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瞑想。

叔母様が学校の同級生に
瞑想の会にお誘い受けた

ボクもかり出され
おいしいケーキにつられ
同行した

指導員?の話では
禅定の実践という中での
瞑想だそうだ

山林にこもり
座禅や瞑想して修行とか
云々

お坊さんのような
格好をして
様々な説明された

「宗教ではないです」
そういう話だったが
十分宗教法人を
名乗れそうな
団体になっていて

瞑想するのに
オトナも
子どもも料金が必要で
凄い代金だ

しかも
お賽銭?のような
寄付箱もあって
集金システムもある

まして
「御朱印」もあって
叔母様と同世代の
方々がキャッキャッしながら
スタンプラリーのごとく

並んでお金払って
書いてもらってた

ボクは心の中で
時代にマッチしない
「修行」に苦笑した

それとも
このやり方のほうが
「儲かる」から
そうしてるのかな?

宗教法人で
稼ごうとする
人々のキモチが
わからないので
何とも言えないが

「宗教」って
どこのどんな宗教でも
全員「幸福」になるため
参加してるし
賛同してるんだと思う

「集金」は別問題だ

集金が強制だったり
稼ぎを
「ご利益」と云っては
罰当たりすぎて驚く

昔々と現代は違う

電話もない時代
無事に旅で目的に
辿り着けるか
病気にならないか
学びが成就するか

すべて過酷だった
だから
相手を想い
「お守り」やら
「お札」などあって
手作りだったり
とてもキモチが籠ってた

まさしく
人のキモチが
ひとを守ったとも感じる

しかし現代は
心配なら電話もする

交通安全の
お祓いステッカー貼った
事故車も見かける

大量生産の
お守りには
相手を想うキモチがあるのか

購入者が誰かを想って
手渡すには
キモチが籠ってると感じる

しかし昔と今では
状況が違いすぎる

地域の祭りと同じように
そう
クリスマスのツリーと
同じように
禅定や瞑想も
「イベント」でしかない
お守りも
「飾り」のツリーのよう

ボクはお祭りが好きなので
みんなでワイワイすることは
とてもいいと思う
地域への想いとかも大切

だけど
今回の叔母様の参加した
禅定はどこかの寺か神社なのか
「宗教」だと名乗らんばかりの

厳かなイベントで
参加費も高級だった

瞑想時間も
お香の代わりにアロマの香り
音楽が流れ心地よい

これは修行ですよ
などと誘導される

ボクは心で即答する
「修行じゃない」

めっちゃリラックスする
サウナイベントに似てる

瞑想で思い出されるのは
マハトマガンジーが
瞑想生活をオススメされたとき
「わたしは何も洞窟に隠棲する
必要はありません。
わたしはいつも洞窟を担いで
歩いているのですから」
そう答えてる

そうだよ
瞑想で得たいものは
何か
無量の智慧が望みか
生命を磨くには
勇気をもって
目の前の社会に
地域社会に根差して
飛込み生き抜いて行くことこそ
近道だ

瞑想のための瞑想
禅定のための禅定
これは
もはやイベントでしかない

最後に
アーユルヴェーダを
語る指導員さんが
仏教からの言葉で・・

これは「宗教」?
錯覚させるような
今後の参加勧誘が始まった
毎月の受講料金や支払い方

ボクの知るところでは
「仏教」って
人の悩みに
目を閉ざす宗教ではない
人々を目覚めさせる教えだ

そして「無料」だ

社会の矛盾に背を向け
「無念無想」になる
仏道修行ではない

仏道修行って
人を幸せにする道です

自他の幸福のために
善き社会を目指し
智慧を発揮し
一念を込めて
社会で闘う姿の中に

真の禅定の精神がある

ボク個人の解釈だけどね

儲け主義に走ってる
まるで宗教法人みたいな
ショップ瞑想は
ファッションであり
おしゃれなだけ

勘違いしたら
大きな痛手だ

一念を定めて
明鏡のように
澄み切った不動の境地
こういうのを禅定って呼ぶと
考えてる

瞑想中
納得できない
想いが頭をぐるぐるよぎり
結局なにも
瞑想できなかった

叔母様が帰りに
ラシックでランチを
ごちそうしてくれた
とっても美味しくて
幸せだった

なので叔母様に云う

ねね、
毎月ボクにランチご馳走
することの方が
禅定だよ瞑想と同じじゃん?
どうなの?

「そうね、
好きなものたべて
好きなことでもするかな」


叔母様は長い髪を
サッと一つにまとめ
おいしそうに
ランチを食べ始めた

「また別の瞑想に
探検しようね」

ボクの言葉に
叔母様は喉を詰まらせそうに
なりながら頷いた

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