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京王線無差別刺傷事件ってやつ

そういうのがハロウィンの時期にあったらしい。どうやらジョーカーに扮した格好で人を刺して、人が逃れられない電車内に火を放ったらしい。

こんにちは。ピヨッペです。不愉快に感じさせてしまったらごめんなさい。なるべく簡潔に書きたいので、それで誤解を招いてしまったらごめんなさい。

作品に罪はない

 散々言われているであろうことを、今更私が言うことに、読んでいる方は何の価値もないかもしれませんが、他ならぬ私自身の為に書きますね。
 作品にも、キャラクターにも罪はありません。起きた事を見れば、容疑者にだけ責任は降り掛かるのでしょう。かと言って、彼だけが悪いとも思えない。
 別に擁護をしたい訳ではない。ただ、一側面だけを見て判断したくないから、そういう意見を言いたいだけです。
 『ジョーカー(2019)』のアーサーの不遇に共感して、容疑者は実行に移したのかもしれない。だからといって、社会が悪いとも言いたくはない。
 容疑者が悪いというのは当然だと思います。実際に被害に遭って、身体や精神に悪影響がもたらされている人がいるのだから。人が死んでいるのだから。作品やキャラクターが悪いというのも犯行を後押しするような影響を与えたというのであれば悪いとも言えるのでしょう。貧困か不遇か実態は全く分かりませんが、そういったことに対する公的な支援が行届いていないと言って社会を悪く言うことだってできるでしょう。容疑者や作品や社会を悪いと言う行為自体を悪いとも言えるんでしょう。でも、私はそれらの様に考えたくはない。
 

では、私は何が悪いと思うのか。

 多分、他者を無意味に傷付けようとする糾弾やそれに準ずる概念です。
 物事を解決する意図を持たず、本質を理解しようとする姿勢を持たずに、ただこれは悪いと言い放つことを好ましいとは思いません。語彙がないので表現が難しいですが、他者(自分が理解しえない全ての事象)であり、糾弾(より善くする意図のない批難)です。

 私たちは他者を言葉や行動などで表現されるものを受け取ることでしか推し量ることはできません。言葉は同じ言語を使う者同士であっても、その語のニュアンスを正確に擦り合わせて、共通の語として了解しあえないことさえあります。言葉の認知の齟齬が生じる以上、言葉だけによって正確に他者の内情を知ることはできないし、嘘をついたりもする。理解し得ない行動の意図は、前後の文脈が無ければ本当に何も分からないし、文脈があってもわからない。

 理解出来ないものはこわい。だからと言って、逃げるのが正解ではないだろうし、糾弾するのも正解ではない様な気がする。どちらにせよ、他者、自分が理解しえない全ての事象を何の理解も示そうとせず、ただ非難をするだけでは、虚しい自己完結に留まり続けるのではないだろうか。多数派が批難する方向と同じ方向に自分も批難をしていれば、共感が得られて快感だろう。でもそこに進歩ってあるんでしょうか。
 本当に今回の事件を悪いと思って、今後また起こらない様にしたい、社会をより良くしたいとかそういう風に思うんだったら、言葉の暴力だけでなく、次に繋がるような提案も一緒に出来たらいいなとは思います。
 
 他者に理解されなかった経験から、紆余曲折あって自分も他者に理解をしようとしなくなる事って往々にしてあるんじゃないかと思います。結果として、自分への理解を持てない他者を攻撃していい、自分にもう一度興味を持ってくれとかそういった感じにもなってしまうのではないかなと思いました。自己完結に陥らず、他者から逃げず、そうしていかないと多分、人生丸ごと空虚で無敵になっちゃうんじゃないかと思います。敵どころか自分すらもはやないのかもしれません。

 理解できない他者はこわくて、自論に反するから糾弾したくもなるだろうけど、理解出来ないからこそ自分にはない新たな価値観として大きな可能性を秘めてるんだと思います。そのへんをもっと考えていきたいですね。


被害者やその関係者には無責任な発言に思えるかもしれません。ごめんなさい。

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