無知は罪だ、と母は言った

コロナも私の日常3-78
78日目 6月11日(金)

珍しく朝ごはんを食べる朝。とは言ってもキウイだけど。母がバケツごと大量に買ってきたキウイもあと残り僅か。まあ昨日また新たなるキウイを買ってきたので、結局のところ量は変わらなくて草という感じでフライデー。

最近、通勤時間の電車の人数が少ない気がする。ちらほら空いてる座席もあるくらい。一体何が起きてるんだろうと思ったけど、よくよく考えてみれば今はまだ緊急事態宣言中だという事を忘れてた。もはや緊急事態が日常となってしまって緊急事態ではない。どんな非日常も、それが当たり前となってしまったら、もうそれは日常だ。この日記を始めた去年の5月には、こんなに長引くなんて思ってもいなかったなあと思い出す。コロナで引きこもっている間暇だから、となんとなく始めてすぐやめればいいや〜なんて思っていたらいつの間にか1年経っていた。人生って秒すぎてついてけない。

それにしても、こんな時に本当にオリンピックをやるのだろうか。全然実感がなくてうけるな。去年やってたら、ボランティアかインターンをしていたのになあと思うと少し悔しい。まあでも、日本は完全に貧乏くじを引いてしまったわけで、作った競技場は元には戻せないわけで、流れたお金や時間は元には戻らないわけで、私たちはそれでも、前を向いて進んでいくしかないのだ。残酷な世の中ですね。

責任を押し付けあう大人たちの元で私たちは、一体何を学べというのだろう。何が平和の祭典だ。無駄な争いを呼んでいるだけじゃないか。ほとんどの国民がおかしいなとどこか思っている中で、権力を握っている1%の人間たちが全てを決めている。おかしな世界すぎて笑っちゃうな。こんな世界に生きて、私は今も駅のホームでただ文章を綴る事しか出来ていない。無力だけど、きっと、今の自分のこういう考えは無駄にはならないだろうなんて思って今日も書く。それしか出来ないだけだけど、今は。

朝には書かないと思っていたはずなのに、なぜ私は今書いているのか。なぜなら昨晩書かなかったからだ。なるほど。そういうことだったんですね。じゃあ今夜は書きますか?今夜は寝る前に書いてみようかなと思います。そんな会話を頭の中で繰り広げている午前7:56。ただのやばいやつである。

世の中の大半のことを世の中の人は知らない、と母は言った。この世界で一体何が起きているのか、知っているつもりで全然知らないし、知ろうともしていない、らしい。なぜなら、真実を知ることは怖いからだ。人は、知ることを恐れる。知ってしまったら、後戻りはできないからだ。知らなければそういう現実は目の前には現れないし、知らなくても世界は回る。確かにそうだよね、私も知らなくてもいいことは知らなくてもいいかな、と思ってしまう。嫌な現実を直視したくないと思う。それでも母は、知ることは力であり、無知は罪だ、と言う。母の言うことはいつも的確で正しくて、私は何も言えなくなる。自分の甘さと無知さを思い知らされてしまうので、母と話していると自分が宇宙のちっぽけな塵になったような気分になる。嫌だけど、嫌じゃない。そんな変な感覚。信じたくないけど、信じざるを得ないよね、だってこの母ですから。

cognitive disonance という言葉がある。言い換えれば、認知的不協和、だそう。人は、自分が絶対だと信じていることや常識だと思っていることを覆すような情報に触れた時、信じたくないと脳の基底核に痛みを生じさせるらしい。そういう痛みと共に、人は知ることを恐れるのだ。なるほどな、と思う。実際に痛みを伴ったかどうかはわからないけれど、そういう情報に接した時、顔を歪めて嫌な気分になった事はある。母のもたらす情報はいつもそんな感じで、痛みを伴う。苦痛無くして理解なし、と言う感じで。でもその痛みも力になるかもしれないと思うと、喜んで受け入れられるようになるので、不思議だね。

ああ。今日は、雲がかわいい。一度でいいから、雲の上で寝てみたいと思うよ。

おはよう。

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