アイルランドの伝承「ブリクリウの饗宴」について

私が翻訳した「ブリクリウの饗宴」について説明します。(訳文など、「ブリクリウの饗宴」記事一覧はこちらからどうぞ

アイルランド語ではFled Bricrenn(表記揺れでBricrendとなることも)。BricrennはBricriuの属格単数形で、人名です。fledは英語でいうfeastを意味しますので、英語に置き換えるとThe Feast of Bricriuとなります。これを日本語に翻訳すれば、「ブリクリウの饗宴」のようになります。Bricriuの発音は、アイルランド語の発音規則に則るとほんとうは少し異なるのですが、伝統的に使用される「ブリクリウ」の方を採用します。

1.分類

分類においては、アルスター物語群に含まれます。

アイルランドの異教的伝承――いわゆるケルト神話は、近代以降では通常三つの「物語群」(cycle)に分類されます(過去記事参照)。そのうちの一つが、アイルランドの北部にあたるアルスター国の英雄たちを中心とする「アルスター物語群」(Ulster Cycle)です。

これにはクー・フリンをはじめ、フェルグス・マク・ロイヒ、コンホヴァル・マク・ネサ、コナル・ケルナッハなどの有名な英雄たちが登場します。またアルスター国のライバルであるコナハト国の女王メズヴ(近代アイルランド語ではメイヴ)や、クー・フリンの師匠であるスカーサハなども某ゲームのために有名ですね。

2.資料

「ブリクリウの饗宴」の原典となる写本資料は以下の通りです。

・Dublin, Royal Irish Academy, MS 23 E 25 (『褐牛の書』(Lebor na hUidre)), p 99b–112b +H
・London, British Library, MS Egerton 93, fo. 20r–25v
・Edinburgh, National Library of Scotland, MS Ed. XL, p 69–76
・Leiden, MS Codex Vossianus fo. 3r–9v(断片)
・Dublin, Trinity College Library, MS 1336 (H 3.17) 683–710(断片)
・Dublin, Trinity College Library, MS 1337 (H 3.18) p. 607(注釈付きの抜粋)
(参照:Fled Bricrend - CELT: The Corpus of Electronic Texts,Background details and bibliographic information

3.登場人物とあらすじ

ブリクリウ、あるいは「毒舌」のブリクリウ (Bricriu Nemthenga) は舌禍を引き起こす達人で、トリックスター的な役回りの男です。彼は言葉巧みにアルスターの男たち・女たちのプライドを刺激し、互いに相争わせることを、非常な楽しみとしています。彼がその弁舌を振るった結果どのようになるかは、フェルグス・マク・ロイヒが次のように語っています。

我々がブリクリウの宴会に参加しに行ったら、あいつが我々の間に諍いを起こし、我々のうち、生きている者より死んでいる者の方が多くなるだろう
bit lia ar mairb oldáte ar mbí iar n-ar n-imchosaít do Bricrind dia tísam do thomailt a fhlede
(Mac Cana & Slotokin, "Fled Bricrenn", p. 3, 引用者訳)

物語は、ある時彼が宴会を開き、コンホヴァル王をはじめとするアルスター国の有力者たちを招いたことにはじまります。

ところで、アイルランドにおいては、「英雄の分け前」(caurathmír) と呼ばれる慣習がありました。これは、宴会において豚を食べるのですが、その豚の最も美味とされる部位のことであり、その宴会の座で最も優れた人物がこれを食べることになっている、というものです。この慣習が火種を生むことになるわけです。

なお、この慣習は、大陸にすんでいたケルト人の間にも存在したようです。シリア出身の哲学者ポセイドニオス(紀元前およそ135年~紀元前51年)は、見聞を広めるために各地に旅行しましたが、その中でガリアにも立ち寄ったようです。現在では失われ散逸してしまった彼の主著『歴史』の中にはガリア人に関する記述があり、そこでこれとほぼ同じ慣習が行われていたということが、他の著述家による『歴史』の引用からわかっています。

