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移住半年記念日-夢が日常になるとき-

これを書いている今は6月21日、台湾に移住してちょうど半年の「記念日」です。そして今日は、ひとつのプロジェクトが終わった記念すべき節目の日でもあります。ちょうど節目に合わせて、移住から半年を振り返ります。

3ヶ月目までの記録はこちら


4ヶ月目: 持て余す時間。始まったプロジェクト。

4月の記憶は実はあまりなくて、というのも会社にとって年度はじめは仕事が少ない暇な時期。私自身も3月末に初仕事がひと段落して、時間を持て余していた時期。唯一、年度末にはじまった台湾人との中国語のプロジェクトがあって、そこに時間をたくさん割けたのは有り難かった記憶だけがある。使用言語が中国語になるだけで、翻訳やら内部会議でも準備に丸一日かかるので、余裕を持ってゆっくり仕事進められたのは精神衛生上とてもよかった。

専門外の内容でも、プロジェクトが開始して1ヶ月も経てば、内容のキャッチアップはある程度済んで、パフォーマンスをいかに発揮するかにフォーカスが移っていく。そしてこのプロジェクトには、語学というより「外国語で仕事をするとはどういうことか」を教えてもらっているように思う。語学力も確かに大切だけれど、結局今すぐに中国語でネイティブたちの議論に参加できるレベルにはなれないので、語学以外のツール、それは事前準備や、表情や、メンタリティや、身振り手振りや、ありとあらゆるすべて駆使して、いかに仕事を推進していくか、というスタンスを少しずつ学ぶ機会。もちろん今でも探り探りで、全然上手にできないことばかりで落ち込むことばかりで。コミュニケーションは終わることのない試行錯誤なのだと痛感していているところ。たぶんどんなに言語力が向上してもこの悩みは一生ついて回ると思う。

そんな風にゆるゆると日々を過ごしていたところ、突然上司に呼び出され、平穏な日常が終わりを告げることになる。開口1番告げられたのが「チームの〇〇が退職することになった。彼のプロジェクト引き継いでほしい。3日で。」
私もこの時知ったのだけれど、日本では退職通知は1ヶ月前が基本のところ、台湾では勤続1年に満たない場合は10日前通知で良いのだそう。しかもその時は連休やらとの兼ね合いで、実質的な引き継ぎ期間はたったの3日。引き継げたのか引き継げていないのかよくわからない状態で始まったのが、ちょうど今日終わったプロジェクトでした。結局このプロジェクトで大切なことを学ばせてもらうのだけれど、それはもう少し後の話。

5ヶ月目: 停滞。不安。新しい仕事。カウンセリング。

怒涛の引き継ぎ期間を終え、同僚も退職し、プロジェクト自体は無事引き継いだものの、作業量自体が多い訳でもなく、当初は忙しさがそれほど変わることもなく、引き続きゆるゆると台湾人とのプロジェクトを進めていた5月。この1ヶ月はなんと総括したら良いのか、とても表現の難しい1ヶ月だった気がする。

台湾人チームの仕事は、昔から興味のあった分野に近い内容だったり、この時期はやりがいある新しい挑戦に溢れていた。例えば、とある提案書の企画をいちからひとりで作ってみたり、中国語の社外会議(全員台湾人で2時間の長丁場)に出席して、極めて専門的な内容にも関わらず理解に全く支障がなくて、成長を実感したり、顧客属性的に台湾人じゃないと無理と言われていた仕事で、顧客に出す成果物一部作らせてもらう機会をもらえたり、辞めた同僚から引き継いだプロジェクトを主導するポジションを担いつつあったりと、客観的に見たら充実していて仕事楽しいはずなのに、当時の私はメンタルどん底で、強い不安感と焦燥感で全く身動きができなくなっていた。

