【ユンゲ・フライハイト紙】インタヴュー「パトリオティズムが欠けている」

2020年3月13日
自らの著書『ドイツの自発的な没落』において、サラーディン・コバーンは、数週間にわたって新聞の見出しを賑わしている。ユンゲ・フライハイト紙とのインタヴューにおいて彼が嘆いているのは、政治的左派がパトリオティズムとナショナリズムを区別していないことである。このキリスト教民主同盟の党員は、ドイツ人が自らの過ちから多くのことを学んできたことを証明している。彼によればドイツの文化は20世紀以来、発展し続けてきたのである。

——コバーンさん、著書の出版に関係してのヴェルト紙でのインタヴューにおいて、あなたは、ドイツ人の自己憎悪や多文化主義的な政治について厳しく批判していましたね。それに対する反応はどうだったでしょうか。

サラーディン・コバーン(以下SK): さまざまな政治的な陣営からたくさんの好意的な評価をいただきましたし、さらにはドイツの移民コミュニティからも、そういった声をもらいました。ちなみに私は多文化主義的な政治を論難したのではなく、現在のやり方においては破綻していると説明しただけです。

——どのようにして移民の息子が左派政党ではなく、キリスト教民主同盟に積極的に関与することになったのでしょうか。

SK: なぜそうあってはいけないというのでしょうか。キリスト教民主同盟は、一つの国民政党であって、経済的、社会的、保守的な派閥を統合しています。キリスト教民主同盟は、もしそれは自らが国民政党であることの要求を正しく評価したいのであれば、あらゆる多様性をもった社会を反映していなければなりません。そして思うに、この政党はその使命にふさわしいものです。いずれにしても私にはこの政党がなじむのです。左翼はマイノリティを犠牲者であると考えています。彼らはマイノリティのために無償で働く弁護士であると自任しているのですが、こういった集団がこの種の連帯化をそもそも望んでいるか、ということがそこでは問われることがないのです。それだけではなくデモに対するカルト的な信仰というのがあります。彼らはほんのささいなことでも何でも街頭に立とうとするのです。それはいまでは言うなれば「自撮り(セルフィー)」や自作自演のいくつかの「いいね」のようなものであって、そんなものは誰にも届かないのです。

ナショナルチームの改称は「スキャンダラス」なものである
——あなたからすると、どこにドイツ人の自己憎悪があらわれていて、どうやってそれに出会うことができるのでしょうか。

SK: パトリオティズムが欠けているのです。私たちは国民の休日にそれを繰り返し目の当たりにします。そこではドイツやヨーロッパの国旗は間違った掲示物なのです。政治的左派は、パトリオティズムとナショナリズムを区別しています。ナショナルチーム(Nationalmannschaft)がただの「チーム(Mannschaft)」へと改称されてしまったことなど、スキャンダラスではありません。

——あなたの考えによれば、ドイツの統合政策はどの点が間違っているのでしょうか。

SK: どこにも現実的な出発点が存在しないことです。2020年において私たちとは何ものなのでしょうか。どのようにしてドイツは移民国家になったのでしょうか。私たちは何を学校で教えているでしょうか。なぜ私たちは難民と移民を区別しないのでしょうか。なぜ私たちには何も先導文化(Leitkultur)というものがないのでしょうか。私は1950年代に模範とされたような先導文化を望んではいませんが、それについての開かれた議論を望んでいるのです。2000年代の半ばまで自分たちが移民国家であるというような状況が否定されていました。その代わりになされていたのは上辺だけの論争です。私は喜んでこういった問いを立てるのです。たとえばですが、そもそもイスラム教はドイツに属するものであるのかどうか、というような問いです。その点についてオーストリアは、イスラムについての法律によって、イスラム教に対する解釈高権を、一個のネーションとして要求しています。このことは狭義だけではなく、魂の救済や、たとえば墓地の規則などについても関わっています。それによってモスクに対する外国からの資金援助は止めさせられました。これらはすべて解決を導こうとする方向性をもっています。ただここで言及しておきたいのは、統合にまつわる優れた政治家も存在しているということです。Serap Güler女子などは、たとえばノルトライン・ヴェストファーレン州で統合のために次官として卓越した仕事をしました。

ドイツのための選択肢は市民たちの不安につけこんでいる
——ティロ・ザラツィンが10年前にこう警告していました。ドイツは消滅する、と。あなたは彼の懸念を共有しているのでしょうか。

SK: いいえ。ザラツィンに対する個人崇拝は、この本のタイトルと連邦首相の表現によるところが大きいです。それがなければ、彼の本はせいぜいドイツの歴史の脚注に添えられる程度のものだったでしょう。さらに私は、社会民主党からの追放の手続きの件と彼のいうところの「遺伝」理論についての雑駁な発言をして以来、彼をまじめに受け取ってはいません。また思うに彼の本を買った人々の大半は、それを決して読んでいないのではないかと思います。彼が議論を喚起したということはそれでも重要なことですが、それ以外には彼は統合政策をめぐる論争に有意義な貢献をしているとはいえません。

——あなたは著作のうちで、文化的境界を超えた共通性として郷土愛というものが近くされうる希望について語っています。これは、ドイツのための選択肢やフランスの国民戦線やイタリアの同盟という、いわゆる右派ポピュリズムの連盟が、まさに実現しようとしていることではないのでしょうか。パトリオティズムとナショナリズムは、対立するものではなく、お互いに補完しあうものなのでしょうか。

SK: いいえ。私はあらゆる形態のナショナリズムを否定するものです。とりわけこれらの政党は、市民たちの不安に付けこんでいるのです。ドイツのための選択肢についていえば、彼らのラディカルなレトリックやマイノリティへの軽蔑は、社会のうちにある不安さをけしかけるものです。この政党は、ドイツ連邦共和国の評判や内的な平和を毀損するものだと思います。

——なぜあなたは自分自身を、自分が育ったシュヴァーベン人としてではなくドイツ人として規定するのでしょうか。あなたにとってドイツ人というアイデンティティのもつ魅力の本質は何なのでしょうか。

SK: そのどちらもが私のうちで共存しています。さらには、私は確信をもってヨーロッパ人でもあります。私はここで生まれ、育ち、そしてドイツの公民なのです。私はこの多様な国家の一部だと感じていますし、そのうちで私たちは結合と法と自由とともに共生しているのです。

「記憶の文化はこの国の確固たる構成要素でなければならない」
——ドイツ人は愛想が悪く、無遠慮で、しかもその外見においてなじみのない人々をじろじろと凝視する、とあなたが書くとき、あなたはドイツ人であることのクリシェ的な姿を強調しているのではないのでしょうか。

SK: いいえ、私はその点について数多くの異なった文化的集団から賛意の声を受け取っています。昨日だって、ここで20年以上も働いているアメリカ人の友人が、この点について同意してくれました。

——あなたは、ドイツ人が自分自身の文化を信頼していないことを批判しているのでしょうか。あなたはそれが19世紀と20世紀の恐るべき出来事のほかに、それについての何か理由があると思いますか。

SK: 記憶の文化は常に私たちの国の確固たる構成要素でなければなりません。しかしながら、それは私たちが健全なパトリオティズムを享受することを排除するものではないのです。さらに私たちは自らの過ちから学習をしています。私たちの文化は発展してきているのです。

https://jungefreiheit.de/debatte/interview/2020/es-fehlt-an-patriotismus/

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