」というのはこのことと無関係ではないだろう。
心が満足するまで心は働き続けるのだ。それらを探究する心の力で何者でもない者は、よりよい生き方を手に入れるのだ。

〈心は良くも悪くも変化する〉

私たちが普段の生活の中で心に留めておくべきことは、「われわれは今日は今日えられる真理によって生きねばならず、今日の真理も明日はこれを虚偽と呼ぶ心構えをしていなければならぬ」というジェイムズの言葉である。
煩悶や苦悩は「期待や思い込み」から生まれる。それらに振り回されないようにするためには、何事も「絶対視」せずに様子を見ることだ。
少し待てば答えが出るはずのものも、せっかちな判断によってつまらぬ煩悶に苦しむ羽目になる。
いつも私たちは何かを間違えている。今日の正しさが明日には間違いだと思い知らされることも珍しくはない。それなら、初めから間違うことを前提として思考を始めるべきなのだ。
時間の経過によって正しさは検証され、また、時間の経過によってとらえる感覚によって正しさが変化することもある。
好きだった人が嫌いになることは誰にでもある。永遠の愛が幻だったと気づくことは遅かれ早かれ誰もが経験するものだ。
絶対を強く求めようとする私たちの思考は、常に変更する用意をしておくべきではないだろうか。変更することが正しさであるともいえるのだ。

〈考え方が変わる時は不幸か病気〉

私たちはいつも自分自身の小さな成功体験から「自分は正しい」「自分は間違っていない」と断言しがちだ。それらの思い込みはほとんど間違っている。
たまたま狭い条件でうまくいったからといって心理とは成り得ないのだ。そのことがわかるのは「不幸か病気」を突きつけられた時だ。
「自分は健康でどこも悪くない」と断言する不摂生の塊のような人間は病気が発覚するやいやな「こんなことになるとは思わなかった」というセリフを吐く。
「自分は運がいいからスピード違反で捕まったことがない」とうそぶいていると免許停止になるほどの違反をしでかして落ち込む羽目になる。
不幸や病気を突きつけられるまで私たちは「自分は正しい」と思い込みがちであるがたまたまだ。
何者でもない者は謙虚に柔軟に自分を変更させることに努めることでうまく生きていけるはずだ。

〈生きる意味について考える〉

「生きる意味なんて…」「生きていても仕方がない」と思う人もいる。何者でもない者が思いがちな素朴な疑問でもある。
人間にとっての真理は生きることである。心が生存と繁殖のために使われるということが真実なら、生きる意味を問うことは、「生きたい」のだと考えることができる。
簡単に翻訳すると「どう生きるか」を問うているように思える。人間はどうやってでも生きたいのだ。
それなのに「死」という限界を示されることで、どうせ死ぬのだから生きていても仕方がない、生きる意味なんてないと思ってしまうのはわからなくもない。
しかし、ここでもう一度生きることについて整理しておきたい。
生きることは時間によって死に向かっている。しかし、その死がいつ訪れるかはわからないという条件の中にいる。
また、自殺や自決といった自由意志も与えられている。いつでも死に近づくことができる条件でもある。
そんな中で「どう考えるべきか」という問いの答えを求めてはどうだろうか。
心は生存と繁殖のために使われる。それは自動的でもあり能動的な意思によっても可能だ。
しかし、心の使い方は老いによって繁殖について使うことは減少していくものだ。生存のための「どう生きるか」が強く残るのである。
私たちに残された手は多くない。本能に従ってヤケクソに生きるという手もあるが、ここで道徳について学んでしまったからにはその手は使えない。
私は一つ良い手を提案しようと思う。それは「行けるところまでいく」という決意だ。
ヤケクソのようにも聞こえるが少し違う。ヤケクソよりも道徳的なのである。守るべきものを守りながら「行けるところまでいく」のだ。守るものは善なる意志から生まれた普遍的な法則そのものだ。
「死」に捕まるまでやり続けるといい。その生き方は人間の見本になるかもしれないのだ。人間としての自分の自尊心を守ることもできるはずだ。
そうしてみても生きていけないという決断を下すなら最後の手を使えばいいのではないかと思うのだ。