さて、アルスター国には三人の代表的な英雄がいました。一人はロイガレ・ブアダハ (Lóegaire Búadach) 。búadachは「勝利」等を意味する形容詞です。もう一人はコナル・ケルナッハ (Conall Cernach) 。cernachも同じく「勝利」を意味する形容詞です。彼はアルスター国と他国との境界を守っているとされています。そして最後の一人は、言わずと知れた「クランの猟犬」ことクー・フリン (Cú Chulainn) 。彼は幼いころに鍛冶師クラン (Culann) の恐るべき番犬を殺してしまい、その償いとして殺した番犬 (cú) の代わりにクランの家財を守ることを誓い、それ故にこの名を名乗るようになりました。

ブリクリウは、この三英雄に一人ずつ会い、「あなたこそが私の宴会の『英雄の分け前』を食べるべきだ」と言いました。ブリクリウはアルスターでもそれなり以上の地位にある男なので、彼の宴会において「英雄の分け前」にあずかるということは、即ちアルスターで一番の英雄であることを意味するのです。

こんな形でプライドを刺激された三人の英雄たちは、いざ宴会が始まるや否や、自分こそが「英雄の分け前」にふさわしい、と主張し始め、武器を持ち出したうえ、ついには取っ組み合いの大げんかを初めてしまいます。

しかもブリクリウは抜け目なく、三英雄のそれぞれの妻にも、その毒の舌を向けます。「あなたの夫こそが最も優れた英雄であり、その妻であるあなたもアルスターで、いやエーリゥ(アイルランド)で最も優れた貴婦人です」などと彼女たちを唆しました。その結果、それぞれ下女五十人を連れた三人の奥方が宴会場に突進し、またしてもどったんばったん大騒ぎになってしまうのです。

アルスター国の重鎮たちは、自分たちだけではなんともしがたいと思い、隣国であるコナハト国の女王メズヴとその夫アリルに裁定を求めに行きます。そして彼らに従い、三人の英雄たちはその資質を証明するため、いくつもの試練を受けることになります。

4. 知名度

この物語がどれだけ知られているかというと、中堅程度でしょうか。少なくとも「クアルンゲの牛捕り」やノイシュとディアドラの物語などと比べれば、知名度は落ちます。しかしそれほど無名というわけではなく、本によっては言及されることもある、といった程度です。

例えば八住利夫『アイルランドの神話伝説Ⅰ』や井村君江『ケルトの神話』では紹介されていませんが、フランク・ディレイニー『ケルトの神話・伝説』では「勝者の分け前――ブリクリウの宴」として、「クアルンゲの牛捕り」を含む他の八つの伝承とともに、語り直されています。今年刊行された木村正俊・松村賢一編『ケルト文化事典』では、『ブリクリウの饗応』として、アルスター物語群の伝承に充てられた十五の項目のうち一つが割かれています。

また、ローズマリー・サトクリフによるアルスター伝説の再話作品『炎の戦士クーフリン』という名著がありまして、実は私もこの作品からアイルランドの伝承に入ったのですが、この中でも「第7章 ブリクリウの大宴会」として語られています。

なぜこの伝承を翻訳しようと思ったかというと、実はこの『炎の戦士クーフリン』で初めて読んだとき、クライマックスでのクー・フリンの英雄的態度に心を打たれて感動したからなのです。つまり私にとって最も思い入れのある話なので、せっかくなら一番やりたい作品を翻訳しよう、と考えたわけなのです。

翻訳ですが、この記事の執筆時点では、全体のほぼ二割ほど進んでいます。いずれまとまった量になり次第、文フリやコミケなど然るべき場所で一般向けに頒布したいと考えています。またその際にはさらに解説なども大いに付け加える予定ですので、ご期待ください。それでは。

参照文献:

・Mac Cana & Slotokin (ed., tr.) , "Fled Bricrenn" (http://irishtextssociety.org/texts/fledbricrenn.html)

・Fled Bricrend - CELT: The Corpus of Electronic Texts (http://celt.ucc.ie/published/G301022/)

・木村正俊、松村賢一編、『ケルト文化事典』、東京堂出版、2017年(ポセイドニオスについてはpp. 22-23、「ブリクリウの饗宴」についてはpp. 212-213)

・ローズマリー・サトクリフ、『ケルト神話 炎の戦士クーフリン』、灰島かり訳、ほるぷ出版、2003年

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