【PHILOSOPHIA PERENNIS】「人種差別なき学校」における非イスラム教徒への人種差別 (前半)

2020年3月7日
ある女子生徒Marie A.の体験談
私はヘッセンに住んでいる19歳のドイツ人です。学校時代に私の身に起こったことを皆さんにお話ししたいと思います。これは私の物語です。

当時に私が基礎課程Grundschuleから中等教育学校Weiterführende Schule(あるヘッセンの南にある学校)へ進学したときに、私が経験したのは、まさに環境の急変といったものでした。突如としてクラスの3分の2が外国を出自とする生徒となり、任意でのトルコ語の授業があって、金曜日には多くの生徒がモスクへと通っていたのです。イスラム教が私の人生のうち急に目の前に現れてきました。私の言語表現はすぐさま違ったものとなっていきました。Diggaやey Bruderやma sha Allahやwallahのような「ゲットー・ドイツ語」が、無意識のうちに自分の言葉遣いのうちに取り込まれていったのです。いきなり私の人生の中でイスラム教が存在感をもつようになりました。私はイスラム教徒に取り囲まれていたのです。

第五学年になると私の言葉遣いが深刻に変化しただけではなく、服装までもそうなりました。ブランドに注意を払うようになったことを除いて、私にとってより重要になったのは、自分を「覆い隠す」服を着ることでした。学校時代に私がいつも注意していたのは、他のほとんどの女子学生がそうやって通学しているのと同じように、自分をいつも「覆い隠す」ことでした。そうすることで私は最も安心を感じたのです。短いパンツをはいていたり、上半身が強調されるようなカットの服を着ている女の子は、だらしない自堕落な女だと認定されました。確かに私は夏であっても、短いパンツをはいて学校に行くことはなかったし、いつだって長いズボンとTシャツと、必ずジャケットを着ていました。ワンピースや短いパンツや袖のないTシャツを着ることなどありませんでした。そのような服装は、そこでは「禁忌だった」のです。外が30度かそれ以上の暑さで、汗をかいていたとしても、「保護」のためにはジャケットが必要でした。私は休み時間にTシャツだけで走りまわるのを、恥ずかしく思うようになりました。そんなことをすれば、人からじろじろと観察されるし、また背後で陰口を言われました。私はだらしない女だとは思われたくはありませんでした。

家に帰ったら私はすぐに普段の服に着替えたのですが、とりわけ夏は帰宅するのが楽しみで、帰ったら短めの涼しい夏の洋服を着ていました。その際にはいつも解放されたように感じましたが、学校ではまったく別でした。私の普段着はいたって普通のヨーロッパ人の子供服で、決して非難されるようなものではありませんでした。宗教的な特徴をもった服装規定は、校長によっても支持されていました。ひざ丈の短いホットパンツやタンクトップのシャツを着ることは、校則によって禁止されていました。

当時の中等教育学校には、特別な支援システムがありました。つまりは、そこでは第五学年と第六学年において、ドイツ語と数学と英語という主要教科がそれぞれのコースの分けられていて(A=ギムナジウムGymnasium水準、B=実業中等学校Realschule水準、C=本課程Hauptschule水準)、第六学年の後に、実業中等学校か本課程か、あるいはギムナジウムに行くかが決定されるのですが、私は実業中等学校へと進学しました。このシステムは今ではもう存在しておらず、現在あるのは、すべてを統合した総合学校Gesamtschuleです。その校長はキリスト教民主同盟の党員でした。

生徒たちは集団に分かれていました。それぞれの国籍の人々が自分自身の集団を作っていたということもできます。女の子と男の子は厳密に分かれていました。これらの集団は、とりわけ休憩の時間などは、いつも一緒にいました。総じてイスラム教徒的な性格をもった集団が「束縛の少ない生徒の服装」やドイツ人の男の子や女の子に対して、ひそひそと悪口をいっているのが、私にはわかりました。服装のことだけではなく、女の子が短髪の髪型であったり、豚肉を食べていたり、あるいは誰か付き合っている人がいたりで、というのも同じでした。これらすべてのことが「禁止事項」だったのです。当時に第五学年になったばかりの私は、事態の推移を見守りながら、すぐにそれを察知して、自分に適した集団を見つけたのでした。それによって私は、自分がいじめられたり、アウトサイダーとして隔離されたりしないと、安心をしました。しかしながら、ヨーロッパ人ないしドイツ人の男の子には、何も問題がなかったと皆さんが考えるのであれば、それは間違っています。彼らもまたドイツ人の女の子と同じような問題を抱えていました。服装であれ、行為であれ、自由時間の活動であれ、彼らのやることなすことは何も受け入れられることはありませんでした——彼らはあまりに「ドイツ的」だったのです。服装についていえば、セーターにジーンズという恰好では、あまりにドイツ的過ぎました。服の銘柄を誇示してみたり、あるいはジャージやショルダーバックをもっていたり、木組みの家を建てたり、あるいは何かをのこぎりで切ったり、森の中で遊んだり、自転車に乗ったり、両親とツーリングをしたり、夏にはテントに宿泊したり——あるいは高学年になれば——式典の際にはビールを飲んだり、こういったことはすべてが受容されませんでした。また「ドイツ的な」豚肉の入った弁当用のサンドイッチに対しても軽蔑的なことが言われました。そもそも何もかもが許されず、私たちは「愚鈍なアレマン人」だったのです。

https://philosophia-perennis.com/2020/03/07/rassismus-gegen-nichtmuslime-an-einer-schule-ohne-rassismus/

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