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考察: 誰が誰を殺すと許されるのか

先日、ニュースでロシアのプーチン氏がプリコジン氏を殺したと非難していた。

「裏切り者は許さない人」というプーチン氏の人間性までもっともらしく伝えている。

テレビでは、コメントする人たちも深刻な表情を作って同意しているようだ。「殺すなんて…」といった雰囲気だ。

では、サダム.フセイン氏は誰が殺したのだろうか。
ウサマ.ビンラディン氏は誰が殺したのだろう。

敵対するものは当然のように殺されるはずだったのではないのか。良いことのように言っていなかったか。

飛行機を撃墜したことは残酷なことで、山の中まで追いかけていって殺すことは残酷ではないのだろうか。
穴の中から引きずり出して死刑にすることは正しいのだろうか。

生物兵器や核兵器を所持していなくても、疑惑を持たれただけで殺すことを当然とする。

これは正しいのだろうか。

死刑はどうなのだろうか。冤罪はないと断言できるのだろうか。

誰が誰を殺すのだろう。理由のある殺人は許されるのだろうか。いつからそうなったのだろう。

殺す者から疑惑を持たれただけで、弁明の余地もなく殺される。

個人的な「恨み」を理解できないわけではない。
しかし、個人的な恨みではなく政治的であれば、疑惑を持たれただけでも殺される。これは歴史的にも続いている。

抹殺するという心理を正当化する理由は「歯向かうから」ということなのだろう。

人が人を殺すということを考える際には、「誰が誰を」ということを取り除いた上で考えなくてはならないのではないか。「殺す」に特化して考えないとならない。「プーチン氏は悪い奴だから…」は理由にはならないのだ。

それがあるのとないのとでは、答えは全く別物になるのではないだろうか。

正義があれば殺人は許されるというなら、その正義は、誰がどの基準で選ぶのだろう。

この人なら正義があるから殺人を認めてもいいといえる、そんな人はいるのだろうか。

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