ケルト神話の固有名詞はなぜわかりにくいのか?

神話を読んでいるときによくあるのが、固有名詞、特に人物名(神様も含む)が覚えられない、ということではないでしょうか。これは外国文学を読むときなど、あるいは世界史の勉強をするときも同様だと思いますが、馴染みのない感じの名前、しかも横文字の名前がたくさん出てくると、とても覚えにくいです(日本や中国の神話なら漢字ですが、それでも現代日本の名前感覚とは大きく離れており、大差ありませんよね)。

ケルト神話(アイルランド)ではこの問題が、尚更複雑になっているように思えます。というのも、同じ神格・人物でも、本によって表記が全然異なることが頻繁にあるのです。経験のある方もいらっしゃるでしょう。そういうわけで、ここではアイルランドの神話や伝説におけるそのような名前の書き方の違いが、なぜ起こるかを説明していきたいと思います。

まず、どのように書かれ方が違うか、具体例を出しましょう。ローズマリー・サトクリフの『炎の戦士 クーフリン』(これは翻案ですが)に、「栄光のライリー」という人物が出てきます。しかしフランク・ディレイニー『ケルトの神話・伝説』を見ると、そのような名前の人物はおらず、代わりに「ロイガレ」という人物がおります。実はこの二人、同じ人物なのです。

もう一つ例を出します。井村君江『ケルトの神話』では、アルスターの英雄はク・ホリンという名前で書かれていますが、しかし他の本ではたいていクー(・)フリンと書かれています。これも同じ人物を指しています。

更にもう一つ。同じく井村君江『ケルトの神話』とサトクリフ『炎の戦士 クー・フリン』では、ク・ホリン(クー・フリン)の王はコノール王と表記されていますが、ディレイニー『ケルトの神話・伝説』ではコンホヴァルと書かれています。これも同じ人物です。

同じ人物なら、名前も同じはずではないのでしょうか。なぜこのようなことが起きるのでしょう? それには、いくつもの異なる原因があるのです。以下では、その原因を考えられる限り、具体例も交えてご説明いたします。


アイルランド語綴りと英語綴りの交替

英語は、どんな言語でも自分流に綴りを変えてしまうという性質を持っています(これは別に英語に限った話ではないと思いますが)。例えば古代ローマの詩人ウェルギリウス (Vergilius) は英語ではヴァージル (Vergil/Virgil) と書かれます。これは語尾が削られてるだけなので比較的わかりやすいですが、アイルランド語名詞の場合はもっと大胆です。

アイルランド語は時代を経て言語段階が移るにつれ、発音が簡単になっていき、発音されない音というものが出てきます。英語での綴りは、発音から類推される英語的な綴りに変換されたものです。例えばロイガレ (Lóegaire) をライリー (Laery) 、またコンホヴァル (Conchobar) をコノール (Conor) とするのはこのためです。

これは地名についても同じことが言えて、例えばアーマー (Armagh) という地名はアイルランド語のアード・マハ (Ard Macha) 、すなわち「女神マハの丘」が変形されたものなのです。他には、アイルランドの山はスリーヴ・ブルーム (Slieve Bloom) のように「スリーヴ」と頭についていることが多いですが、これはアイルランド語のスリアヴ (slíab) の変形したものです。「平原」を意味するマグ (mag) もモイ (moy) に変形されています。

アイルランド語の段階による発音の違い

アイルランド語は、他の言語でも同じように、いくつかの言語段階を持ち、それぞれにおいて発音規則が異なります。古期アイルランド語 (c.700-900) 、中期アイルランド語 (c.900-1200) 、現代アイルランド語 (c.1200-) という段階です(もっと古い段階もあり、現代アイルランド語ももっと細かく分けられます)。

特に、現代アイルランド語 (c.1200-) とそれ以前とではかなり大きな違いがあります。現代アイルランド語では、かなりの音が発音されず省略されるようになるという簡略化が行われているのです。上述のような英語綴りへの変換は、現代アイルランド語の簡単な発音に基づいています。これにより、例えば中期アイルランド語 (c.900-1200) までは「スカーサハ」と発音される名前 (Scáthach) は、現代アイルランド語の発音に従って「スカアハ(スカーハ)」と表記されることがあります。同様にLughも「ル(ー)グ」と書かれることもあれば「ルー」と書かれることもあります。

