映画『怪物』のシャッフル体験からの子供の頃のビックバン的な記憶
小学5年の時にある作文を書いた。
題名をどうしたかは忘れたけど、内容についてよく覚えている。
なぜならそれが初めて、というか最初で最後、職員室の前にはり出されたものだったからだ。
どんなことを書いたのかというと。
わたしがわたしの人生の主人公であるように、この世界のすべての人がその人生の主人公なのか!と気づいたことについてだった。
わたしの人生における準レギュラー的な登場人物であっても、その人から見ればわたしは脇役でしかない。
両親も姉たちも、友達もみんなそうなんだ!
当たり前のことだが、当時のわたしにはビックバンのように衝撃的な気づきだったのだ。
いや、じつは大人になった今でも、ちょっとだけ信じられないでいたりする。
この世界に生きるすべての人が、その人の目線で「この世界」を見ている。ということはその数だけ「この世界」があるということだ。
一つの出来事でも、その人によって見えていることは違うわけだから、そういうことになるだろう。
あまりに膨大で信じきれない。
宇宙の広さを説明されて、頭では何となくわかったつもりでも、なんか想像できない……という、その感覚に近い。
その真実の一端を掴みたくて、わたしは映画やドラマを観たり、小説やノンフィクションを読んだりしているように思う。
もっと言えば、誰かとかかわり、誰かといろんな話をすることも、畢竟そこに辿り着く。
繰り返すけど、自分以外の人が、その人の目線で世界が見えている、動いているって、わかっているんだけど、やっぱりなんというか、想像できるようでできない! ってなってしまう。
この感覚、共感してもらえるかな?
だからわたしは物語を書いているのかもしれない。
なぜそんな古い記憶を引っ張り出されたのかというと、『怪物』を観たことが引き鉄だった。
是枝裕和監督の最新作、脚本は坂元裕二さんが手掛けている。
是枝監督と坂元裕二さんの化学反応が生み出すものにワクワクしながら映画館に向かったわけだ。
一瞬たりとも意識を削がれることがなく、その世界に引き込まれた。
そんな甘いものじゃないか。胸ぐら掴まれて引き摺り込まれたというのが正確。
これから観る人の支障になりたくないので具体的なストーリーを書かないでおくけれど、ある一定の日々を、複数の視点から描いみせる。
こういう手法はこれまでも多くあるし、目新しいわけじゃないはずが、
けれど、衝撃的だった。
何が衝撃的だったのか、見終えてからしばらく考えたのだが、視点が変わるごとに善悪の判断が完全に逆転する(させられる)からだろう、と思う。
さっきの視点で「正義」だったものが、次の視点で「怪物」になる。
逆もしかり。
「怪物」に見えていたものが、視点が変わったことで「正義」となる。
2時間強の劇中で、善悪の価値観が何度も何度も覆されて、いったい何が「正義」で「怪物」なのかわからなくなるという、
思考とか感情とか道徳とか常識とか、自分が生きていく上で「当然じゃん!」と思えていた自分の価値観がシャッフルされる、そんな体験が、わたしとしては衝撃的だったのだろう。
それにしても、坂元さんの生み出す台詞の凄さよ。
台詞というのは波動そのものだな。
ダイナミックなものはガツンと来るし、細かい揺らぎであれば心の深部に届く。
その波動があまりに微振動だから揺さぶられていることに気づかないくらいなんだけど、でもずっとずっとずっと、長く、揺さぶられ続けていて、だから思いがけないシーンで、ふと、表面張力を超えたように、わけもなく涙が出てきたりもする。
ネタバレにならないようにしたいが、校長である田中裕子の台詞は圧巻だった。
ガツンときて、長い微振動を残す。
直下型地震みたいな。
『そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもないしょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの』
この台詞の意味をしばらく考え続けている。
誰かや、何かに、嘘をついてまでして手に入れたものは、自分を幸せにはしてくれない。
嘘をつかなくてはいけない世界ってなんだろう。
嘘をつかずに手に入れたもので、自分を幸せにできる、そういう世界で生きられるほうがいいに決まっている。
でもそれができないこの世界では、誰の中にも「怪物」が潜んでいるのだろう。
引用:『怪物』
脚本 坂元裕二
監督 是枝裕和
著 佐野晶 宝島社
2023年5月 初版発行
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