泳げない海亀 #85(Have second thoughts)
皆が聴き入っている。
やがて風が過ぎ去るように音が止む。
一瞬の静寂の後、大歓声が押し寄せた。昇太は初めて笑顔をこぼした。
「ありがとう」
手を上げ、一礼する。
「今日は最高でした」
袖に引き返す間も背後から歓声がとめどなく降りかかってきていた。
✴︎
サンアンドロックフェスティバルの出演以来、昇太には怒涛のような取材とライブの申し入れが殺到した。大きなイベントで有名アーティストを出し抜き、多くの観客を魅了したとなれば無理もない。既にレコード会社数社で昇太の争奪戦が始まっていた。
だが、それだけではない。
「死んだロガーヘッドのボーカルに声が似ている。まるでショウの再来だ」
勘の鋭い者がそう言い出し、瞬く間にネット上で話題となった。
たまたま仕事で海外に出ていたネルソンは帰ってくるなりこの大騒ぎを目の当たりにすると顔を真っ赤にした。昇太を業界から抹殺したネルソンにとって一番恐れていた事だった。
「今安!どういうことか説明してみろ」
スーツケースを引きずりながら社長室へ今安を呼び出すと色をなして声を荒げた。
「申し訳ありません。でも私にも分からないんです。なぜあいつがあのステージに立っていたのか」
ネルソンは口ごもる今安の足元にデスクの上にあった陶器の灰皿を思い切り投げつけた。派手な音が吸い殻と共に散らばる。
「まったく、糞の役にも立たねえな!もしあいつが全てをバラしてみろ。あたしたちは終わりなんだよ!なんでステージに立たせたんだ!」
既に度を失っていた。今度は椅子を蹴り上げ、へたり込んでいる今安に近づくと胸ぐらをつかんだ。
「いいか?全てが公になったら、お前にも責任とってもらうからな」
ネルソンはそう言って今安の頬を平手打ちし、おもむろに携帯電話を取り出し、耳にあてた。
「もしもし、すぐに旧事務所へ来てちょうだい。くれぐれも慎重にね」
✴︎
薄暗い部屋の中でネルソンが終始落ち着かない様子で紫煙をくゆらせていた。
「本当に昇太だったのか?」忍が投げるように聞く。
「昇太なのか?じゃないわよ。あんたも近くで見ていて気付かなかったの?」
ネルソンの言うとおり、忍はかなり近い場所で聴いていた。だが、まさか昇太がステージに立っているとは思いもよらなかった。面影も歌い方も様変わりしていた。忍もビデオを見返して初めて気付いたのだった。
「なんであいつが出られるんだよ。業界から干されたも同然だろ」忍が憤る。
「追い詰めたのはあんた達でしょ。笑わせないでよ」
ネルソンは目も合わさず鼻を鳴らした。
続く
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