今振り返っても、なんでここまで落ち込んでしまったのか、思い当たる節は全くなくて。ひとつ考えられるとしたら、「夢が日常になってしまった」ことに上手く適応しきれなかったのかもしれない。移住直後は夢が叶って、目の前のことをこなすのに必死で、毎日が大変だけど新鮮だった。けれどこの頃になると、日々は同じ景色の繰り返しになり、当初物珍しかったアレコレも日常の中に埋没して、きっと視界に入らなくなっていたし、それに気づくことすらなくなっていた。
それ自体が悪いことではないと思う。さっきも書いた通り、仕事も「できるパフォーマンスを発揮すること」に主題が移って、「新しい内容の仕事」が増えてきた。それはつまり「できることが増えて次のステップに移りつつある」ということなのだろう。けれど同時に「自分の無能さを突きつけられる」ことが増えたということでもある。移住直後はきっとよかったのだ。「来たばかりで中国語がわからない」「習慣がわからなくてどうしたら良いのかわからない」「関係性ができていなくてコミュニケーションが取りづらい」、でも「移住直後なんだから、わからなくて・できなくても当たり前」という言い訳があった。移住直後に直面したのは「無知」でしかなく、繰り返しと慣れで、できることもすぐにどんどん増えていって楽しかった。

非日常が日常になっていって、無知が既知にひっくり返っていくほどに、少しずつ、意識するまもないほど本当に少しずつ、この「できない」は本当は私が無能だからなんじゃないか?という不安が頭をもたげはじめたのかもしれない。そして実際に、初めての仕事が最初からそんな上手くいくはずもなく「やっぱりできなかった」という無力感に少しずつ絡め取られて、身動きができなくなっていた。今振り返るとそんな感じだったように思う。

少し話は脱線して、私はメンタルの落ち込みが激しい時は、早めに臨床心理士のカウンセリングを受けるようにしている。メンタルは本格的に崩れると立て直し
にものすごい時間と労力がかかるから、ダルい時に風邪薬を飲むのと同じような感覚で予約する。
この時も一度だけカウンセリングを受けて、いろいろアドバイスもらった中で、そのうちのひとつを言われた通りバカ正直に実行した。現状を打破したいときにもらったアドバイスは、なんであれ一度バカ正直にそのままやってみるようにしている。私を今の苦しい状態に連れてきたのは私の選択と判断の積み重ねで、その自分の感覚にしたがって事態を改善できるという考え自体が非合理的だし、逆に自分の感覚を無視して行動することこそが現状打破のきっかけになるんじゃないかとすら思う節がある。今回もそれがよかったみたいで、アドバイスどおりの行動が、パンパンに膨らんで破裂寸前のビーチボールに開いた小さな穴になって、強い不安や緊張で不安定になっていたメンタルは、2−3週間くらいかけて少しずつ安定を取り戻していった。

6ヶ月目: 非日常の終わり。日常の始まり。あるいは人生のなんでもない道半ば。

そんなこんなで、勝手に不安になったり落ち着いたりと一人相撲のような5月も過ぎ去り、6月。細々と進めていた同僚から引き継いだプロジェクトに大きな動きがあった。お客さんの方針転換の影響で、これまで細々とやっていた仕事の内容が大きく変わり、一気にやることが増え、仕事の深度が増した。その分いろんなことを考えた1ヶ月だった。
具体的な詳細は書けないけれど、社外の人間として、お客さんの会社の大事なプロジェクトの一端を担う責任の重みとやりがい。異業種から転職してたった半年の私がプロとして一体何ができるのか。沢山苦しんだ。お客さんの期待値を越えられなくて、悔しかったり申し訳なかったり、恥ずかしかったり。でも、転職後一番一生懸命やって本当にやれることは全部やり切ったから、うまくできないこともあって申し訳なかったけど、ある種の達成感はあった。
結局私たちの力不足でプロジェクトの発注自体は終了してしまったけど、最後に先方の担当者に「番茄🍅さんのような人と、今後も一緒に伴走してもらいたかった」と言ってもらえて、ほんとにほんとに嬉しかった

自分ごととして一生懸命向き合うから、必死に知恵を絞って、楽しくて、大変で、学びがあって血肉になる。なにより、お客さんみんな前向きで、それぞれの立場のプロばかりで会議が本当に楽しかった。そんな人たちと一緒に仕事できて幸せだったし、私がしたい仕事は、こうやって各分野のプロが知恵を出し合って、一緒に新しい何かを生み出したり、事業や会社を前に進めたりしていく仕事なんだよな、というのを思い出した。できることなら今後もこういう仕事を沢山して、あわよくば誰かの役にたちたいと心から思った。なんか、やっと言語とかの表面じゃなくて、やりがいとか達成感とか、人の役に立つとか感謝されるとか、もっと深いところでの感動が得られたのが嬉しかったんだ。

