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まだ何者でもない僕は、何かに成りたくて文字を打つ

朝6時半。アラーム代わりのラジオ体操を聞き流しながら二度寝防止のiPhoneのアラームを止めて起床する。昨日の晩飯の残りを弁当箱に詰めて、プロテインと野菜ジュースを飲んでスーツに着替える。

家を出ると、向かいのマンションのベランダに居る犬に必ずと言っていい程に吠えられる。
耳を塞ぐようにイヤホンを付け、革靴の潰れた踵を戻し駅に向かう。

それが僕の日常。繰り返される日常だった。

僕の今の生活は、悪いモノではない。恵まれている方に分類できるだろう。標準的な給料、悪くはない職場環境、生活防衛資金はそれなりに。

このまま仕事の経験を積んで、順当に職場での立ち位置を確立させて…意地で恋人でも見つけて結婚して…
ローンを組んで、残業して、お金を家に入れて…

それでも良いのかもしれない。両親はそれを喜んでくれるだろう。
ただ、そこにロマンは無い。心躍る物語は無い。

もちろんこれは、クオーターライフ・クライシスのようなものなのだろう

「クオーターライフ・クライシス」とは、人生の4分の1が過ぎた20代後半から30代にかけて訪れる、人生について思い悩み、幸福感が低迷する時期のこと。一人前の大人に移行していく一方で、社会からは認められていないと感じる焦燥感から起こるジレンマとして、多くの若者が経験しているという研究結果もあります。
日本の人事部:クオーターライフ・クライシス より引用

あと数年我慢すれば忘れるような思いかもしれない。
それでも、僕は。

今この時の「思い」をどこかに残したいと思ったのだ。


これまでの僕の人生

僕は文章を書くのが好きだ
とはいっても、最初から好きだったわけじゃない。小学生の頃は読書感想文なんかが嫌いだった。
夏休みの終わりに泣きながら母と読書感想文を書いたのは今でも覚えている。見たいテレビ番組があって、それを見ながら作業したいと駄々こねたのは良い思い出だ。
結果的に一向に筆が進まず母に怒られたのが懐かしい。

転機になったのは小6で通った塾。
夏期講習で「色々なテーマで短い文章(300文字程度)をひたすら書く」という課題が出たのだ。

自由度が高いテーマばかりで、覚えている物だと「100年後の地球」みたいなものもあった。早めの中二病を患っていた僕は「地球温暖化が進んで日本は水没してる」という短い文章を書いた。塾の先生は僕の書いた文章を褒めてくれたし、文章の書き方のアドバイスをくれた。もう先生の名前は覚えていないが、とにかくこれが「自由に文章を書くのは楽しい」と知るきっかけだったのは確かだ。

中学生になってからは文章を書く課題が好きになっていた。
夏休みの読書感想文、税の作文、どれもすぐに書けたし…なんなら他人の税の作文を500円で代筆したり、読書感想文書けない知り合いのために「存在しない本の読書感想文」を書いてやったりした。

中学生3年生、厨二病から抜け出せなかった僕は「小説家になろう」というサイトを知った。仲の良かった友人に
「俺はここで小説を書いてデビューしてぇわ」
と部活中に語った。

スマートフォンを持って、Twitterにハマったのもその時期だった。

最初のうちは黒歴史といえるような運用をしていた。インターネットリテラシーはそこから少しずつ学んでいったし、僕よりもインターネットリテラシーの高い友人がいたおかげで、なんとか大きな過ちを犯す前に自分を戒めることができた。彼の存在には感謝しかない。

Twitterの
「自分の書いた文章がリアルタイムで目で見える評価が出る(いいねの数)」
というのがなんとも心地よく、その快感は僕を少しずつクソツイッタラーに変えていった。

いいねを貰う快感を満たす為に、呟く内容も
「どうすればもっとフォロワーにウケるのか」
という点を見て呟くようになっていた。ここでの経験が文章をまとめる力を養うことに繋がったと今思う。
140文字の制約で伝えたいことを伝えるには言葉選びが重要だったからだ。

色々なアカウントを作って、色々な方向で試して、Twitterの使い方がわかり始めた頃には高校生になっていた。

高校生になってからはオタクの友人が増えた。同時に積読が大好きな友人に自分の書いたなろう小説を読んでもらうことができた。少し恥ずかしかったが、彼のおかげでなんとかその小説は書き切ることができた。