〈どう考えどう生きるべきなのか〉

「生きる意味とは」「なぜ生きなければならないのか」といった疑問の答えを求める人もいる。
もし、その疑問に対して真剣に取り組むのなら答えはないわけではない。条件は真剣に考えているかどうかである。安楽に暮らしたいという意味で問うなら私の述べる答えは意味を持たない。
「生きる意味」を問いたがる人は、自分自身に何か与えられた使命があるかのように思う人もいる。また、それがあるとして、そうだとするとあなたは何を考え何をするだろうか。おそらく大した答えはないだろう。
たとえば、永遠の命があるとしたら、あなたはどんなことを行い実践するだろうか。
ウィリアム.ジェイムズは、チャールズ.パースの言葉として「一つの思想を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定すればよい。」と述べている。
「適しているか」という言葉が重要なのである。人間は「優劣」を追い求める傾向にある。勝ち組や負け組といった一時的でしかない状況を極端な言い方で分ける者もいる。「人間万事塞翁が馬」という言い方もある。
何者でもない私たちが必死に追い求めるに相応しいのは、優劣ではなく「何に適しているか」ではないだろうか。
これには性差や年齢、能力、性質、勝ち負け、そういったものはいっさい関係がない。
現在の自分から生み出すものは「何に適しているか」を示せばいいだけなのだ。それを「生きる意味」といっても構わない。「何のために生きるの」の答えにしてもいい。
九割九分の人が細密な哲学の答えを求めているのではないし、その答えが私たちを何かにしてくれるわけでもないだろう。
それなら自分の生き方や考え方が「何に適しているか」を示そうとする努力は価値があるのではないかと思うのだ。
人間が健康的に生きていくうえでは自尊心は不可欠のように思える。自分を信頼できるかどうかは「優れているかどうか」を求めるならうまくいかない。
年齢による衰えについて考えるとわかるのではないかだろうか。
衰えは、「優れていた者がやがて劣っている」に変化する。そんな時、私たちの自信や自尊心は失われていくのだ。
しかし、何に適しているかを示すことは優劣とは関係なく、あなたの生きる条件の中で何に適しているかを示すことであり、言い換えると「どう生きるか」を示すことでもある。それは何かに成れるわけでもなく、優秀な者に成れるわけでもなく、単に「何に適しているか」を示すに過ぎないが、そのことに価値がないといえるだろうか。
そのことが自尊心を維持することと全く関連がないとはいえないのだ。
人間はどんなことをしてもうまく生きたいと願う者ではないだろうか。劣っていようと何であろうとうまく生きていきたいのだ。
では、あなたの今の環境、今の条件の中で「こうやって生きればいい」というものを示すことができるだろうか。
ないとしたら今すぐに取り組むことをお勧めする。おそらくこれまでの生き方とは別の生き方や考え方を示すことができるはずだ。良くいえばそれは、誰かの見本になるだろう。
同じ境遇に生きる人にとっては特に価値のある見本になるかもしれない。

〈あなたの問題は人間の問題である〉

ショーペンハウアーは、「人間の生活は、どんな形をとっても、どのみち同じ要素でできたもので、いずこも同じ生活であり、生活上の出来事や突発事件や運、不運はいかに多種多様であっても、同じ要素でできている。」といったことを述べている。
事実、人生の出来事は他人の人生と似ているかほぼ同じといってもいい。
しかし、人間の多くは、「自分は特別である」といった心理によって特別な出来事に見舞われたと思い込むものだ。
心の力を使うための基本は「自分と他人はほぼ同じ」という立場に立つことだ。
人間は二項対立によって他人との優劣を自動的に測ってしまうものだ。しかし、このことも自分と他人はほぼ同じだということを思わせられる。
他人と自分はほぼ同じだということを受け入れてみてはどうだろうか。
おそらく、これまでとは違う思考が生まれることがわかるはずだ。
私は仕事柄たくさんの人と接し、苦悩や痛み、煩悶など不快な感情について考えさせられてきた。そこからわかるのは、自分の問題は他人の問題であり、他人の問題は自分の問題でもあるということだ。
そして、そのことはそのまま人間の問題でもあるということだ。
私は、自分の問題を解決するということは人間の問題を解決するということでもあるということに気づいた。
私たちの心の力は人間の問題を解決することにも使われるのではないだろうか。
人間の問題はこれまでにもあったし、これからも存続するに違いない。答えはないのだ。
私たちがそれぞれ持ち合わせている信念のようなものは何かに成れるのではなく「何に適しているか」を示すことにしかならない。
人によっては物足りないかもしれないが、「何に適しているか」という問い自体が、他人との比較や優劣ではないということを知っておきたい。
よりよく生きるために心の力がそこへ向かっているように思うのだ。

〈生きるには考えることを考える〉

ショーペンハウアーは「若い時は直観に頼り、老齢になると思考に頼るようになる」という。確かにそうだ。
若い時期の勇気や大胆さは思考によるものではなく内分泌系の働きによるものだ。それが減少してくると弱気になり勇気がなくなり大胆さなど微塵もなくなる。
そこで私が薦めたいのは考えることを考えることだ。これまで述べてきたことはあえてはっきりとした答えは出さないでいる。「どう考えるか」が重要だからだ。
私の答えとあなたの答えが同じにはならないかもしれない。
たとえば、私の善なる意志とあなたの善なる意志は別のことが対象になるかもしれない。
自分の信念が示す「何に適しているか」は全く違うものを指すはずだ。
私たちはこれまであまりにも記憶力に依存した学びをやりすぎたように思う。
哲学では「〇〇はこう言った」「〇〇哲学ではね」といった知識自慢もあるという。「わたし優秀でしょ」といったアピールする人もいるらしい。
しかし、そんな人たちも何者でもない者なのだ。私たちが示すことができるのは「優劣」ではなく「何に適しているか」しかない。
それが役に立つかもしれないし全く役に立たないかもしれない。だからこそ私たち一人一人が見出す「善なる意志」に従って生きることをお勧めするのである。
何者でもない者が示す生き方は何者にも成れない者の生き方を示すにすぎないかもしれない。しかし、そこに私たち自身が見出した「善なる意志」を含むのなら価値のある生き方だったと胸を張れるはずだ。
カントによると「善なる意志は、人間が幸福であるに値するためにも、不可欠な条件をなしている」としている。