改めて振り返ると、3ヶ月目から半年目までの3ヶ月は、長年の夢だった海外生活が、少しずつ日常になっていく時期だったように思う。そして、非日常が日常になるこの移行期は、刺激や真新しさが減るとか以上に、これまで慣れ親しんできたものと全く異なるこの環境や文脈の中で、「本来の自分らしく生きる」結節点を探していくことがテーマなのではないかと思うようになってきた。実際、最近の私の関心ごとは、中国語がどうこうよりも、どうやって仕事でパフォーマンスを発揮するかとか、次の海外旅行どこに行こうかとか、3年後のキャリアとか、彼氏欲しいとか、結局日本にいた頃と大して変わらなくなってきた。中国語が「通じる」ことに求める解像度も、より深くなったように思う。こんなこと、移住前には考えたことすらなくて、言葉さえ完璧に分かれば、ネイティブのコミュニケーションに追いつけると思っていた。

移住直後は、台湾という環境と、日本で生まれ育ってきた自分の内側の世界とのギャップがあまりにも大きくて、環境に適応するために自分を変容させることで必死だった。語学にこだわっていたのは、ことばが、外界と内界をつなぐ唯一の手段だったからなのだと思う。それは今でも変わらない部分もあるけれど、それもある一定期間を過ぎれば、「どんな環境でも揺るがない自分のコア」みたいなものがでてきて、知らず知らずのうちに、この環境で「いかに本来の私らしく生きるか」を模索する時期が始まっていたのかもしれない。それは、無理しなくていいサステイナブルなコミュニケーション方法を探ったり、呼吸のしやすい居場所や、しんどいときに逃げ込める避難場所をこのまちに沢山もつことや、言葉の問題に逃げずに仕事や人間関係の中身に向き合うことなんかがそうで、言い換えれば本格的にこのまちに根を張り始める準備が整ったということなのかもしれない。

移住生活はまだまだ始まったばかりで、きっとこれからも予想もしなかった変化や発見が沢山待っている気がする。「本来の私」と言ったって、それは既に移住前の私と完全に同じではないし、きっとこの先も知らず知らずのうちに変わっていく。でも、「夢が叶う瞬間」が人生の風向きが大きく変わるドラマチックなシーンだとしたら、「夢が日常になるとき」は自分自身にしろ周囲の景色にしろ、変化というものが知覚出来ないレベルで少しずつ起こる類のものに変容しはじめることを意味するのかもしれない。そういう意味で、こうやって気づいて記録できる出来事や変化はどんどん減っていくだろうし、停滞感に焦ることや、減っていく刺激に愚痴をこぼすのかもしれない。ある一定の時間が経ったときや、人から指摘されて、初めて新しい発見や変化に気づく瞬間ばかりになるのだと思う。
うまく言葉にできないけれど、「夢が日常になるとき」は刺激溢れるキラキラした夢が、くすんでしぼんでしまう終わりのタイミングではなく、ずっと追いかけてきたキラキラした夢をついにポケットの中に携えて、道標ではなくお守りとして一緒に歩き始める始まりのタイミングなんじゃないだろうか。

きっと私の移住記録も面白みのないものになっていくだろうし、9ヶ月目のnoteは何を書けば良いのかわからなくて書かないで終わるかもしれない。きっと、そういうものなのだと思う。それに思い起こすと、それこそが駐在や留学ではなく、現地採用での移住がしたかった理由に他ならない。「海外のある場所で長い期間"生活"したら、私の人生はどう変わるのだろうか」。それこそが私の知りたいことなのだから、答えは「夢が日常になったその先」に、名前もつかない、気づきすらしないその瞬間にあって、映えもしない地味な日常を一生懸命生きることが今の私のテーマなのかもしれない。

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