アイルランド語自体の発音の複雑さ

アイルランド語は非常に複雑な発音規則を持ちます。例えば、ndというスペリングはnnと同じく強めの「ン」の音になります。よって、Findabairという表記は「フィナヴィル」と読まれますが、これが「フィンダヴィル」と書かれることもあります。またこの発音規則の結果、ndというスペルは全てnnと書かれるようになったのですが、その反動としてnnというスペルをndと書くのが古風なスペリングだ、という風潮ができました。そのせいでクー・フリン (Cú Chulainn) がCú Chulaindと書かれたりすることもあります。そしてそのスペルの変異がまた上記の違いを生んでしまいます。

アイルランド語の発音とカタカナの対応の難しさ

アイルランド語の音には、日本語では似た音自体が存在しないものがいくつもあります。例えばmの軟音(mhと書かれることもある)は「ム」(m) と「ヴ」(v) の相の子のような音となるため、Emainは「エウィン」とも「エヴィン」とも書かれます。また、gの軟音(ghと書かれることもある)は、フランス語のrのように、うがいをするように喉を鳴らす有声音なので、Lughは「ル(ー)グ」とも「ル(ー)フ」とも書かれることもあります。

アイルランド語におけるスペリングの揺れ

近現代に入るまで、アイルランド語は統一・整備されませんでした。そのためスペリングにはかなりの揺れがあります。例えばFer DiadはFerdiad, Ferdiaとも書かれるので、「フェル・ディアド」「フェルディアド」「フェルディア」は全て同じ人物を指します。また例えばConchobarとConchoborは発音的に同じ(アクセントのない母音は全て /ə/ となる)ため、「コンホヴァル」とも「コンホヴォル」とも書かれます。

アイルランド語綴りの英語読み

これはあまり見ない問題ですが、たまにあるのが、アイルランド語綴りの名刺を英語読みしてしまっていることがあります。例えば、コナレ (Conaire) もしくは大王コナレ (Conaire Mór) という高王がいます。八住利夫『アイルランドの神話伝説』ではこれを英語読みし「コナリイ」と表記してしまっています。また、他にはクー・フリン (Cú Chulain) が「ククーリン」と、Ferdiaが「ファーディア」と読まれてしまうこともあるようです。

アイルランド語学習者の少なさ

アイルランド語はそもそも学んだことのある人が少ない言語です。絶滅危惧とまではいきませんが、英国による支配の中で、アイルランド語は次第に不利な立場へと追い込まれ、支配者の言語である英語を学ぶ方が有利な状況が続きました。それゆえにアイルランドのナショナリズム運動が盛んになった時には、もはや一部の辺境地域を除いては話されていないという状態でした。現在はアイルランドによる保護政策などによって話者は増えていますが、日本でアイルランド語、しかも古語を学んだ人はほとんどいません。このことが、アイルランド語固有名詞の発音表記がバラバラになることの原因の一つでしょう。上記の英語読みなどはその例です。アイルランド語の現状については、嶋田珠巳『「英語」という選択――アイルランドの今』(2016) が参考になります。

その他

クー・フリンは「ク・ホリン」と書かれることがあります(井村君江など)。この奇妙な表記が一体どこに由来するのか疑問でしたが、ある日ある方がヒントをくれました。クー・フ(ー)リン (Cú Chulainn) の発音を英語風に書くと、「ウー」は"oo"となるため、この"oo"を"o"と同じく「オ」と読んでしまったのではないか、とのご指摘です。これはなるほどあり得そうなことです。アイルランド語での発音を知らなかった場合、このような間違いや取り違えが起こり得ないとは言い切れません。同じアルファベットという文字を使っていても、どの言語の発音規則に依拠するかで出来上がる音は異なります。例えば英語読みとフランス語読みでも音は変わり、小説などでも同じ人名が異なる表記をされたりします。Charlesはチャールズともシャルルとも読みます。

統一されないこと

以上の諸事情から、そもそもどの表記が正しいのか、といった点ですら複数の解があり得るため、固有名詞の日本語表記が統一されません。統一を図る運動自体起こったことはもしかしたらないのかもしれず、さらにその議論も大変なものとなることが予想されます。


さて、この記事をお読みになった方は、どのような印象をお持ちになったでしょうか。冒頭のような経験のある方は、胸のつかえがとれたような感じをお覚えになったかもしれません。もしそうであれば幸いです。アイルランドの神話に触れたことのない方は、難しそう、と思われたかもしれません。しかし、困難を乗り越えたところにこそ真の面白さが待っているのです。

参照文献:
David Stifter, "Sengoídelc: Old Irish for Beginners", 2006.
Kim McCone, "A First Old Irish Grammar and Reader", 2005.
梨本邦直、『 ニューエクスプレス アイルランド語』、2008年

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