その後も何作か書いたが、10人くらいにブックマークされる程度で終わった。

高校3年生の頃にはTwitterでフォロワー1万人のアカウントを作った。そのアカウントはメンヘラ女子と仲良くなってしまったが為に消すことになってしまった。
ネット上でくらいモテたいと思ってしまった罰が当たったのだろう。

大学生に入っても変わらなかった。結局またTwitterアカウントを作って何回かバズって、またメンヘラ女子に絡まれてアカウントを消すことになった。

頭の中には常に小説家になろうで投稿したいファンタジー小説のネタが眠り続けていた。それは試験期間に入ると急に構想が頭に浮かび、勉学をサボって下書きを増やしていった。もちろん試験期間が終わると熱が冷める。一種の現実逃避だったのだろう。

大学では映像作品を作るサークルに入った。20分程度のドラマ作品の台本を作るのが楽しかったし、編集も楽しかった。やはり僕は、自分の中の何かを世に出すことが好きなんだと感じた。


大学2年生になって、クセの強い教授の必修科目を落とした。そこで何を思ったのか、講義内容をベースになろう小説を書いて投稿した

翌年になって、再履修する時は全力でメモを取って、教授の言葉をほぼ書き起こしてそれをまた再履修編として投稿した。

それがまさか、教授本人に読まれることになるとは思いもせずに

教授に読まれることなど何も考えていなかった僕は、再履修編の第1話で教授を美少女に変えるネタ小話を最初に書いておいたのだが、教授はいったいどんな表情であの文章を読んだのか。かなり気になる。

教授は「1回目はひどい内容だったが、2回目は完璧だった。私の講義を受けずともこの小説読めば内容わかるくらいに」と言った。それが嬉しかった。自分の文章は読み手に伝えたいことを伝えることはできているという自信につながった。

また、その教授は僕に「出版社の知り合いがいるから、これを出版できないか話しておくよ」と言ってくれた。

卒業後の今も教授から連絡は来ない。出版の話はなさそうだ。


そして社会人になった今は、noteを書いている。思ったことや学んだことを書いている。物語も書こうと思っているが筆が乗らない。
でも何か文章で発信することは好きだ、と再認識はできている。どんな形でも、自分の書いた文章、自分の思った事が誰かに読まれることはとても嬉しく思うのだった。

やりたいこと

作文、Twitter、小説、台本、そしてnote。時の流れと共に僕は色々な場所で発信をしてきた。
そして「文章」こそが何かを発信する時の、僕に一番適した媒体なのかもしれない。

会社で文章を書くことはない。書いたとしてもメールの文章と会議の議事録くらいだし、それも先輩に修正されてばかりだ。
会社で書く文章で必要なのは、ビジネスマナーに沿った言い回しと、情報をしっかりと伝えることだけ。

一度は出版社で働きたいと思ったこともあった。どんな形でもいいから文章に関わりたいと思った。けれども、出版社で働くことと文章を書くことは別だ。
文章に関わる仕事ではなく、文章を書きたいのだ。それも、自分の好きなように。

僕は書きたい。そして発信したいこの僕の中に燻る感情の数々を誰かに。

それが僕のやりたいことだった。

小説でもいい。Twitterでもいい。noteでも、ブログでもいい。

とにかく、僕の中のモノを文章にしてぶちまけたいのだ。

これからのこと

会社員として決まった時間に出社し平日5日間みっちり働き、土日の2日で体力を回復させてまた働きに行くような生活が日に日に嫌になってくる。

何のために生きているのかわからなくなってくる。適度な疲労が思考を鈍くさせ、反抗する力を奪っているような気がする。

別に会社の事は嫌いではない。でも好きでもない。例えるならば、エビフライの尻尾のようなものだ。
食おうと思えば問題なく食えるけれど、別に好きという訳ではない、そういう感じ。好きな理由が無いのだ。