〈死について考える時〉

時には死にたくなることもあるだろう。「いつ死んでもいい」と言う人もいる。生きていることが面倒くさいと思えなくもない。しかし、人間は簡単には死ねない。
カントの道徳哲学では、
「死を願いながらも生命を維持し、しかもその際命を愛するのでなく、したがって心の傾向や恐れからでなく、義務にもとづいて生命を維持する場合、この場合にはこの人の格率(意志作用の主観的原理)は道徳的内容をもつ」
という。
このことと、ウィリアム.ジェイムズらのいう「思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい」という話と無関係ではない。
私たちは私たちの見出した生き方によって「行けるところ」までいくしかない。命尽きるところまで行くしかないのである。
それは同じような環境、同じような境遇に生きる人への見本となるはずだ。うまくすると人間の問題を一つ解決したことになるかもしれないのだ。

〈あなたは何の見本になるか〉

ここまで書きながら気づいたことがある。それは、何者でもない者が生きるのに最終的に必要なのは「自分の生き方が何の見本になるか」を意識することだ。大それたことではない。
あなたの現状を生きるにあたって「どう生きればいいか」という見本になればいいだけだ。全体ではなく個でいいのだ。
全体に示される見本は私やあなたではなくもっと偉大な者がやってくれるはずだ。
もし、「生きる意味」を問うた時に「何の見本になるか」を答えにすればいい。それを探究することが「生きる意味」そのままになるだろう。
もし、死について考えた時「自分の死に方が見本になるか」を考えればいい。
もし、自分の問題について考える時、「解決方法が見本になるか」を考えればいい。
それらの答えは普遍的な法則になるかもしれない。カントのいう道徳哲学に照らしても妥当な答えになるはずだ。
人間としての自分の生き方をよりよいものにする努力は、人間としての生き方を前進させるかもしれない。
自分を見本にしようとする努力は、ジェイムズの「われわれの一時的な真理がことごとくいつかそれに向かって集中するにいたると想像されるあの理想的な消点」の意味を含み、パースの「一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい」ということの真の意味も含む。また。カントの「汝の行為の格率を汝の意志によって普遍的法則とならしめようとするかのように行為せよ」ということがどんなことかも含んでいる。
私はそんなことに挑戦している。もし、あなたが自分も見本になるように行為しようとすると言うなら私は敬意を払う。そして心から称賛するだろう。

〈おわりに〉

私はこれまで仕事柄たくさんの人に接してきた。二十万回以上にはなるだろう。全ての人が何者でもない人たちだ。もちろん私も含めてだ。
うまく生きている人、なかなかうまく生きられない人、うまくいっていたのにうまくいかなくなった人、うまくいっていなかったのにうまくいくようになった人、そんな人たちに接していると「何がそうさせるのか」という問いが生まれた。
生きるということは「心の力」によるものだと感じる。「どう考えるか」という機会は普段の生活の中にはほとんどない。
考えていると思っていることは思っているだけで意志の力は皆無だったりもする。
学校生活で培われた「頭が良い」という評価ではうまく生きていくことができないことも多い。培われたのは考えることよりも記憶力を養い試験して優劣を決めることだからだ。
それでは生きることを学ぶにはあまり役に立たない。
また、決められたことや指示されたことをこなすことには長けているが、自分で考えて判断して行動することは苦手な傾向にもある。
有名アスリートがこう言ったという話や大金持ちの人の話を真にうけるが、私たちは何者でもない者の一人なのである。役に立つはずもない。
しかし、偉大といわれる者の前に立っても心は不動でいたいと思わないだろうか。
何者でもないことは劣っているわけでも不要なわけでもないのだ。ましてや卑下する必要など全くないのだ。
私は、何者でもない者がうまく生きるには、何者でもなくともうまく生きている人から学ぶべきではないかと強く思って書かずにはいられなかった。
本来ならもっとまとめてうまく書きたかったが次の課題となった。何者でもない者が記したものだとお許し願いたい。
うまく生きていくための考え方については言いたいことはまだたくさんある。次は「善なる意志」に従って書いてみたいと思っている。

参考文献
マーヴィン.ミンスキー 「心の社会」 産業図書
中村元 「バウッダ.仏教」 小学館 
ジャン.ドラクール「脳は心である」文庫クセジュ
ラーフラ 「仏陀の説いたこと」 岩波文庫
ホーカン.ヨハンソン 「ストレスと筋疼痛障害」名古屋大学出版
ランドルフ.ネシー 「なぜ心はこんなにも脆いのか」
エマニュエル.カント 「プロレゴーメナ、人倫のための形而上学の基礎づけ」中公クラシックス
ウィリアム.ジェイムズ 「プラグマティズム」 岩波文庫
リチャード.ドーキンス 「延長された表現型」紀伊國屋書店
リチャード.ドーキンス 「利己的遺伝子」紀伊國屋書店