好きでもないことに1週間のうち5日もかけるのはどうもモヤモヤする。


仕事には「ライス・ワーク」「ライク・ワーク」「ライフ・ワーク」の3つがあるという。

ライス・ワークは食う為に働くこと。趣味や特技は関係なく、単純に仕事やって稼いで休日に好きなことをする…そんな仕事だ。

ライク・ワークは好きなことを仕事にすること。好き故に努力できるし、好き故に向上心も高まる。ただ「好きなこと」と「仕事」の折り合いがつかないと、好きなことが嫌いになったりする可能性もある…そんな仕事だ。

そしてライフ・ワークは自分が心から取り組みたいことをやって生きていくこと。「天職」だ。
プライベートとの切り分けはなく、仕事だけで楽しみを見出すことができるような…そんな仕事だ。

僕はライス・ワークが嫌なのだろう。

1週間のうち、ほとんどを好きなことをやるのに費やしたい。そして、その好きなことで生計を立てたい
好きなことをもっと上手くなるべく、もっと頑張ってもっと好きになって…そしてもっと稼げるようになったりして。
そういう希望のスパイラルに身を落とし込みたいのだ。

つまりは、ライフ・ワークを手にしたいのだ。
僕が僕であることで生活を成り立たせたい。僕にしか表現できないモノを発信したい。
「会社に週5で行ってしっかり働くのが正しい」なんて意見を真っ向から否定するような生き方を目指したい。

それはとてもロマンのある生き方だ。今の生活では得られない充足感がそこにあると思うのだ。心躍る毎日が待っている気がするのだ。

そんな風に、働き方を悩むだけの日々を送っていた時のことだった。
大学の友人と久々に話していたら占いの話が出てきた。

四柱推命という「生まれた場所と生まれた年と生まれた日付と生まれた時間」から、その人がどんな人間で、どんな未来が待っているのかを知ることができるというモノだ。

四柱推命(しちゅうすいめい)は、中国で陰陽五行説を元にして生まれた人の命運を推察する方法である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

その結果の中に興味深いものがあった。自分の特性を表す要素に
「偏印(へんいん)」
というものがあったのだ。
これは、発想豊かなアイデアマンクリエイティブな才能を持つ人、文章がうまい人などに当てはまる特徴らしい
そして自由気ままな暮らしに憧れ、束縛を嫌う…
まさしく、今現在思っていることに当てはまっていたのだ。

以前から僕は「芸術家タイプ」と性格や職種診断で出る人間だった。エニアグラムではタイプ4が出るような人間だ。

それらはいくつかの質問に回答して割り出される答えだったが、この四柱推命は生まれた場所と日付と時間しか使っていない。
にもかかわらず、芸術家タイプ的な結果が出るのを見ると、もう
「僕はそういう星の下に生まれたのでは?」
という気持ちにすらなった。

それはつまり、僕が憧れを抱いた生活は僕がなるであろう生活で、もはや道は出来上がっている…あとはその道を進むか進まないかの選択だけということなのではないか。
この占いの結果が100%正解という確証は無いけれど、自分の思いを肯定するには充分過ぎるものだった。

決意はできた。あとは道を進むだけだ。

最後に

今はライフ・ワークの為にライス・ワークをする時期だ。それが僕が進むべき道だと思う。

切り替えるにはかなりの時間が必要かもしれない。会社員並みの収入を好きなことだけで稼ぐのだから、当然だろう。けれども、だからといって。それを理由に挑戦しない理由は無い。
千里の道も一歩より進まないことには近づけない。だから僕は、先に進むことを決意した。

着実に進み、間違いなく生活できるだけの収入を得ることができた時、退職届を机に置こう。
仕事を辞めて自由を得よう。
両親との時間をもっと増やそう。
夢を見よう。美味しいものを食べよう。ぐっすり寝よう。前を向いて生きよう。朝日を浴びよう。運動をしよう。映画を見よう。

いつかやろうと思っていたことを、全部やろう。


今に見ていろ。僕は掴む。僕が望む生き方を。

まだ何者でもない僕は、何かに成りたくて文字を打つ。
これから始まる僕の物語に乞うご期待、必ず僕は、成って魅せる。

その決意をここに宣言して筆を置くとする。

成功までの道を進むのは僕ですが、道を作るのは「あなた」です。あなたのサポートが僕の進む道となることでしょう。ありがとうございます。これで理想に1歩近づきます。